09.怒涛の一夜が明けて
怒涛の一夜が明け、翌朝早朝に叩き起こされた。
当然ながら、慣れない環境に緊張と寝不足で、疲労はまったくといっていいほど取れていない。
一応は地下牢ではなく、しっかりとした立派なお屋敷に招き入れられた。そこでも出迎えてくれた人たちの多少の拒絶感はあったものの、ヴァイセンが一言「客人だ」と言えば、誰もが表情を改め丁寧にもてなしてくれたのだった。
もてなされたといっても、王女の部屋とほとんど変わらない規模の広々とした部屋を与えられ、軽い食事と着替えをもらった程度である。それ以降はなんでも侍女たちが身の回りの世話に走り回っていたのと違い、自分でどうにかしろスタイルだったので、気が楽といえば楽だった。――さて寝ようという段になってヴァイセンが部屋にやってくるまでは。
「……あの、なにかご用ですか?」
「一応、あなたの監視役を務めねばならない。陛下にはあなたの免罪の件で請見しているが、お会いできるのは明日以降になる。今のあなたの立場はまだ死刑囚のままなのだ。今夜は窮屈な思いをさせてすまないが、気にせず休んでくれ」
なぜその監視役を、おそらくこの屋敷の主人である――屋敷の人の態度からそう察せられる――ヴァイセンが務めるのか。
「立場上仕方ないのはまあ、しばらく我慢できますけど。でしたらなおさらヴァイセンさまではなく、屋敷の護衛の方とかが監視されたほうが他の方も安心されるのでは……?」
ヴァイセンに連れてこられたときにも思ったが、この屋敷の人はセーラを歓迎していない。ただ主人であるヴァイセンがセーラを客人として扱っているので、そのように倣っているだけだ。主人が連れてきた死刑囚を一晩見張るのが主人本人とあっては、屋敷の人たちの気が休まらないのではないだろうか。
申し出てみたものの、ヴァイセンは肩をすくめて軽く笑うだけだった。
「この屋敷に私より強い者はいないし、私が招いたのだ。私が責任を取る」
――ヴァイセンさまの屋敷の使用人たちは破天荒な主人に振り回された胃痛持ちとか多そうだな。
なんとはなしに考えたものだが、ヴァイセンがきっちりと帯剣したまま立っているのに、その中でひとり眠るというのは至難の業だった。
見られている、という意識もそうだが、自分のせいで徹夜する人を目の前にして、気にせずぐうすか眠りこけるだけの図太い神経は持ち合わせていないのだ。
そういう経緯があったから、結局、明け方になってようやくうたた寝したくらいの睡眠しか取れなかった。
――だというのに、早朝にはきっちりと使用人らしき人たちが起こしに来たのだ。
ちょうどこれからやっと眠れそう、という段になって起こされたので、もう一度意識を叩き起こすのはしんどかった。
ゾンビのようになりながら起きたものの、気づけばヴァイセンはそこにいない。いつの間にいなくなったのだろうとあたりを見回してみたものの、代わりにやって来たのは、王女の侍女と似たような使用人の女性たちだけだ。
代わる代わるやってきて、身支度に必要なものを整えてくれる。だが、これもまた用意だけしてあとは勝手にやってくれ、と言わんばかりに置いていったのである。
セーラは王女ではないので、むしろありがたかった。
水差しに洗面桶、たぶん歯磨きセットのようなもの、髪を整えるための櫛、鏡、あとは粘度違いの液体が数種類。おそらく化粧品の類か整髪料なのだろうが、これは聞いてみないと使い方がわからなさそうだった。
とりあえずわかるところから支度を始めると、食事の準備が整ったことを使用人が知らせにきたので、呼び止めて用意された道具の細かい使い方を教わる。にこりともせず愛想はなかったが、嫌な顔ひとつせず、重ねた質問にも懇切丁寧に答えてくれたのはさすがというべきだろう。
支度が調うと別室に案内され、食事が振る舞われた。
この世界で最初に食べたものは、ひどい味のスープと食品サンプルもどきのパンだったが、昨晩夜食としていただいたものは、野菜スープのようなものと柔らかいパンだった。味付けはコンソメといったところで、まったく食べ慣れない味わいではなかったのは嬉しい誤算だった。
だから朝食もそう身構えずに供されるものを眺めたのだが、これもまたパッと見はいかにも〝ホテルの朝食〟といった風情だ。
フレッシュな野菜サラダに始まり、コーンスープのような温かい汁物、そしてなにかの薄い肉を焼いたものがメインだろうか。主食はやっぱり丸い形のパンだ。
「ホテルの優雅な朝ご飯……」
「苦手なものがあっただろうか」
「わっ!? ヴァイセンさま」
気づくと、衣服を改めたヴァイセンがやって来たところだった。
広い上に豪奢な――あのキャンドルスタンドが優雅に歌って踊りながらディナーを供するあの部屋を彷彿とさせる――調度品に囲まれた場所なので、いろいろなものに気を取られて彼がすぐ後ろまで来ていたことにも気づかなかった。
――というか、この人、昨夜も思ったけどあんまり気配がないんだよね。
ヴァイセンは背が高い。セーラだって百六十以上はあるが、その自身が並んでも彼の胸のあたりに目線がくる。頭丸ひとつ分背丈が違うのだ。ということは、百八十後半、もしかしたら百九十はあるかもしれなかった。
それほど大柄な人がこれほど静かに背後に迫っていると、それだけで威圧感がある。
セーラが驚いて椅子に座ったまま器用に跳ねると、ヴァイセンはセーラの九十度左手の椅子に腰掛けた。いわゆるお誕生日席になるのだが、その背後に暖炉や大きな絵画が飾られているところを見ると、おそらくそここそが一家の主人が座るべき場所だ。やっぱりこの人、とんでもない肩書を持っているんだろうな、といまだ早鐘を打つ心臓を宥めながら考えた。
「おはようございます。いらっしゃると思わなくて、先にいただいてしまっていてすみません」
「おはよう。驚かせてすまない。――食事に不足はなかっただろうか」
「どれもおいしくて驚いてます。昨日頂いたお夜食も……。牢で出された食事が、まあ、この世界で初めて食べたものだったのでちょっと不安だったんですが、それもあってヴァイセンさまには約束を守っていただけてほっとしてます」
「それは良かった。特に好みのものがあったらメイヴェルに伝えてくれ。彼がこの屋敷の執事だ」
ヴァイセンの後方に控えた老年の男性を気軽に紹介され、セーラは気管に入りかけたスープを咳ひとつで軌道修正し、慌てて立ち上がった。
「どうぞかまわずお座りください。メイヴェルと申します。お見知りおきを」
「セーラ・ミナカミです。お世話になります」
メイヴェルは執事らしく、おそらく燕尾服ふうの衣装をきっちりと着こなした紳士だったが、やっぱり燕尾服そのものとは少し形が違う気がする。
その彼に丁寧に席へと戻されると、メイヴェルは白いものの混じり始めた眉をひそめて主人を叱った。
「坊ちゃま、お食事中のレディにあれこれと気を遣わせるようなことをなさいますな」
「すまない。それから坊ちゃまはやめてくれ」
言いながら、ヴァイセンはものすごい勢いで朝食を平らげていった。
決して大口を開けて料理を掻っ込んだわけではない。むしろ洗練された美しい所作と言える。
くもりひとつない銀のナイフとフォークでよく焼いた肉を一口サイズに切り分け、楚々と口へと運んでいく。きちんと咀嚼し、日頃から伝えているのだろう、細かな料理への感想も欠かさない。だが、そのスピードが恐ろしく速いのである。
「坊ちゃま、悪い癖が出ておりますよ」
すかさず指摘したのはメイヴェルだった。だがヴァイセンはすっかり皿をきれいにしてから、少しばかり鬱陶しそうに肩をすくめた。
「すまないが、今日ばかりは悠長にしてるわけにはいかないんだ。セーラ殿のこともあって忙しくてな」
「すみません、わたしが面倒事を持ち込んだばっかりに……」
「セーラ殿のせいじゃない。私が勝手にあなたに姫さまのことをお任せしたからいろいろと重なっただけだ。――ああ、先ほど陛下へは昨夜の件をお伝えし、死刑は取り下げていただいた。昨夜の姫さまのご様子は既にお耳にされていたようでな、たいそうお喜びになっていたよ」
――なんでも大事なことをサラッと言う人だな。
セーラは本日二度目になる気管に迷いかけた料理を咳払いひとつで呼び戻し、急いで水を飲んだ。
「死刑、取り下げられたんですか? あっさりすぎません?」
「正直、あなたが条件に出した死刑の取り下げについては端から勝算があったんだ。陛下もここのところずっと姫さまのことで疲弊なさっていたからな。多少のことで感情的になられることも多々あったし、セーラ殿へ死罪を告げたのもその場の勢いだろうと思っていた。陛下自身もそのことにはご自覚がおありだったから、やはりあとになってやりすぎたとお思いだったようでな。すぐに取り下げられたよ」
「さようで……」
勢い余って「カーッ! 傍迷惑だな!」と叫びそうになってから、寸前で思い留まった。この場にはメイヴェルもいる。彼はセーラにも穏やかな態度でいてくれているから、これ以上嫌われる要素を増やしたくなかったのだ。
「あなたの召喚も、その勢いの一環だったのだ」
あんなことを仕出かすとは思わなかったと言わんばかりの態度に、セーラは昨夜から思っていたことを口にする。
「皆さん召喚に懐疑的でしたけど、そもそもここでの召喚術の立ち位置ってどういう感じなんです? よくあることではないってのはわかるんですけど……」
ヴァイセンは困ったように形の良い眉を寄せる。うつむき加減になると、明るい光の下で、その目の色が黒ではないことを初めて悟ったのだった。
――海の色みたいな青い目なんだな、この人。
欧米人でもこんな目の色の人がいたかと不思議になる。昨日の今日で、いよいよここが本当に異世界だということを痛感させられていた。
「存在自体は知っている者も多い。だが実際にできるものかどうかは誰も知らなかった、というところだな。召喚術について研究する者もいるが、その術式や効果についてはっきりと証拠が残っているものはないのだ」
「要するに都市伝説みたいなものですか……」
誰かに「こっくりさん喚んだから。はいこの人」と紹介されたとしても、確かに信じられないし、紹介されたこっくりさんとやらの正体を怪しんでしまう。セーラは今その「こっくりさん」の状態なのだ。そう考えると、昨夜の侍女たちの不信そうな態度にも得心がいった。
質問を重ねようと顔を上げると、ヴァイセンが申し訳無さそうに眉を下げた。
「あなたの質問に付き合ってやりたいのは山々だが、セーラ殿。あなたも忙しくなるぞ。もうじき姫さまの起床時間だ」
「えっ。またあのお姫さまのところに行くんですか? もう王様も喜んでくれたんですし、帰してくれても良いんじゃ……」
セーラが瞬くと、ヴァイセンは少々呆れた顔になる。
「なにを言う。これからがあなたのお力を借りたいところなんだぞ。窓と扉を開け、空気を入れ替え――それからなんだったかな?」
考え込むような仕草をしながら、ヴァイセンはちらりとこちらに青い目を向け、薄い唇の端を引き上げる。
「……ヴァイセンさま、実は結構やんちゃですね?」
「やんちゃとは失敬な。記憶力が良いと言ってくれ」
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