51.寝耳に水
少しずつ運動を始めても良いでしょう、とお墨付きをもらったセーラとは打って代わり、王女はずっと体調が優れないままだった。どうやら、ふたたび眠れない日が増えてしまったらしい。
彼女はセーラが矢に貫かれた瞬間を目の当たりにしてしまったのだ。トラウマになるのも仕方がなかった。
それに、母親を亡くした悲しみから少しずつ立ち直ってきたとはいえ、完全に吹っ切れたわけではない。
例えるなら、傷口がまだかさぶただったところをもう一度擦りむいたようなものだ。正常な肌だったら引っかき傷で済んだかもしれないが、王女の心はまた血が滲んだことだろう。
同時に、セーラの身の危険もいまだ去ったわけではない。
あの日セーラを狙った下手人は捕まったが、結局有力な情報は得られていないという。下手人はあくまで金銭を得て実行したに過ぎず、それを依頼した者はあっても、身元も何もわからずじまいだった。
セーラの命を狙う大元がわからない以上、これまでと同様に自由に外出するわけにもいかない。あの事件から実に一ヶ月以上もの間、セーラはヴァイセンの屋敷で大人しく過ごしていた。
王女はあの公務以来、いつもセーラの安否を気にしていた。毎日のように面会を求められていたそうだが、セーラの状態が良くなるまではと引き止めていたらしい。
セーラの状態が良くなっても、セーラ自身が命を狙われている。近づくことすら危ないと周囲に止められていたが、しかし王女の強い希望もあって、警備を手厚くした上でセーラが王女のもとへ訪れることになったのだった。
たとえ馬車で数分の距離だったとしても、今のセーラが外へ出ることは危険極まりない。それでも、まさか王女を屋敷に呼びつけることもできず、仕方なしにベルディン騎士団がセーラの護衛についた。
久しぶりの外出は緊張の走る一瞬だったが、無事に王宮へと到着し、王女の部屋を訪れた。
いつものようにノックしてラティーヤが出迎えてくれるのを待つつもりだったが、それよりも早く小さな塊が弾丸のようにセーラへと突進したのだった。
「セーラ! ああ、あいたかった」
ぎゅっと抱きつかれ、セーラは無防備に部屋の外へと出てきた王女を嗜めるより前に笑みがこぼれてしまった。
「姫さま、しばらくぶりです。お加減がよろしくないと聞きましたけど、その様子ですと以前よりはお元気そうですね」
「姫さま、いけません! お部屋の外に出て!!」
次にラティーヤもすっ飛んできて、ひっしとセーラに抱きつく王女を引き離そうとした。
既に王女の宮の中であるとはいえ、命を狙われているセーラと一国の王女が部屋の外で無防備にしているのはまずい。セーラは苦笑しながら小さな体を半ば抱き上げるように抱きしめ、そのまま部屋の中へと歩を進めた。
「ご無沙汰してます、ラティーヤさん。皆さんも。すみません、わたしが来ると気が落ち着かないでしょうけど……」
「何を仰いますか。こちらこそ、大変なときに呼びつけるようなことになって申し訳ありません。姫さまがずっとセーラさまにお会いしたいと我儘を仰って、生活がまた乱れておりましたので」
「あらま。姫さま、ダメじゃないですか。ご飯はしっかり食べて夜はしっかり眠らないと元気になれませんよ」
「だって、ずっとセーラのことがしんぱいだったんだもの」
ぎゅう、と小さな手が白くなるまでセーラの服の裾を握っている。
泣き出しそうな、けれどもふてくされたような表情が愛らしくて、叱ろうにも表情が保てなかった。
この世界に連れてこられた当初は、子供なんて関わったことがないし未知の生き物と思っていた。だが、わからないなりに言葉を交わしてその人となりがわかるようになり、純真な好意を向けられると、やっぱりかわいいと思うものだ。
「ご心配をおかけしてすみません。ありがとうございます。もうすっかり良くなりましたよ。ですから、今日からはもうちゃんとご飯を食べて夜は眠ってくださいね」
「もちろん、そうします。でも、夜はセーラがおはなしをしてね」
きらきらと青灰色の目を輝かせて見上げてくる子供に、セーラは笑みを作ったまま首をかしげる。
「ええっと……わたし、夜はお屋敷のほうに戻る……はず、では……?」
「ああ、それが……」
ラティーヤが困ったように眉を下げた。
「どうせまた姫さまは毎日セーラさまのお話や歌をお求めになると思うので、日参して命を狙われるリスクを上げるより、しばらくこちらに滞在するのが良いのではないか、とベルディン団長が仰いまして」
「えっ」
「それで、こちらの宮でセーラさまにご滞在いただけるお部屋を用意させていただいたんですが……。もしかしてベルディン団長はそのことをお伝えになっていなかったのかしら?」
「えっ、やっ、……聞いてないです……」
まさに寝耳に水である。混乱してここまで付き添ってくれたベルディン騎士団の兵士たちを見やると、彼らもさすがにセーラのスケジュールまでは把握していなかったらしい。困ったような顔をした。
「我々もセーラさまのおそばを離れるなと命を受けているだけですので……。ご滞在中のお部屋とこちらの姫さまのお部屋の行き来以外は、宮の中でもできる限り移動は控えてほしいと団長から伝言を承っているくらいでして」
つまり、兵士たちもセーラがここに滞在することはわかっていたが、当然セーラ本人もそのことを了承しているのだと思いこんでいたらしい。
「ねえ、セーラ」
混乱するセーラを他所に、無邪気な小さな手がかわいらしくセーラの手を握る。
やさしく両手で包むようにするその仕草が、どこまでも高貴な女性を思わせた。
「明日はね、わたくしのおともだちをしょうたいして、お茶会をひらくのです。そのせきで、セーラにもいくつかお話をしてほしいの。みんな、わたくしの吟遊詩人のすてきなお話をたのしみにしているのよ」
「――えっ?」
――お友達? お茶会?
一体どこからそんな話が急にわいてきたのか。
呆然と周囲を見渡すと、ラティーヤが弱りきった顔で首を振ったのだった。
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