04.いまだに現実感がない

 地下牢は本当に地下牢だった。


 なにを言っているのかと思われるかもしれない。

 しかし正直に言って、これまで流れのすべてがあまりにも理不尽で、まさか本当に牢に入れられるとは信じていなかったのだ。


 そこはアニメや漫画でしか見たことのないような、石造りの湿った床や壁に、金属の格子がはめ込まれた牢屋だった。

 出入り口は一箇所あるが、南京錠のような、しかしそれよりも遥かに重厚で複雑な造りの錠がしっかりと扉を閉ざしている。


 広さは四畳半程度だろうか。四方に数歩歩いたら終わりで、ベッドや机といった家具の類もなにもない。トイレすらない。

 いや、こんなところにぽつんと置かれても絶対に用を足せないので困るが。


 格子で閉ざされた向こう側は、人が三人並んで歩けるほどの廊下になっていて、明かりもあちら側にしかない。窓の類もなし。


 人が過ごすための場所ではない。

 本当に牢獄なのだ。ただ刑罰を待つために、一時的に放置される場所。


 最初は座ることも憚られて、呆然と突っ立っていた星羅せいらだったが、やがてただ立っているだけもつらくなってきて、仕方なくその場に腰を下ろした。

 座ったところで地面も石だし、なにより薄暗いこの中では、どれほど汚れているかもわからない。

 だいぶ、かなり抵抗はあったが、しかし、いつことが動くともわからないのである。体力はなるべく温存しておくほうが良いだろうと思ったのだ。


 そうしてゆっくりと思考する時間ができると、いかに自分が焦っていて、今がどれほど異常事態であるかがよくわかってくる。

 とにもかくにも、冷静にならないことには自分の利にならない。

 まず、どうやってこんなところにやってきたのか、今時分になってようやく状況を整理し始めたのだった。


 星羅は、首都圏で働くただの会社員である。繁忙期はそれなりに忙しく、閑散期はしっかりと定時退社の、そういう何の変哲もない企業に勤めている。


 ブラック企業勤務で肉体的にも精神的にも限界を迎え、幻覚を見るかのごとくトンチキなロールプレイに巻き込まれた気になっている――つまり早い話が幻覚だが――という構図は架空の話として聞かないでもなかったが、昨今ブラック企業は流行らない。

 少なくとも、人間関係はさておいて、星羅の務める会社はそうではない。だからこそなんの特徴もない、ほかの誰とも変わらない、社会の歯車のひとつでしかないと言い切れる。


 そんな何気ない日常の、いつもと変わらない帰宅途中のはずだった。

 定時で上がり、帰路で夕飯の買い物をして家路まで向かっていた、その途中までは覚えている。

 家の近くの小さな公園を目にして、ときおりたむろっている不良気取りの中学生や、ベンチでひっくり返っている酔っぱらいなど、局地的に治安が悪化していないことを確認して、それで。


 ――そのあたりから記憶がないってことは、あの公園でなにかあった?


 そこまでの想像はついたものの、しかしなにが起こってこんなヘンテコリンな場所にたどり着いたのかはまるで思い出せない。


 だいたい、ここは一体どこなのか。

 あの偉そうな王様役の人は、ハイデルラント王国だと言った。しかし星羅の覚えのある限り、そんな国は世界地図のどこにもなかったはずだ。専門家でもなんでもない星羅の覚えている限りなので、大いに間違っている可能性はあるが。


 そもそも、昼間に見た彼らの時代錯誤なコスプレ衣装からして、世界が違うと言われたほうがまだ納得できる。

 雰囲気は中世ヨーロッパ、いや、近世か近代ヨーロッパの風体だった。

 中世ヨーロッパといえば貴族男性の半ズボン白タイツが思い浮かぶが、ここの人たちはみんな長ズボンを履いていた。長ズボンは中世よりもう少し後年の装いだったと記憶している。あくまで、専門家でもなんでもない星羅のざっくりとした主観だが。


 女性たちも、質素ながら布量の多そうなスカートを着ていた。数人がかりで拷問のようにウエストを絞り寿命を縮めるのではなく、純粋に布量の多さでウエストをカバーしているように見えた。有名なアメリカの四姉妹っぽい装いとでもいうのだろうか。


「……いや、あの時代一瞬トンチキなファッションが流行してどうのこうのってあった気がする……。社会科の資料集とかに」


 ――ここにスマホがあれば一発写メってググるのに。


 昨今は画像検索なんてものもできるから、きっと当てはまる時代があればあっという間に答えを出してくれただろう。


 そう、手元にスマートフォンがないのである。

 スマートフォンだけではない。いつも持ち歩いている貴重品から、スーパーで買ったものまで、持っていたはずのものがなにもない。どこかで没収されたかと思ったが、考えてみれば最初からなかった。あの広間のような部屋で状況把握のためにあたりを見回したが、そのときにも手元にあった覚えはない。


 そもそも、あの場にいた状況からしておかしい。

 家の近くの公園を目にしたあとの記憶がごっそりと抜け落ちていて、気づいたらあの場にいたのだ。それ以外にうっすらとでも覚えのあることはない。


 ――本当に異世界……だったりするわけ?


 思案したくもなる。

 なにせ、あの場にいた人たちはどこからどう見てもアジア人とは言えなかった。広く見れば欧米系と言えたが、細かい人種はわからない。しかし、日本にルーツを持つ日本人らしい顔立ちをしていなかったのは確かである。なのに、星羅は思い切り日本語でコミュニケーションを取っていた。そのことになんの疑問も持たなかった。


 彼らが全員、日本語ネイティブの欧米系の人、という可能性もある。

 だが、星羅以外アジア人らしい人もいない状況だ。見知らぬ場所で、欧米系の顔立ちの人ばかり中で、あの場にいた数十人全員が日本語ネイティブと考えるのは、いささか不自然なようにも思えた。


 言葉自体は通じるのだ。状況への認識に齟齬がある感は否めなかったが。

 彼らは召喚だとか魔法だとか、本気で言っているとしたらかなり精神を疑いたくなるようなことばかり口にしていた。


 ハイデルラント王国、という名前にしてもそうだ。

 しかしふつうなら妄言だとばっさり切り捨ててしまえるところ、あの場にいた誰もがお互いの常識を疑っていなかった。


 ――これが夢じゃないなら、ここは本当に異世界だってことになるけど……。


 異常事態に混乱が止まらない。思考しても上滑りするだけで考えがまとまらない。

 星羅は一旦息をつく。


 焦ってもここから出る術もないのだ。どうにもならない。だったら今は、冷静に現状把握に努めるべきだ。

 やるべきことを定めよう。先程から「どうやったら帰れるのか」とぼんやり考えているが、つまり目標はそこに尽きる。

 まずはなにより、元の世界に戻ること。

 そしてもうひとつ、死刑を逃れることだ。

 あの理不尽な王は、星羅に死刑だと喚いたが、死刑とは、本当に想像した〝死刑〟そのものなのだろうか。


 ――ギロチンとかそういうやつ? 痛いのはいやだなあ。というか、こんな変なところに喚び出されて突然死刑はあんまりだ。


 不敬だなんだと叫んでいたが、そんなことを言っている場合ではなかった。

 思い出すだに腹が立ってくる。

 だが一方で、星羅があの幼い少女を救うためにできたことは、他にもっとあったのではないだろうか、とも考えるのだ。


 なにせ自分にはなんの能力もない。勉強は中の上、なんの目的もなくただ家を離れたくて上京するために大学に入って、やりたいこともなく社会のシステムの流れに従って就職活動を行い、適当に綺麗事を並べて、たまたま内定をもらった会社に入社しただけだ。

 あの場でも何度も言ったが、星羅にはなんの特殊技能もないのである。


 たとえば、医療知識があるとか。

 たとえば、看護知識があるとか。

 たとえば、保育知識があるとか。


 そういう、手に職を持った人が星羅の代わりに喚び出されたのなら、きっともっと、うまいやり方があったのではないかと思えてくる。

 なにもかも中途半端にしてきて、結局なんの能もない人間にしかなれなかったから、こうして死刑宣告なんてされたのではないだろうか。


 ――お母さんの言ったとおりかも。


 不意に暗い思考が胸のうちに降りてきて、澱のように居座り始める。

 絶対に認めたくない、けれども人生の大半を左右され続けた、母の言葉が脳裏をぐるぐるとめぐったのだった。

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