07.落ち込んでいるときほど夜は眠れないもの

 地下牢を出る際に一悶着はあったものの、ヴァイセンが一言「責任は私が持つ」と宣言するだけで、衛兵たちは狼狽えながらもひとまず引き下がった。


「あの……ヴァイセンさん……さま……? ええっと、不躾ですが、一体どういったお立場でいらっしゃるんでしょうか」


 ヴァイセンは若く見える。年の頃合いは二十代、下手したら二十歳前後である。だというのに、すれ違う人みんなが彼に対して下にも置かない態度を取った。彼の父親ほどの年齢の人でさえ、だ。


 セーラの投獄は勅命だったはずだ。それを国王の許可なく連れ出し、その言い訳も事後報告で済ませておくと言って通用する立場の、二十歳前後の青年。国の中枢に近いと想像はしたものの、セーラの予想以上かもしれないと恐る恐る尋ねると、ヴァイセンは整った顔立ちに微苦笑を浮かべた。


「私はどちらでも構わないのだが、さま、としておくほうが外聞が良いと思う。現在はこのハイデルラント王国第一王女にして王位継承権第一位であらせられるヤスミーン王女の護衛兵――ただの私兵だ」

「周りの人の態度がただの私兵で済ませてくれてませんよ」

「まあ、そういうことにしておいてくれ。いろいろと面倒なんだ」

「説明放棄された……」

「私のことより、姫さまのことだが」

「ヴァイセンさまのことについてもあとで伺いますからね!」

「姫さまが安らかにお休みいただけた際にはいくらでも」


 息が切れるほどの長ったらしい階段を登り、ようやく外へ出る。

 あたりは既に真っ暗だった。


 足早に王女のもとへ急ぎながらヴァイセンが説明してくれたところによると、セーラが投獄されてから半日ほどが経ったらしい。

 王女はあのあと、ろくに起き上がれず、食事も取らず、結局いつもの教育もままならずに就寝時間となった。


「だが、この段になって眠れないとお泣きになっている。いつものことなんだがな。侍女たちもよく眠れるように香を焚いたり温かい飲み物をいれたりしているが、効果があった試しはない。結局そうして明け方まで過ごされるときもある」

「だから朝起きられないんですよ」

「私もそう思う。ひとまず、それをどうにかしてほしい」

「…………」


 既に昼夜逆転した、母親を亡くして傷心中の四歳児を寝かしつけろ、という。たぶん、二十四時間つきっきりで子供の面倒を見ているベテランの母親だって無理だとキレるだろう。

 セーラは初っ端から無理難題を言い渡され、早くも死刑免除は無理かもしれない、と泣きたくなった。


「……もう昼夜逆転しちゃってるんで今夜いきなり寝てもらうってのは無理があると思うんですけど、せめて落ち着いてもらえるようには頑張ってみます……」

「そのくらいで良い。姫さまがお泣きになるので侍女たちもつられて感情的になっていて、侍女たちが騒ぐのでまた姫さまが恐慌状態になられる、の繰り返しでな」


 ヴァイセンも今夜から劇的に変わることを期待してはいない。それが伺えただけでも少し安堵した。


「もしかして、侍女さんたちは眠れないことをまた責めてたりするんですかね」

「私の目にはそう見える。侍女たちも必死なのはわかるんだが」

「……わあ……」

「できれば、侍女たちのこともあまり責めないでやってほしい。彼女たちも限界なんだ。姫さまになにかあれば一番に能力不足を疑われ、罰を受けるのは彼女たちだから」

「ああ、なるほど」


 確かに、王女の生活に関して責任を負っているのが彼女たちならば、彼女たちこそが一番困っているだろう。

 あの国王でさえ、セーラが一瞬叫んだだけで死刑だと唾を飛ばして騒いでいた。彼女たちの首が飛ぶのも時間の問題なのかもしれない。比喩であればまだマシ、とも言えないが、物理的に飛ぶ可能性だってある。なにせ、この国のトップは自分でセーラを呼びつけておいて即死刑を命じたあの国王である。


 きっとみんな、必死になりすぎて全体的におかしな方向へ剥いてしまっているのだろうな、と少々の哀れみを抱きながらふたたび王女の部屋へと到着して、セーラはその惨状に絶句するしかなかったのだった。



 *



「姫さま、ですからあれほど朝にお起きくださいとお願い申しましたのに……」

「姫さま! ベッドにお戻りください!」

「だって、ねむれないの」

「裸足で歩き回らないでくださいませ!」


 阿鼻叫喚。王女の部屋の様子は、そんな表現がぴったりな絶望感だった。

 四歳の子供が眠れないからと泣いて、それを叱りつけるのはどう考えても悪手だろう。子供や子育てとはとんと無縁なセーラだって、それが良い結果にならないと想像できる。


 一方で、毎晩続く攻防に辟易しているのは侍女たちも同じなのだろう。終わりの見えないヒステリックな日常に疲弊し、感情的になってしまっている自分たちに気付けない。

 眠れないとしくしく泣きながらとぼとぼと所在なく歩き回る小さな王女と、それを阻止する侍女、なにやら敷物を持って来るよう指示する侍女、バタバタと走り回って布を持ち回る侍女、水差しのようなものを持って近づこうとした侍女。


 傍目に見ても、とてもこれから眠りにつこうという現場ではない。遅刻確定十分前に目が覚めたときの焦燥感と鬼気迫ったあのときの勢いと同じだ。

 ここでも、セーラは昼に見たときのような強烈な違和感を覚えた。


 ――なんだろう。これだけ大騒ぎしてるのに。なんでそれをしちゃうかな、みたいな焦りっていうか……。


 これだけの侍女たちがいて、ヴァイセンがセーラを伴って現れたことに気づく者は誰もいない。いたかもしれないが、それにかまけている暇もないのだ。


「ああ」


 誰も王女に目を向けていないのだ。

 これだけの侍女たちが王女の不調に大わらわになっているのに、この場にいる誰ひとりとして王女が今どんな顔をしていて、どこにいて、なにをしているのかを見ていない。王女のためにすべきことを指示し、そのために走り回っているのに、肝心の彼女には目もくれていないのである。


 だから素足でふらふらとテーブルに近づいた彼女が、自身の目線よりも高いそこに湯気を立てるティーカップが置いてあることにも気づかず――。


「危ない!」


 考えるよりに先に絶叫し、セーラは反射的に小さな子供を引き寄せていた。

 その拍子に身体の一部がテーブルに触れたのだろう。ガチャンと陶器が大きく弾ける音がして、子供をかばった腕に熱気が広がった。


「姫さま、セーラ殿!」

「うぁっぶなー……! あっ、姫さま、大丈夫? ……です、か?」


 咄嗟とはいえ容赦なく小さな子供を引っ張ってしまった。怪我などさせていないかとひやひやしたが、腕の中の王女は呆然としているだけだった。


「姫さま、セーラ殿、お怪我は?」

 ヴァイセンがすぐに駆けつけてくれた。その後ろから侍女たちもすっ飛んでくる。

 王女の世話係ともあろうものが、この状況を前に駆けつけるのがヴァイセンよりもあとになるとは、やっぱり彼女たちは王女を見ているようでまったく見ていないのだ、と改めて思わされた。


「セーラ殿、熱湯を被ったのでは?」

「いいえ、未遂でした。わたしは大丈夫です。すみません、小さなお嬢さんなのに力任せに引っ張ってしまって……。お姫さまは大丈夫なんでしょうか……」


 小さい子供に対する話しかけ方もわからない。だが、その幼い王女様も反応は鈍かった。

 セーラは困惑するしかない。仕方なくヴァイセンに尋ねると、その後ろから駆け寄ってきた侍女が悲鳴をあげてセーラから王女をひったくるように引き寄せたのだった。


「姫さま! お怪我はございませんか!? ――あなた、昼間の召喚者ね? 姫さまに何をしたの!?」

「え、ええ……」


 この期に及んで、この部屋の中で、この近距離で、なにが起こったのかも正確に把握できていないのか。

 セーラは理不尽に敵意を向けられたことより、想像以上に切羽詰まった様子の侍女たちに言葉を失った。文字通りのドン引きだったのである。


「それよりもこの者、陛下に無礼を働いたものではなくて? なぜ死刑囚がここに……」

「私が連れてきた。口を慎みなさい。今、彼女は誰よりも姫さまの安全を守らねばならないおまえたちに代わり、身を挺して姫さまを守られたのだ。それを、姫さまに何をしたか、だと?」


 セーラに敵意を向けていた侍女がはっとしたように青ざめ、それからヴァイセンに向かって深々と頭を下げた。


「も、申し訳ございません! 姫さまの就寝の準備に追われて目を離してしまい……」

「姫さまから目を離しただけに留まらず、なにが起こったかも把握できていない。おまえたちの責は重いぞ。――誰に向かって頭を下げている?」


 ヴァイセンに冷ややかな目を向けられた侍女は可哀想なほどに顔色をなくし、それから膝をつこうとする。


「違うだろう」


 その仕草にピシャリと跳ね除けたヴァイセンだったが、額に長い指を当てている。心底呆れた、とでも言わんばかりの顔だった。


「おまえが謝罪すべきは私ではない。おまえが勘違いして的はずれな敵意を向けた、セーラ殿に謝るべきだろう」

「で、ですが……」

「そうです、ベルディン騎士団長。なぜ死刑囚を姫さまの部屋に連れていらしたのです?」


 後ろから別の侍女が――こちらは年かさの、いかにも取りまとめ役らしい女性だ――進み出て、青白い顔をしながらも毅然と背筋を伸ばしてまっすぐにヴァイセンを見た。

 ヴァイセンも負けじと彼女を見据える。


 一触即発だった。

 王女付きの護衛兵だというヴァイセンと、王女付きの侍女。どちらも王女のために尽くすべき臣下のはずなのに、ここで喧嘩が始まったらどうすれば良いのか。

 セーラが内心で慌てふためくと、しかしそのふたりの間に割って入った人がいた。

 彼らの腰ほどの大きさしかない、王女その人である。


「ふたりとも、やめて」

「姫さま……」

 痩せ細り、大きく落ち窪んで茫洋とした目が、しかしひたとセーラに向けられる。

 その威圧感にセーラは一歩後退りそうになる。茫洋として力もないのに、なんだか胸をざわつかせるような目だった。


「たすけてくれた方、ありがとうございました」

「い、いいえ。姫……さまがご無事で良かったです」


 こんな小さな子供が、確かにセーラを見て頭を下げたのである。

 王女はぼんやりとした顔はそのまま、既に膝をつきかけていた侍女ふたりに言い放つ。


「ゲルダ、ハティ、ちゃんとあやまって」

「は……。――申し訳ございませんでした」

「申し訳ございません……!」


 彼女の年齢に不似合いなほど老成した仕草に、セーラは言葉を失った。

 これは重責を背負った者の立ち居振る舞いだ。四歳にして、それをきちんとこなしている。自身が重い病に冒されながらも、主人としての務めを果たしたのだ。


 王女はそれきり、かさついてひび割れた唇をぎゅっと引き結び、押し黙った。何度か苦しそうに浅く嗚咽して、それからようやく口を開く。


「……ベッドにもどる。みんなに、めいわく、かけちゃうから」


 大きな目には涙の膜がみるみるうちに盛り上がってくる。

 小さな王女の痛々しいほどの努力を目の当たりにして、セーラは呆然とする。


 これは本当に、ただのロールプレイなどではない。彼女はこの世界に生きる一国の姫君なのだ。これまで漠然と夢の中にいるような心地だったセーラは、今この瞬間、そのことを強烈に思い知らされたのだった。

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