いなくなったその日

あの日以来、俺はあげはと夜を過ごすようになった。


「お茶です」


「ん」


カップを持って、菓子の用意をするあげはの後ろ姿を眺める。


もう何度、彼女に触れたのだろう。


彼女は、自分の背中ーー俺がつけたその跡ーーに気づいていないだろう。


自分のものだと言うように、俺はあげはの背中に何度も跡をつけた。


バカなことをしてるよな、自分の印を彼女の背中にわざわざつけるなんて。


でも、何故かつけないといけないと思った。


彼女が逃げてしまうような気がしたから。


彼女が遠くへ行ってしまいそうだったから。


だから、跡をつけた。


消えそうになったら、また跡をつける。


本当によくやるもんだな…と思いながら、俺は静かに椅子から立ちあがった。


「ーーあげは」


あげはの背中に歩み寄ると、耳元で囁いた。


「ーー血が欲しくないか…?」


2人だけしかわからない秘密の言葉を彼女の耳元で囁いた。


「――ッ…」


あげはの唇が離れる。


痺れにも似た甘さの余韻を感じながら、

「別に、遠慮しなくてもいいんだぞ?」

と、あげはに言った。


あげはは唇の端についた血を親指でぬぐいながら、

「遠慮なんかしていないです」

と、言葉を返した。


「――俺は、どうなったっていいんだよ…」


小さく呟いた声は、あげはの耳に届かない。


俺は、殺されたっていいと思ってる。


あげはに魂を奪われるんだったら、それで構わない。


血だけじゃなく、躰も心も奪われるんだったら構わない。


「ーーあげは…」


そっと、彼女の腰に俺は自分の手を回した。


細い腰だと思った。


うっかり力を入れたら、折れてしまいそうだ。


こんな細い躰で、本当に事件を起こすことができたな。


そう思いながら俺はあげはの頬に手を伸ばすと、親指でゆっくりと唇をなぞった。


「――ッ…」


見る見るうちに、あげはの頬は紅く染まった。


もう重症かも知れない…。


それだけで理性が消えて、本能が煽られる。


「――んっ…」


唇同士が触れた瞬間、あげはの躰が震えた。


触れるだけのそれはすぐに離れる。


「――正宗様」


あげはが言った。


「どうして、何も言わないんですか?」


それは、どう言う意味なのだろう?


訳がわからなくて黙っていたら、あげはが続けた。


「わたしは、吸血鬼です」


「わかってる」


だから何なのか。


そんなことは、もうわかってる。


「人間の血を食らう吸血鬼を、世間に出そうと思わないのですか?」


そう言ったあげはは、真剣だった。


「わたしは、指名手配中の吸血鬼です。


何人もの人間を殺してきました」


まだ何か言いたそうなあげはを、

「お前は何が言いたいんだ?」


俺はさえぎるように言った。


「吸血鬼だから何だって言うんだ?」


そう言った後で腰に回っているその手の力を強くした。


「俺はお前を世間に出すつもりはない…これから先も、だ」


言い終わると、俺は真っ先に彼女の唇をふさいだ。


「――んっ…」


深く、深く…堕ちるところまで堕ちる。



カーテンの隙間から差し込んできた眩しい光に、俺は目を開けた。


そっと隣に手を伸ばしたら、

「――あげは?」


そこにあったはずの温もりがないことに気づいた。


昨日もいつものように過ごした後、あげはを腕の中に収めて眠ったはずだ。


「ーーいない…?」


そこに彼女はいなかった。


ベッドの下には、脱ぎ散らかした服が紙くずのように散らかっていた。


服は俺のだけだった。


先に起きたのだろうと思いながら、俺はベッドから降りた。


「谷田部」


服を着替えると、朝食の用意をしている谷田部に声をかけた。


「何でしょう?」


「あげはを見なかったか?」


俺の質問に、谷田部は不思議そうな顔をした。


「誰ですか?」


谷田部は首を傾げた。


「誰ですかって…ここで働いていた女がいただろ、俺が道端で倒れてたからって言って運んできて」


「はて、知りませんね」


あげはを知らない、だと?


「正宗様、寝ぼけていらっしゃるのですか?」


そう聞いてきた彼に、俺は首を横に振った。


「そんな子、いませんでしたよ。


何かの間違いじゃないのですか?」


メイド長に聞いても、谷田部と同じ答えが返ってきた。


「けど、俺の専属として雇った女だぞ?


知らない訳が…」


「いいえ、知りません。


正宗様、疲れているんじゃないんですか?」


やっぱり、一緒の答えが返ってきた。


その後、使用人に全員聞いて回った。


当然返ってきた答えは、「知りません」の一言だけであった。


一体、あげははどこに消えてしまったのだろう?


頭を抱えても出てこない。


あの時、倒れていたあげはを俺は拾った。


拾った彼女を俺の専属メイドとして働かせた。


彼女の秘密を知って、一夜を共にした。


何度も、何度も、深く、どこまでも堕ちて行ってしまいそうな夜を過ごした。


そして今日、朝起きたら跡形もなくどこかへ消えてしまっていた。


まるで…最初からそこにいなかったと言うように、煙のように彼女は消えてしまっていた。


「――あげは…」


その名前を呟いた。


お前は、どこに行った?


どうして、消えてしまった?


離したくなかった。


逃げて欲しくなかった。


消えて欲しくなかった。


でも、彼女は消えてしまった。


どこかへ逃げてしまった。


蝶のように、どこかへ飛んで行ってしまった。


「正宗様」


コンコンとドアをたたいた音と同時に、谷田部が声をかけてきた。


「何だ?」


「章子様がお見えです」


章子だと?


俺が会いたいのは、あげはだけなのに。


そう思ったのに、部屋のドアは開かれてしまった。


「ーー章子…」


「お久しぶりです、正宗様」


派手な化粧に、派手なドレス――あげはとは正反対の格好をしている章子が目の前にいた。


「何の用だ」


俺が聞くと、

「正宗様の体調が優れないとお聞きして参りました」

と、章子が答えた。


「体調が優れないって…」


誰がそんなことを言ったんだよ。


そんなことを心の中で呟いたが、ふと思い出した。


そうだ、章子なら何かを知っているのかも知れない。


「章子」


「何ですか?」


「ーー吸血鬼の事件、どうなった?」


俺の質問に、章子はクスリと笑った。


「何がおかしい?」


「ごめんなさい、正宗様があまりにもおもしろいことをおっしゃるものですから」


おもしろいことって、吸血鬼のどこがおもしろいと言うのだろうか?


「確か、血のない死体が出てお前の親父さんが追っていると」


俺がそう言ったら、

「正宗様ったら、怪奇小説の読み過ぎですわよ?」

と、嗜めるように章子に言われてしまった。


章子も知らない…?


「それに血のない死体なんて出ていませんわ。


むしろ平和が続き過ぎて暇で暇で仕方がないってぼやいているくらいですわ。


何かおもしろい事件が起こってくれないかなんて、お父様ったら少年みたいなことをおっしゃっていらっしゃるのですのよ?」


楽しそうに笑いながら話している章子に、俺は何も言い返せなかった。


いや、何も言えなかった。


誰もあげはのことを知らない。


それだけじゃない、吸血鬼の事件すらもなかった。


最初からあげはの存在も、吸血鬼の事件も、何もなかった。


まるで、そこだけ切り取られてしまったかのようだ。


「それにしても、どんな怪奇小説をお読みになっていたのですか?」


章子の質問に、俺は何も答えられなかった。

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