黒猫を拾った

すっかり日も暮れて、空を見あげると黒い色に染まっていた。


街灯が静かに街を照らしていた。


執事が運転する迎えの車で帰るくらいなら、1人で歩いて帰った方がまだマシだ。


「――吸血鬼、か」


街中を歩きながら、俺はそんなことを呟いた。


そいつは一体どんなヤツなのだろうか?


男女関係なく無差別に血を奪うくらいだから、とんでもない大悪党か?


そんなヤツに会えるなら、俺は迷わず自分の血を提供してやる。


そう思っていた時、

「――ッ…!?」


足に何かが躓いて転びそうになってしまった。


「全く、何だよ…」


そう思いながら地面に視線を向けると、

「――女…?」


足元に女ーーいや、女の子と言った方が正しいかも知れないーーが転がっていた。


まだ幼さが残る顔立ちをした女の子が地面に倒れていた。


年齢を考えるとするなら、19か20くらいだろうか?


俺はかがみ込むと、彼女の肩に手を伸ばした。


「おい、こんなところで寝てたら風邪をひくぞ?」


声をかけて肩を揺すってみたが、彼女から反応はなかった。


まさか、例の吸血鬼に襲われたのか?


そっと首筋に手を伸ばして見ると、そこは動いていた。


どうやら、吸血鬼に襲われたと言う訳ではないらしい。


でも、彼女には何の反応がない。


「――クソ…」


俺は毒づくと、彼女の躰を抱きあげた。


彼女を抱えて屋敷に帰ると、

「おかえりなさいませ…って、正宗様!?」


メイドが驚いた声をあげたのを無視すると、俺は中に入った。


「道で彼女が倒れていた、すぐに手当ての用意をしろ」


そう言った俺に、

「は、はい!」


パタパタと慌てたように足音を立てながらメイドが駆けて行った。


俺は彼女を自分の部屋に運ばせると、ベッドに彼女を寝かしつけた。


一体、何があって倒れてたんだ?


そう思いながら彼女の顔を覗き込むと、ドキッ…と俺の心臓が鳴った。


目鼻立ちのはっきりとした整った顔立ちに厚くもなければ薄くもない紅い唇、白い肌はまるで新雪のようだった。


それら全てのパーツに映えるような長い黒髪は1本1本が手入れされているようで、俺は思わず手を伸ばした…けれど、伸ばしかけた自分の手をひっこめた。


彼女は何かに似ているような気がする…けれど、何に似ているのだろうか?


そう思っていたら、

「正宗様、持ってきました!」


部屋にメイドが入ってきた。


「ああ、後は俺がやるから…」


――えっ…?


自分の口から出てきた言葉に、俺は驚いた。


誰がやるって…?


「――そ、そうですか…?」


俺の言葉に戸惑いながらも、メイドは部屋を後にした。


――俺がやるって、彼女の手当てを?


どうしてそんな言葉が出てしまったのかは、自分でもよくわからない。


でも…何故か俺以外の人間に彼女を触れさせたくないと思ったし、さわって欲しくないと思った。


何をバカなことを言っているのだろうと思っていたら、

「――んっ…」


声がしたので視線を向くと、彼女がベッドから起きあがっていた。


「――あれ、わたし…?」


彼女は訳がわからないと言うように、キョロキョロと首を動かしていた。


「倒れてたんだよ」


そう言った俺に、彼女は視線を向けた。


「お前が道で倒れていたから俺が運んだ、ここは俺の部屋だ」


そう言った俺に、彼女は目を伏せた。


「俺は黒川正宗(クロカワマサムネ)、お前は?」


自分の名前を言った俺に、

「――わからない…」


小さな声で、彼女が言った。


「はっ?」


そう聞き返した俺に、

「わたし、自分の名前がわからないの…」


彼女が呟くように言った。


自分の名前がわからないって、どう言うことなんだ?


「わたし、どうして倒れていたの?」


両手で頭を抱えている彼女はパニックになりかけている。


これが所謂、記憶喪失と言うヤツなのだろうか?


彼女は道で倒れていた理由どころか、自分の名前までもわからない。


「待て、そうパニックになるな」


俺は頭を抱えている彼女の手をつかんだ。


そのとたん、俺はハッと我に返った。


…俺は今、何をしているんだ?


自分で彼女に触れていることに、俺の躰がざわめいた。


ゾッと寒気がしたとか、そう言うものではない。


でも何故か彼女に触れたとたん、俺の躰はざわめいた。


「無理に思い出そうとすると躰に悪い」


そう言って、俺はつかんでいた彼女の手を離した。


「とりあえず、お前を外に出歩かせることは無理だな」


彼女は記憶喪失なうえに自分の名前すらわかっていない。


ましてや、世間では吸血鬼の事件が流行っている。


「お前をここに置いておく。


ただし、置いておくからにはちゃんと働け」


「…はい」


彼女が首を縦に振ってうなずいた。


「いいか、明日からお前は俺の専属メイドとして働け」


俺はたった今言った自分の言葉に耳を疑った。


話を切り出すと、

「困ります、そんなの!」


メイド長が悲鳴のような声をあげた。


「彼女を正宗様の専属として雇わせるなんて、ムチャを言わないでくださいな!」


普段声を荒げることのない谷田部も珍しく声を荒げている。


「主人である俺が決めたことだ、お前たちに否定される筋合いはない」


そう言った俺に2人は顔を見あわせた。


「けど、このことが旦那様のお耳に知れたら…」


そう言ったメイド長に、

「父上には猫を1匹飼うことになったとでも言えばいい」


俺は言った。


猫――ああ、そうかと俺は納得した。


何かに似ていると思った彼女は、黒猫に似ていたんだ。


指通りのよさそうなあの黒い髪がまさにそうだ。


「それに、お前たちは名前すら覚えていない彼女を吸血鬼のエサとして差し出せと言うのか?」


そう言った俺にメイド長と谷田部は口を閉じた。


「そんなことは…」


何かを言おうと谷田部が口を開くも、言葉が続かない。


「とにかく、明日から彼女を俺の専属として働かせる。


彼女に仕事を教えるのは俺だ、それでいいな?」


俺の言うことに、メイド長と谷田部はようやく首を縦に振ってうなずいたのだった。


話を終わらせると、自分の部屋に戻った。


俺が部屋に足を踏み入れたとたん、それまでベッドに座っていた彼女が俺に視線を向けてきた。


黒目がキレイな二重の目は、うっかりしたら吸い込まれてしまいそうだ。


「たった今、話をつけてきた」


俺は彼女の前に歩み寄ると、彼女と目線をあわせた。


「お前は明日から俺の専属メイドとして働く。


俺が指導をするから仕事内容をちゃんと覚えるように、いいな?」


そう言った俺に、

「はい」


彼女が返事した。


「それから、お前には名前がなかったんだよな?」


そう言った俺に、彼女が首を縦に振ってうなずいた。


「今からお前に名前をつけてやる。


いつまでも“お前”ばかりじゃ嫌だろう?」


名前はすぐに浮かんだ。


「“あげは”だ」


「――あげ、は…?」


彼女――あげはが不思議そうに聞き返した。


「あげは蝶と言う昆虫からとったんだ。


嫌だったか?」


そう言った俺に、あげはは首を横に振った。


「嫌じゃありません、とても気に入りました」


「そうか」


気に入った、か。


彼女を見て感じた印象でパッと思いついた名前が、あげは蝶だった。


うっかりしたら、すぐに逃げて行くそれだ。


どんなに手を伸ばしても、簡単につかまえることはできない。


だから、あげは蝶だった。


飛んで行かないで欲しい。


逃げないで欲しい。


そんなことを思っている自分に、俺は思わず笑った。


ーー自分が彼女に抱えているものを何も知らならなかった。

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