03.幼い子供に対してあんまりな仕打ち

「さあ、姫さま! お起きなさいまし!」

「あら、いやだわ。姫さま、また粗相をなさったんですか。もう四歳になられるのに……」

「いや四歳はおねしょもするでしょ」


 多くの女性たちが、まるで戦場かなにかのように忙しく行き交っている。

 広い部屋だった。

 壁際に明かりとして松明でも灯されているのか、廊下よりは薄明るい。だが、部屋の全貌をはっきりと見通すには難しいほどの暗さだった。

 だいたい、学校の教室程度の広さだろうか。

 その部屋の中を、まさにひとクラス分はいるだろう女性たちが、お互いに避け合いながら走り回っていた。


 ある人は大きな布を抱え、ある人たちは何やら道具を手に並び、ある人たちは既に掃除を始めている。

 外の明かりを遮断しているために、ここは真夜中かと思わせられるような、一種異様な空気感だった。

 そんな中でこれだけ大勢が忙しなく活動していることにも妙なギャップを覚えたが、それより強烈な異様さを思わせたのは、においだ。


 空気が澱んだにおいがする。

 埃と湿気と黴の饐えたにおいの中に、糞尿の悪臭も混ざっている。それを感じているのは星羅せいらだけなのかと錯覚するくらい、この場にいる大勢の女性たちは気にしていないようだった。


 中世、いや、近世から近代のヨーロッパ風の建物、そしてその時代らしき格好をした人々である。

 ここが本当に異世界だと言うなら、現代の衛生感覚に慣れている星羅だけがこの異常を察知している可能性もある。だが、できればその予想は外れていてほしかった。

 本当に何百年も前の衛生観念が当然の世界だったとしたら、世界規模のパンデミックをも乗り越えてより強固な衛生観念を手に入れた令和の現代に生きる星羅など、絶対に生きていけないからである。


 薄暗いからあまり気にならなかったが、もしかしたらこの部屋の壁も床も、ヘドロがこびりついて糞尿だらけかもしれない。

 その可能性に思い至って、星羅は急に息がしづらくなったような気がしてきた。


 薄暗いさなかではあるが、視線を転じると、部屋の奥に位置する天蓋付きのベッドの周りに人だかりがあった。

 こんもりと山になった掛布を引き剥がそうとする人、その上からだいぶ乱暴に叩いて起こそうとする人、中の状態を見て顔をしかめる人、一歩離れて控えつつも、桶やなにやらを手に待ち構えている人などがいたのである。


 星羅をここまで連れてきた女性たちも、彼女たちの輪に加わっている。

 あそこに一体なにがあるというのか。星羅が疑問に思ったとき、やがて聞こえてきたか細い声に、思わずびくりと肩をすくめてしまったのだった。


「いや……」


 騒ぐ女性たちのさなかに、かすかに拒絶が聞こえる。掠れてひび割れた、老婆の声かと一瞬勘違いするくらいの、覇気のないその声。


「姫さま、これ以上眠るのは良くないと医師が申しております」

「指導する者も困っておりますのよ。姫さまがお勉強に真面目に取り組んでくださらないと。このままでは国をお預けすることもできません」

「ちがう……」


 女性たちが二人がかりでこんもりと山になった掛布を乱暴に剥がす。そこから転がり落ちるように〝姫さま〟とやらが出てきたのだった。


「――――」


 その姿を目の当たりにして、星羅は絶句した。

 とても〝お姫さま〟とは思えない、ひどく痩せ衰えた子供だった。


 〝姫さま〟は、骨格標本のように薄っぺらい身体をしていた。

 髪は明るい色をしているように見えるが、ぼさぼさで箒のように広がっていて、色合いも相まって老婆のようなありさまだ。

 骸骨のような身体を覆っていた布が取り払われると、饐えたにおいがより強くなる。彼女こそがにおいの正体なのだとはっきりとわかった。


「姫さま。さあ、起きてくださいまし。本日は新しい医師がいらしておりますからね。きっと姫さまが意欲的に起きられるようにしてくださいます」


 もう既に伝言ゲームが崩壊している。

 星羅は医者でもなんでもない。星羅をここまで連れてきた女性たちにはそれがわかっているだろうに、まるで意に介した様子もなかった。


「あ、いや、医者ではないんですけど……」


 勘違いされては困る。だが、挟みかけた言葉が詰まった。

 〝姫さま〟と呼ばれた彼女の、痩せて目ばかりが大きく張り出したような顔が、星羅を見たのである。

 どこからどう見ても重い病を患っているように見える。こんな小さな女の子なのに、だ。


 か細い拒絶は、それでもきちんと星羅のもとまで聞こえている。だというのに、星羅よりももっと近くにいるはずの女性たちには、まるで届いていないのが不思議でならなかった。

 おそらく尊い人であるはずの〝姫さま〟は、自身の数倍はあろうかという大人に囲まれ、体調不良を無視され、粗相したことをただただ責められていたのである。


 あの小さな子供にどんな問題が起きているのか、まるで気づいている人がいない。

 星羅は身の毛がよだつ思いがした。

 これだけ面倒を見る大人が周囲にいるのに、誰ひとりとして自身の異常の本質に気づかず、普段と変わらない生活態度を要求されたら。――そのとき自分が四歳の子供だったとしたら、一体どうしたらこの地獄から抜け出せるのだろう。


 〝姫さま〟――王女の置かれた状況を思い、星羅が絶句していたときだった。

 星羅をここまで連れてきた女性のひとりが、ひたとこちらを見たのである。


「さあ、姫さまのご病気を治してくださいませ」


 星羅は心臓が冷水に浸されたような心地になった。


「姫さまは本当にご病気なの?」


 不意に、後ろのほうからぼそっと誰かがささやく声音がした。


「医師は詐病と診断したのではなくて?」

「昨夜はなにかに取り憑かれているのだと診断されていたわ」


 ――詐病だって? とんでもない。


 誰がどう見たって立派な病気だろう。

 起き上がれない、食べられない、眠れない。

 どう見たってうつだ。

 しかしこの場の誰もがその可能性に気づいていない。気づかないというより、概念がないのだろう。そのくらい、小さな少女の症状は見逃されていた。


「ヤスミーン」


 この場に初めて男性の声がする。先刻星羅に無理難題を命令した、この国の王だ。


「陛下。申し訳ございません。本日も姫さまはお起きになるのを拒絶されていて……」


 国王の登場に場が騒然とする。

 忙しなく動き回っていた誰もがぴたりと止まり、その場に膝をついて頭を垂れた。

 国王はその様子を見やり、それから星羅へと目を向け近づく。


「うむ。だが占者が召喚したこの者こそがヤスミーンを救うと占いに出たのだ。――だから安心しなさい。必ずおまえは良くなる。のう、ヤスミーン」


 なぜそんな重責を勝手に課せられなければならないのかと狼狽する気持ちと、この状況を見てまだ誰も気づかないのかと憤る気持ちがぶつかり、言葉にできない激情が迸った。

 腹が立った。

 こんなところに勝手に呼び寄せたことも、星羅がなにをどう説明しても勝手に期待してやめないことも。


 だが、あの幼い少女の扱いようにはもっと腹が立った。

 子供好きだからだとか、そういう問題ではない。


 子供はどちらかと言えば苦手だ。関わる機会がなかったから、星羅にとっては未知の生物扱いだ。当然である。

 だけどもあれは――大人が寄ってたかって幼い子供の尊厳を踏みにじるあんな行為は、いくら子供と無関係を貫いてきた星羅と言えど、許せなかった。


「やめろー!」


 この場の全員のすべての行為をやめさせたくて、星羅は絶叫した。


「誰がどう見たってうつでしょ! カーテン開けろ! 扉を開けろ! 窓開けろ! こもった空気を入れ替えろ! 外の空気を腹まで吸い込め! なんか憑いてる? 詐病と言ったか!? んなわけあるか!! 誰も病気になりたくてなるわけないじゃん!! こんな小さな子供が母親亡くして悲しくないわけないでしょ! 半年でどうにかなるとか思ってるほうがアホだよ! 無理矢理起こす前にやることあるだろ! 悲しみに寄り添ってやれよ! 寂しさを紛らわせてやれよ! こんだけ良い年した大人が寄って集ってなに考えてるの!? もう動けないんだよ! トイレに行くのも億劫なんでしょ! だから漏らすんだよ! ってか四歳児ならおもらしくらいするわ! いちいち責めるな! 見てるこっちがうつになりそう!!」


 途中から、頭の中はいつかテレビの特集で見たフリースタイルラップバトルの様相が浮かんでいた。

 とにかく相手をディスってうまいこと言ったもん勝ちの、リズムも韻もない不思議なバトルだったが、気持ちはあれに近い。


 言いたいことが多すぎる。

 韻など踏んでいる暇はない。

 この場の全員の思考を覆さなければ――相手の魂に響かせなければならない。それができなければ、あの少女は遅かれ早かれ死ぬ。

 それがわかっていて、黙って見過ごせなかった。


 そうして腹の底から息の続く限り思いつくままに怒鳴り散らしていたものだから、隣にいた国王がぶるぶると震え出したことにも気づかなかったのである。


「――この無礼者! ここをどこだと心得る!? 四大王国ハイデルラントの王宮ぞ!! この神聖な場で、我が姫であるヤスミーンを前になんたる口の利き方か!? 捕らえて死刑にしてくれるわ!!」

「ハァー!? 突然呼び出してまで無茶振りしたのあんたでしょうが!」

「――っ!! そなた……っ、この、この私にまで……っ!!」

「最初から医療も保育もお門違いだって言ってんのに丸無視したのはそっちでしょ! そもそもわたしはこの国の人間でもありませんし!? 日本に生まれて日本で育った純日本人ですから!? 誓う忠誠みたいなもんもありませんのでね!! 王だかコスプレイヤーだかなんだか知らないけど、大事な娘だって言うならなんであの子に寄り添う姿勢も見せずに追い詰めるようなことばっかりしてるの!? だいたい見りゃそっとしといてやろうとか考えつくでしょ!!」

「誰か――!! 誰かこの者を捕らえよ!! 地下牢にぶち込め!!」

「あっ!? ちょっと!!」


 どこから湧いて出てきたのか、両脇をガシッと掴まれた。

 見上げると、武装したような男性がふたり、星羅を捕まえている。さすがに振り払えるほど容易くはなく、星羅は問答無用でずるずるとその場から引きずられていった。


「ちょっと!! 勝手に呼び出しておいて失礼なのはどっちだ!! ってか本当に死刑なの? 死刑より先にすることあんでしょ! 勝手にこんなとこに喚び出したこと謝ってちゃんと元の世界に戻してよ!!」


 どう考えても星羅の言葉は正論だったはずだが、しかし誰も彼女に賛同するものはなく、無情にも王宮地下の薄汚い牢獄へと放り込まれたのである。

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