08.絵本もないこの世界で

「ヤスミーンさま、お休みの準備をしながらでよろしいのでお聞きください」


 しんと静まり返ったその場から、平然と動き出したのはヴァイセンだ。

 ヴァイセンの黒い目がセーラを見やる。こちらへ来いと目線だけで促され、セーラは王女をベッドへと促すヴァイセンのもとへ慌てて駆け寄った。


「ただいま姫さまをお助けしたこちらの方はセーラ殿。姫さまが安らかにお過ごしいただけるよう、遠路はるばるお越しくださいました」

「……もうお医者さまはいや」

「医師などではございません。陛下が異世界より姫さまのために召喚された方でございます。私たちの常識を覆すような異世界のさまざまな知識をもって、姫さまが安らかにお眠りいただけるようその技を披露してくれますよ」


 ――待ってほしい。落ち着かせるとは言ったが、姫さまの寝かしつけを確約した覚えはない。


 セーラはヴァイセンに向かって必死に手を振り首を振り、腕で大きくバツ印を掲げてみたが、涼やかな顔のヴァイセンは意にも介さない。丁寧に王女を天蓋付きの寝台までエスコートし、しっかりと掛布を細い肩までかけやってから、こちらを振り返ってにこりと微笑んだのだった。


「さ、セーラ殿。異国の妙技、お見せくださいますでしょうか」

「……恨みますよ、ヴァイセンさま」

「そういう流れだ、すまない。よろしく頼む」


 ひっそりと唸るように恨み言をこぼせば、ヴァイセンは涼やかな目元にわずかな申し訳無さをにじませて詫びた。

 セーラは意を決し、王女の枕元に差し出された椅子に腰掛ける。ただの背もたれつきの椅子のように思えたが、座ってみるとクッションのよく効いた、包み込むような座り心地だった。


 ――無茶振りが過ぎるんだよなあ……。この状況で一体どうしろと?


 座ってみたものの、セーラに良案があるわけでもない。しかしここまでお膳立てされては悩む時間すら与えられなかった。


 子供、寝かしつけ、で脳内検索をかけてみるものの、子供と関わったことすらないセーラ程度の貧弱なデータベースでは、定番の子守唄や読み聞かせなどしかヒットしない。


 ――読み聞かせ……読み聞かせ? オーソドックスだけどまあ悪くないのでは……? 王女さまなら絵本くらいたくさん持ってそうだもんな。


「ヴァイセンさま、その、絵本とかすぐに持ってこられます?」


 ひらめいたようにヴァイセンを見やったセーラだったが、そのきょとんとした顔を見て即座に絶望した。


「すまない。エホン、というのはどういったものだろう……?」

「マジか……」


 ――だめだこりゃ。


 がっくりと肩を落とせば、ベッドの中で不安げな顔のままの王女も不審そうにこちらを見つめている。

 そうだ、考える暇なんてない。ないのなら即興でどうにかしなければならない。


 ――さっきヴァイセンさまも言ってたじゃん、異国の知識で、って。適当に童話とか話して聞かせてみるか?


 セーラは引きつった愛想笑いを浮かべた。


「姫さまは、日本という国をご存知ですか?」

「……いいえ、ぞんじません。……もうしわけありません」


 ものすごい気を遣われている感がある。四歳の、うつ病っぽい子供に。

 セーラは慌てて首を振った。


「ご存知ないのも無理はありません。わたしは王さま……陛下より召喚されてここに来ました。この世界の人間ではないのです。日本というのは、わたしの生まれ育った国です。ここより異世界の国でございます。日本には、姫さまくらいの年の子供ならみんな、物語を聞くことが大好きなんですよ。――姫さま、物語はお好きですか?」

「……ものがたり? しょうせつみたいなもの?」


 ――あ、小説はあるんだ、この世界。というか、小説読むの? 四歳で? いや、四歳が好む小説って言ったらイコール童話や絵本なのかもしれないけれど。


 セーラは内心で、王女の常識とセーラの持ち得る常識がどれほどかけ離れているのか模索しながら、穏やかに続けた。


「ええ、そうです。日本の子供たちはみんな、夜眠る前にお父さんやお母さんにねだって読み聞かせてもらうものなんです」


 みんな読み聞かせが好き、というのは誇張である。たぶん読み聞かせが習慣ではない子供も大勢いると思う。だが、セーラには子供に対する知識がない。今この場ではセーラ以外日本の常識を知らないので、多少大げさな表現でも許してほしい。


 内心で誰ともなく言い訳しながら、セーラは頭の隅で貧相なデータベースをひっくり返す。


 ――わたしが覚えていて、そら・・でも語り聞かせられる童話ってなんだっけ。


 頭からカリカリとハードディスクをぶん回している音がしている気すらする。必死で脳内に検索をかけていると、王女は茫洋とした目をくるりと潤ませ、そうしてかすれた声音でつぶやいた。


「おかあさま……」

「あ、ああ……す、すみませ……」


 ――やばい、悲しみの原因であるお母さんを思い出させてしまった。


 多いに慌てたセーラだったが、しかし王女は大きな目の端から涙をこぼしながら、確かに言葉をつむいだのだった。


「おかあさまがいらっしゃったとき、いつも、ねむるまえにおはなしをきかせてくれたわ」

「え、ええ、ええ、そうです。そのお話です。そうなんですね。姫さまもよくお母さまに読み聞かせしていただいてたんですねえ」


 せめて涙を拭ってやろうと、なにか拭くものはないかとあたりを見回すと、タイミングよくヴァイセンが真っ白なハンカチを差し出してくれた。

 ありがたく受け取り、王女の骨ばった頬をやさしく押さえる。


「いっぱいおはなしをきかせてくれたの。……でも、どれも、あんまりおぼえてない……」


 いい調子だぞ、とセーラは内心で拳を握る。背中にはびっちょりと冷や汗をかいたままだ。

 母親の話題が出たときにはまた悲しみの揺り戻しでパニックに陥られるかと思ったが、王女は思ったより冷静に、しかし確実に興味を持って会話してくれている。

 セーラはこれから入眠する子供のために、努めて静かに声を絞った。


「残念ながら、姫さまのよく知るお話はわたしにはお届けできません。今夜はその代わりに、異国のやさしい狐の親子の物語をお話しましょう」


 語りかけながら、あれだけ必死に脳内検索をしていた読み聞かせ候補が自然と口からこぼれた。

 今すぐ彼女の悲しみや喪失感を癒やすことはできない。王女の望む、彼女の母親がよく聞かせてくれた物語を用意することもできない。だから代わりに、ゆっくりと世界に浸れて、夢の世界でもやさしく母の愛に包まれるような、そんな物語にしようと思ったのだ。


 そうしたら、自然とタイトルは決まったのである。

 王女は落ち窪んだ目をこちらへ向けている。なんとか、話を聞いてくれる雰囲気までは持ち込めたらしい。

 セーラは内心でほっと息をついていた。


「では始めましょう。雪の降る寒い寒い冬の日のお話です――」


 正直、すべてを完璧に覚えているわけではない。どちらかと言えば、概要をざっくり記憶している程度である。

 生まれて初めて雪に触れて、手が冷たいと驚いた狐の子供が、母狐に手袋を編んでもらって……いや、手袋を買いに行かされた話、だっただろうか。


 ――ああ、そうだ。この話のタイトルを今になって思い出した。しまった、ママ狐が手袋を編むルートに入ってしまった。


 努めてゆっくりとやさしく語り聞かせながら、セーラは正しい物語を逸れてしまった己の語り口に大いに慌てた。だが、絶賛フル回転中の脳内CPUが「そのまま行け」と命じてくる。

 この物語を知る人は、今この世界にはセーラ以外誰もいないのだ。だったら着地点さえ望んだ通りになれば、どう創作しても咎める人もいないだろう。

 セーラは即興で、狐の子供が寒い思いをしないように、母狐が子狐に手袋を編んでやる話を編み出した。



 *



 ――初めて冬を経験する子狐に、母狐は子狐の手が冷たいのを可哀想に思って、手袋を編んでやりたいと考えた。

 だが、毛糸を買うには人里へ行かねばならない。母狐は人里に良い思い出がない。以前、人里に行った友人がひどい目に遭わされて、這々の体で帰ってきたことをよく覚えていたのだ。

 躊躇する母狐を想って、子狐は自分が母狐のおつかいをすると言い出す。母狐は大いに心配だったが、子狐の片手を人間の子供の手に変えてやり、お金を握らせた。人間には、お店の扉の隙間からこの手を差し出して「毛糸をひとつくださいな」と言いなさい、と言い含める。


 しかし初めての人里に興奮して驚いた子狐は、うっかり狐のままの手を差し出してしまった。人間の毛糸屋は多くを言わず、お金を受け取って、それが確かに人間のお金であることを確かめると、子狐の茶色い手に似合いそうな赤い毛糸をひとつ渡してくれた。


 子狐はそれを持ち帰り、母狐に「人間は怖くなかった」と得意げに話す。

 その夜、大冒険をして疲れた子狐はすっかり眠ってしまい、翌朝目覚めると――なんと、枕元に子狐の手にぴったりな赤い手袋がふたつ置いてあった。


 「手が冷たくない!」


 喜んだ子狐は、母狐が編んでくれた手袋をはめて、いつものように遊びに出かけることができたのだった。



 *



 ――我ながら、なんだか魔改造が過ぎたような気がする。


 話し終えて、セーラは冗談抜きにこめかみから汗を垂らした。冷や汗がとうとう抑えきれなくなったのである。

 途中から魔改造創作をするのに必死で、王女の様子などそっちのけになってしまっていたことを、今思い出した。


 そっと視線を落とすと、王女は先ほどよりもずっと光を湛えた目で、じっとセーラを見つめていたのである。そうしてふっと視線を外したかと思うと、ぽつりとつぶやいたのだった。


「……おかあさまがさしてくださったハンカチ、どこにしまったっけ」


 セーラにはその言葉の意味がよくわからなかったが、王女は肘をつき、今にも起き上がろうとしている。


 ――ああ、ようやく落ち着いて眠る体勢に入ったのに。


 焦ったセーラだったが、それより早くヴァイセンが王女を押し留めた。


「お母上との思い出のハンカチは明日探しましょう。明日元気に探すためにも、今日はもうお休みください」

「うん……。ねむれるかしら」


 不安そうな王女に、セーラもゆっくりと声を掛ける。


「眠れなくても良いんですよ。目を瞑って、朝になるまでじっとしているだけで良いのです。退屈で仕方がなかったら、想像の中で姫さまも子狐のために母狐と一緒に手袋を編んでください。どんな色の、どんな形の手袋がいくつできたか、明日聞かせてくださいね」

「うん」


 王女が目を閉じたのを見やって、ヴァイセンは音もなく立ち上がる。セーラも促されて静かに立ち、後ろで不安そうに控えていた侍女たちに任せ、ようやく王女の部屋を後にしたのだった。

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