05.獄中に思案する
思い返すのは、幼少期からなにかにつけて「手に職をつけなさい」と言っていた母親のことだ。
星羅は幼い頃からなんでもやらされた。
バレエ、ピアノ、水泳、習字、絵画教室、そろばん教室、英会話教室、あとはなんだっただろうか。もう思い出せないほどの習いごとをやらされた。
あれもこれもと習いごとに通わされて、才能がないと母親が判断したら即やめさせられる。そうして次の習いごとに連れて行かれるのだ。
そんなふうに繰り返して、結局なにも身につかなかった。
そんなにすぐに向き不向きはわかりませんよ、と次から次へと習いごとをさせる母親を止めようとしてくれた先生もいた。だが結局、母親は変わらなかった。
〝習いごと〟が〝勉強〟に変わり始めたのは、中学に上がる少し手前くらいからだ。
勉強しろ、塾に行け、どこの進学校に入れ、医者になれ、看護師になれ、薬剤師になれ、保育士はどうだ、どの資格を取れ、あれもこれも、エトセトラ、エトセトラ。
とにかく「手に職をつけなさい」とそればかり言われ続けて、やらされていることが星羅に向いているかどうかは二の次だった。星羅がやりたいかどうかなど、もってのほかである。
そんな動機で勉強させられて、モチベーションが上がるわけもない。
高校までは県の進学校に入学したけれど、そこから先の進路はやる気のない人間には甘くない。
それに、星羅自身もその年頃にはわかっていた。親の言う通りにしたってろくな人生にならないと。
だから余計に勉強なんてしなくなったのである。
結局、医学部にも看護学部にも薬学部にも、教育学部にも入れなかった。唯一やる気があったのは、親元を離れたい一心で受けた、都心部の大学の受験だけだ。
もちろん、母親は星羅が上京することに反対だった。だが、浪人することはもっと嫌がった。
もう教育にかける資金がなかったのだ。
その上、あれほど教育に熱心だった母である。これだけ目をかけてきた子供が浪人生になる、という事実に耐えられなかったのだろう。
星羅は浪人という手段に母親が拒絶を示したのを見逃さなかった。これ幸いとばかりに、唯一受かった都心部の大学に進学を決めて親元を離れた。
それでもなお、帰省するたびに小言を言われ続けた。「就職してからでも看護学校に入り直せる」だとか、「そのためにお金を溜めなさい」だとか、特にお金の使い方には散々口出しされたのである。
色付きリップを一本買っただけで遊び呆けていると決めつけられ、最後には「お母さんの言うことを聞く気がないのね」などと被害者ぶられた。
大学進学後、星羅が自分でアルバイトをして稼いだお金なのに、だ。
もうそんな家には帰りたくなかった。
一生地元には帰らないと心に決めた瞬間でもある。就職は他県に決めて、それ以来、お盆も正月休みもろくに実家には近寄らなかった。
けれど、それも失敗だったのかもしれない、と最近は少し考え直していた。
就職するとき、とにかく実家に近寄りたくない一心で、それだけを優先してしまった。
結果、会社のシステム自体はブラックでもなく普通の企業だったけれど、仕事内容はどこにでもありふれたものになってしまった。キャリアアップも望めなければ、専門性もない、母親の求めた〝手に職〟とは真逆の人生を歩み始めてしまったのである。
結局、十年近く働いてきて、今もまだ、新卒でも一通り教えられればできるような仕事をやっている。
給料はほとんど上がらない。
これで良いのか、と思い始めたのが、三十代が目前に近づいてきたときだ。
この現象を、クォータークライシスという。
誰でも通る道なのだ。だから決して、星羅だけが焦りや不安を抱いているわけではない。
そう論理的に認識することはできても、感情的な問題を解決するには至らなかった。
そうして思い悩んでいたときに、こんなところで期待をかけられ、そして失敗して死刑宣告である。
きっと、能力の有無は関係ない。
突然、ろくに事情も説明せず、勝手に無理難題を押し付けてきたあちらに非がある。
頭の隅の冷静な部分ではわかっていても、重くなる感情には歯止めがかけられない。
やっぱり、お母さんの言うことは正しかったのかな――などと思えてきてしまうのだ。
「……あの子、大丈夫かな」
暗くなる思考を振り払っても拭えないのは、あのボロボロに弄ばれた人形のような〝姫さま〟のことだ。
彼女は確かに病人だった。その原因は絶対にあの環境のせいだと思える。だが、星羅の言葉は届かなかった。
もしかしたら、星羅の見立てが間違っているのかもしれない。
それならそれで良い。どんな方法でも良い。とにかく、あの子は救われるべきだ。
――早いうちに誰かが気づいて、助けてあげられたら良いけど。
〝姫さま〟は四歳だと言っていた。あんな小さな子供が、一国の姫君の役割を求められ、子供らしさも否定され、大人たちに寄って集っていじめられているような構図は胸が痛かった。
星羅があの子を救うために呼び出されたというのなら、せめてもっと冷静に、環境を変えてあげてほしいと提案すれば良かったのかもしれない。
星羅は固く冷たい床にじっと座る。
長い間そうしているような気もしたし、まだたいして時間は経っていないのかもしれなかった。
牢屋に入れられたときは、まだ外は明るい時間のように思えたが、今はどうだろう。この牢屋には時間を確認するものもなければ、昼夜がわかるような窓もないので、今が何時頃なのかもわからない。
先ほど、一度食事が与えられたが、それっきりだ。常にない状況に空腹感も感じなかった。
――それにしてもあのご飯、まずかったな。
出されたのは味の薄いスープに、食品サンプルかと疑ったほどの硬いパンひとつだ。いかにも虜囚の食事といった風情だった。
味も見た目通りおいしくなかった。パンなどは硬すぎて歯が折れるかと思ったくらいだ。スープに浸して多少マシにはなったが、ここの食事情も気になって仕方がない。
――ここ王宮だよね? それであんなもの食べてるの? あ、いや、わたしが虜囚だからなのかな……。
できればそう思いたい。
もしみんながみんなあんなまずいもの食べているのなら、絶対にそれも〝姫さま〟のうつの原因のひとつだとしか思えなかった。
そうして、まんじりともせず考えて込んでいたときだ。
にわかに遠くのほうで声が聞こえてきたのである。
「ベルディン団長! 困ります、このような場に……」
「俺はもう団長ではない」
「ですが……」
「数分でいい。時間をくれるか」
なにやら話し合う声と、かつかつと規則正しい足音、バタバタとそれに付随するような足音が近づいてくる。
「ああもう、ベルディン団長だからお通しするんですからね。絶対に変なことしないでくださいよ。万が一逃がしたりしたら俺の首が飛ぶんですからね!」
「そんなことにはならんよ」
軽い口調だが、低く、張りのある声音をしている。
こんな地下牢の奥深くにいるのは星羅しかいない。ということは、星羅に用事があって誰かが近づいてきているのだ。
一体何事かと身を固くすると、ようやく、その人が格子越しに姿を現したのだった。
「――あなたが召喚されたという方か」
見上げるほどの大男だった。
最低限の明かりしかない場所だから、最初は黒尽くめの影のように見えた。
その異様な出で立ちに、星羅は張った虚勢もすっかり萎んで、思わず一歩後退っていた。
しかし思ったよりも丁寧な問いかけに、星羅は恐る恐る顔を上げる。
目の前に立つのは、黒髪に黒い装束の男性だった。
詰め襟の軍服のような出で立ちに、片側だけ長い
癖のある長めの前髪の奥に佇む黒い目が、静かにこちらを見つめている。
すっと通った鼻筋に、怜悧な薄い唇。灯りに照らされてなお陶器のような白い肌が美しい。
まるで漫画の世界から抜け出してきた、と言われても納得できる。そのくらい、見目麗しく、コスプレじみた装いの人だったのだ。
「私はヴァイセン・ジュラーク。あなたにお願いがあって伺った」
死刑を待つ人間に対する態度とは思えないほど丁寧な物腰で、ヴァイセン・ジュラークと名乗ったその人は、静かに会釈した。
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