06.ヴァイセン・ジュラーク
ヴァイセン・ジュラークが思いの外丁寧な人だったので、
「……
「ミナ……セーラ? すまない、どちらが名前だろう?」
「ああ、えっと、星羅です。セーラ。セーラ・ミナカミ、といったほうがわかりやすいですか?」
「ミナ……ミ、ナ……。なるほど、セーラ殿」
名字をやたら発音しにくそうにしたヴァイセンは、ひとつ唸るとあっさりと名字で呼ぶことを放棄して、丁寧に名前を呼んだ。
学生時代は絶妙なキラキラネームであることに嫌気が差したものだが、欧米系の言語でも発音しやすい名前、という点では重宝したかもしれない。
「それで……頼みたいことってなんですか?」
自己紹介はともかく、問題はそこだ。
いかにも位の高そうな軍人風の男の人である。そんな人がわざわざ地下牢までやって来て、頼みたいことがある、などと言い出した。
きっとろくなことではないだろう。
星羅が身構えると、しかしヴァイセンは折り目正しくうなずいたのだった。
「その件だが。セーラ殿、あなたにもう一度、ヤスミーンさまの治療を行ってほしいんだ」
「……ですから、わたしは医者でも看護師でも、ましてや保育士でもないんですってば。特にあの姫さまとやらを助ける能力はないんです。だから投獄されたんでしょう?」
医者や保育士でなくても、お菓子を作るのが得意だとか、ハンドメイドが得意でぬいぐるみを作ってあげられるだとか、とにかく突出した能力があれば、きっともっとマシな待遇を受けられたのだろう。
星羅にはそのどれもないから、ただ叫ぶだけ叫んで投獄されたのだ。それをもう一度しろとは、また笑いものになれと言われているようでつらかった。
だが、ヴァイセンは至極真面目な顔で首を振ってみせたのだった。
「いいや。あなたは昼間、ヤスミーンさまの周囲の環境について指摘しただろう。それを実践してほしい」
「――は? あ、や、ちょっと待ってください。あの場にあなたは……」
思い返しても想像以上にテンパっていたから自信はないが、あの場には女性ばかりがいたはずだ。いくら焦っていて、薄暗く見通しも悪かったとはいえ、こんなに背の高い存在感のある男性がいたのなら気づいていたと思う。
星羅が頭を悩ませると、ヴァイセンはほんのりと笑って言った。
「私もいたんだ、あの場に。姫さまの護衛だからな。さすがに女性の身支度の場に堂々と居座るわけにもいかないから隅のほうに身を寄せていたが」
「ああ……え、じゃあわたしがあの場で投獄されたのも見てたってことですか」
フリースタイルラップよろしく――決して姫さまとやらをディスったわけではないのだが――叫び、国王とやらと唾を飛ばし合って言い争っていたあの場に。
冷静に考えるととんでもなく恥ずかしい。
「あ、いや、すまない。私も驚いてあの場で止められなかったんだが……」
ヴァイセンはなにを思ったか慌てて言い訳する。
あの場にいてどうして国王を止めてくれなかったのか、と、責められたと思ったらしい。
「陛下が召喚術を望んでいたことは事前に知っていたが、まさか本当に成功するとは思っていなかったんだ。……その上、召喚されてきた方が一番真っ当なことを言う。驚いて出遅れてしまった。すまない」
「いえ、助けてもらえると思っていたわけではないんですが……。真っ当、とは……?」
まさにそのことなのだ、とヴァイセンは真剣にうなずく。
「私も、常々ヤスミーンさまへの周囲の有り様に疑問を抱いていた。姫さまは幼い。お母上を亡くされたお気持ちはそう簡単に整理できるものではないだろう。その上、喪に服すとはいえああも暗い部屋に閉じ込められていたら、余計に気もふさぐのではないだろうかと思えてならない」
「それは本当にそう」
思えてならないのではなく、真面目にそうなのだ。
「こちらの国? ええと、世界? での常識はわかりませんが、わたしのいるところでは、国によっては日照時間が短い高緯度の国に住む人はうつになるという統計もありまして」
「コーイド? というのはよくわからないが、すまない」
どういう文明の発達の仕方をしているかはわからないが、緯度経度の概念はないらしい。
星羅は頬をかいた。
「いえ、すみません。もっとわかりやすい言葉でさっと説明できないこっちが悪いので……。えっと。住む場所によっては、冬になると日が昇らない場所があるんです。正確には、昼間でも太陽が沈んだ直後の夕暮れ時みたいな薄暗さしかない、と言いますか。その薄暗い時間も短くて、昼間にようやく薄暗い程度に明るくなってきたと思ったら、昼過ぎには日が沈んで真っ暗になってしまうんです。そういう地域に住む人は気持ちが落ち込んで病気になりやすいんですよ。太陽の明るさによって人間の気持ちが左右されるってことが医学的に証明されてるんです」
実際、本当に証明されているのかどうかは知らない。
だが、北欧などで冬にうつなどの問題が深刻、などという話はちらほら聞くし、なにより日本でも〝冬季うつ〟という言葉がある。
あれは寒くて気持ちが落ち込むのだったか、メカニズムは忘れたが、とにかく、気象状況と人の精神は大きく関係しているのである。
どう説明したらわかってもらえるかと星羅が頭を悩ませながら口にすると、ヴァイセンは納得したようにうなずいた。
「ああ、極夜のことか」
極夜と言えば良かったのか。回りくどく説明しすぎた。
星羅がさっと顔を赤くすると、ヴァイセンは薄く笑む。
「極夜と人の心理的な動きが連動することは初めて聞いた。異世界から召喚されたというあなたと我々が同じ人間かどうかにもよるが、少なくとも、言葉は通じるし、見た目に特に違いは見られないように思う。だとしたら、あなたの常識も我々の常識とさほど変わらないだろう。――やはり、姫さまのあの環境は悪影響を及ぼしそうだな」
「あとは、あの女の人たちもです」
「侍女たちだな。……それは私も思う。彼女たちは彼女たちの仕事をしているだけだから、決して排除したいわけではないのだが」
「はい。まあ、一生懸命なのだろうと思います。ですが、今の姫さまには悪手でしかないように見えました。粗相をしたことを責めている人もいましたが、姫さまくらいの年頃なら健康な子供でもおねしょくらいはしますし、子供自身にも失敗したなと落ち込んだり恥ずかしく思う気持ちはあるんですよ。その上からあんなに責められたら余計に気落ちしてしまいます」
「やはりそう思うか。実は何度か侍女に似たよなことを言ったことがあるんだが、私は世話係ではないからな。部外者が余計な口出しをするなと一蹴されてしまった」
既にこの国の人でも星羅と同じことを指摘していたんじゃないか。
星羅は、あの大勢の侍女たちの誰もヴァイセンの言葉に耳を傾けなかったことに憤ると同時に、この国の人でも気づけることしか指摘できない自分の無能さに羞恥を覚えた。
ヴァイセンは続ける。
「姫さまの詐病だと噂する者もいる。陛下がもっとも懸念しているのはこの点だ。唯一の王位継承権を持つヤスミーンさまに、気違いだとか怠け者などという噂が立っては困るのだ。病に臥せっていらっしゃる、というほうがまだ外聞が良い。陛下自身もそう信じたいのだろう。だから姫さまのあの状態は病で、こうすれば治る、と実際に治してくれる者をほしがる。……召喚術などという怪しげなものにまで頼って」
姫の評判が落ちては国の面子が成り立たない。だから星羅が喚ばれたのか、と理解する。理解はしても、到底納得はできなかったが。
ヴァイセンは息をつき、その場に腰を下ろした。
立派で高級そうな衣服をまとっているのに、こんなかび臭い湿気った床に座り込んで良いのだろうか。
星羅は慌てて腰を浮かしたが、ヴァイセンは座り込んだまま、艶やかな黒い頭をしっかりと下げたのである。
「陛下もあなたに頼る他もう手立てはない。もう一度取り成せばあなたの言葉にも耳を傾けてくださるはずだ。だから頼む。もう一度、セーラ殿の思う治療を姫さまに施してはくれないだろうか」
「いえ、ですから治療では……」
星羅は大いに戸惑った。しかし、つい口からこぼれ出た言葉を寸前で飲み込んだ。
ここから救い出されるチャンスが与えられるのなら、願ってもない話だ。
本当は、期待をかけられても自分になにかができるとは思えなかった。
しかし、ここで簡単に「できない」と断るのは悪手だということもわかっていた。
ちょうど今、この獄中で、これからやるべきことを整理していた最中だ。今こそ、それを引き合いにするべきときではないだろうか。
「……いくつか条件があります」
「なんなりと受けよう」
「ひとつ、姫さまの改善が見られる、見られないにかかわらず、わたしの死刑を取り下げてください。ふたつ、改善が見られなかった場合は速やかに、改善が見られた場合はその時点で元の世界に返してください。別の手段を考えるのはあなたがたであって、呼びつけられただけのわたしではありません。みっつ、わたしが元の世界に帰れるまで、衣食住の十分な保証をお願いします。十分な、というのは、清潔で動きやすい衣類を複数用意していただくことと、飢えることなく過ごせるだけの食事の提供、清潔で安全な部屋と、毎日快適な睡眠が得られる環境を整えていただくことです。過不足なく細かく決めたいので、あとでちゃんと書き出しますね」
こういうのは最初が肝心だ。
適当なことを言うと、あとであれが足りない、これが余計だと面倒なことになる。契約書はしっかり作成しなければならないだろう。
思いつく限り自分に有利な条件を書き出さないと、と内心で計算を始めると、ヴァイセンははっきりと弓形になった眉を寄せ、難しそうな顔をした。
「衣食住に関しては心配いらない。私の屋敷に留まっていただくつもりだ。不自由なく過ごせるよう計らおう。それから、死刑の取り下げに関しては私から陛下へ口添えをしよう。……だが元の世界に返せるかどうかは、すまない。私は召喚術には詳しくないんだ。どのような術式で、どうやって送り返せるものなのかわからない。だから今ここで確約することができない」
星羅はすこしばかり肩の力が抜けた。
律儀な人だな、と思ったのだ。
星羅がいくら条件を立てたところで、肩書や立場は何もかもヴァイセンのほうが優位なのである。彼、そしてこの世界の人から見て、現在の星羅はただの死刑囚でしかないからだ。
口先だけでいくらでも約束して、あとで覆すことなど容易なはずなのだ。
それを、どれができてどれは確約できないと最初に正直に口にしてくれる。それだけで、少しだけ彼を信用しても良いような気がしていた。
「一番の望みは無事に元の世界に返してもらうことなんですが……。まああとで王さまに直接確約していただければそれで良いです。ヴァイセンさん……さま? には衣食住とわたしの身の安全を保証していただければ、もう一度姫さまの環境改善には努めます」
「うん。よろしく頼む」
ほっとした顔のヴァイセンは、険が取れてどこか幼く見えた。
おそらく二十代だとは思ったが、もしかしたら彼は二十歳前後の青年なのかもしれない。だとすると、星羅より十歳も年下なのだ。しかし彼の口ぶりと言い、衛兵の態度と言い、とてもそんな若い人には思えない。
少なくとも、この人は国のかなり中枢に近い人物のように思える。
――たぶん、彼の後ろ盾を得られるなら得ておいたほうが後々絶対に有利に立ち回れるだろうな……。
十年以上社内の組織的な人間関係をくぐり抜けてきた星羅の勘が訴えている。ヴァイセンとは仲良くしておいて損はないだろう。
星羅は粛々とヴァイセンに従いながら、頭の中で彼をどううまく利用するか、必死に考え始めていた。
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