49.ヴァイセンの思い出
「今は首都に常駐している必要があるからここを拠点としているが、幼いときは領地の屋敷にいることが多かったから、実際には家族全員でここで過ごしたことは数えるほどしかないんだ。母上は俺が本当に小さいときに亡くなったから」
「…………」
ヴァイセンの母が亡くなったのは、確か、四歳か五歳。ヴァイセン自身ですら曖昧なほど、その記憶は薄いのだ。
母は身体の弱い人で、結婚する前から長くはないと言われていたのだと聞いている。だから家族はみんな母の死を迎える準備ができていて、ヴァイセンだけが状況を理解できていないうちに亡くなった。
兄は六歳年上で、よく頭の回る人だった。良く言えば聡明で将来有望。しかし実際には〝口達者で小賢しいクソガキ〟。そう評したのは誰だったかと記憶をたぐり――いつか、祖母がそのようなことを言っていたなと思い出す。
しかし、ヴァイセンにはやさしくて優秀な、憧れの兄だった。大きくなってからは、何かにつけて「父とよく似た人だな」と思っていた。
そんな父はひょうきん者だ。やはりよく口が回り、頭の回転も早く、陰謀渦巻く宮廷のお偉方を口先だけで転がしているような人だった。
「お祖母さまの天敵だったんだ、父は。お祖母さまにとっては紛れもない実の息子なんだが、あまりに性格がかけ離れていてな。父の存命時には、このハイデルラントで父に口で敵うものなし、とまで言われたほどだったんだ。そんな人だから、お祖母さまはいつも息子である父に対してお怒りだった。何を叱りつけても、何を強制しても飄々と言い返してやり込められるからな。――正直、いつお祖母さまの頭の血管が切れてもおかしくなかったよ」
「すごい方ですね、ヴァイセンさまのお父さま」
セーラがくすくすと笑うので、ヴァイセンも自然と頬が緩んだ。
父と兄を同時に亡くしてから、これまであまり家族を振り返ることはなかった。だが、口にすればするほどあまりある思い出が蘇る。
祖父はそんな父を、困ったやつだと言いながら野放しにしていた。祖父にも、妻である祖母――先代国王の妹の立場に固執する高飛車な女性は扱いあぐねていたのだ。
息子である父にやり込められる妻を見て、多少のストレス発散にしていたのかもしれない。
父が十代半ばになる頃には、祖母はもう息子に嫌気が差して家を出て行ったあとだった。数多くある領地にある屋敷のひとつを自身の根城とし、王族時代から連れていた少数の侍女のみを連れて籠城したっきり、出てこなくなった。ジュラーク家としても祖母が異質なだけで家族仲は悪くなかったから、暗黙の了解でそれを良しとしていたのだ。
そんな父が、祖父亡き後に爵位を継いでも、祖母は挨拶のひとつも寄越さなかったという。
父が妻を――母を迎え、兄やヴァイセンが生まれても、さまざまな記念日を迎えても、いつもだんまりを決め込んでいる。
そんな祖母に、父は「母上はいつもあんな感じだ」と笑うだけだった。
だから、ヴァイセンはあまり祖母とのつながりを持たないまま育ったのだ。
ヴァイセンが四歳か五歳のとき、母が亡くなった。
もちろん、悲しかった。だがそれも、家族やメイヴェルたちから当時のヴァイセンがどういう態度だったかを聞かされていたからそうなのだろうと思っているだけで、自身の記憶として覚えているわけではないのだ。
それくらい、母との記憶は薄かった。
それでも、一度だけ、母のことを巡って兄と大喧嘩したことがある。
「喧嘩というより、俺が一方的に兄に対して怒っただけなんだが」
「ヴァイセンさまが?」
セーラが目を見開いた。
「いつも穏やかだから、怒ってる姿なんて想像できませんよ」
「そう買い被ってくれるな。俺は父や兄に比べたら凡庸なんだ。口もうまくないし、ちょっとしたことで取り乱して何もかもうまくいかなくなる。だから何事も時間をかけて準備しなければならないし、うまくいかないならせめて態度だけでも鷹揚に構えろとメイヴェルに何度も叱られて、それでようやくこの程度になれただけなんだ」
「そんな……」
セーラは一度口を閉ざし、それからおかしそうに笑った。
「そんなことはないと思いますけど、わたしだってヴァイセンさまに同じこと言われましたね。でも、ヴァイセンさまは先んじて、安い慰めの言葉ではわたしは信じないとも言ってました。わたしもそう思います。きっと、そんなことはないなんて言われても、ヴァイセンさまの言葉を信じられなかった。……わたしたち、同じなんですね」
「そうだな……」
――そうか、これもセーラ殿と同じ、劣等感だったのか。
ヴァイセンは今になって初めて、物心ついたときからずっとうっすらと抱いてた感情の名前を知った。
「幼いうちに母が死んだ俺と違い、兄のほうが母との記憶も残っていたんだ。だからある程度大きくなって……十歳を越えたくらいだっただろうか。いつものように父と兄と囲んだ夕食の場で、自分の知らない母の話をする父と兄がどうしようもなく許せなくなったときがあった。ちょうど、あなたもいつも食事を取っている、この屋敷の広間でのことだ。それはもう今となっては恥ずかしいくらいの癇癪を起こしてな」
あのときは、父も兄も驚いていた。
ヴァイセンはふたりに比べれば自身は凡庸だと思っているが、周囲から見れば、ヴァイセンは母親によく似た穏やかな少年だった。それが大爆発したときの祖母のように激昂し、ありとあらゆるものを破壊する勢いで癇癪を起こした。
怒って物に当たるなんて、公爵家の恥さらしも良いところだった。
「……いえ、怒って当然だと思いますよ。ヴァイセンさまの大切なご家族のことを悪く言いたくはありませんが、おふたりとも、とってもお喋りすぎてちょっとその……いろいろと大雑把な方々だったりします? ヴァイセンさまの心の機微に疎いというか」
「ははは。よくわかったな」
ヴァイセンも常々思っていたことを、彼らを全く知らない他人にも指摘されると面白い。
確かに父も兄も瑕疵はあった。それを補って余りあるほどに、大好きな家族だった。
「セーラ殿の言う通り、あの件に関しては俺は悪くないといろいろな人に言われたよ。当時も使用人たちはたくさんいたから、目撃者が多かったんだ。不幸中の幸いだったな。――メイヴェルなどは父にも兄にもこっ酷く叱りつけたらしい。それ以後、家族間で母の話はしなくなった」
一番幼かったヴァイセンが母親との記憶が薄いのは当然だし、家族の中でも一番幼いのだ。家族団らんの場であるのなら、ヴァイセンに合わせた話題選びをしなくてはならなかった。
父と兄はヴァイセンへの配慮が足りなかったと反省したらしいが、今になって思えば、もっと自分から、母について尋ねておけば良かったのだと思う。そうすれば父も兄も母のことをいろいろと教えてくれただろうし、ヴァイセンも記憶の薄い母について知ることができたのだ。
ヴァイセンは当時、まだ十代前半だった。自分の感情をコントロールするだけで精一杯で、家族とのうまい付き合い方について、最善を考える余裕もなかったのが悔やまれる。
「それでも兄と仲が悪くなったりしたわけじゃないんだ。むしろ、あれ以来、兄は俺にもっとずっと寄り添ってくれるようになった。兄のことが大好きだったよ。兄を支えたかったから、剣の稽古は欠かさなかった。兄が爵位を継いだら、ジュラーク公爵家率いるベルディン騎士団の団長には俺が就くことになるから。だから……まさか、爵位を継ぐ前に父も兄も亡くなってしまうなんて、想像もしていなかったんだ」
あのときは本当に大変だった。爵位を継ぐことになったのは晴天の霹靂で、右も左もわからない。
公爵家の行く末という十代な責任を背負う覚悟もままならなかったし、もちろん、家族を一度に失った喪失感も大きかった。
幸か不幸か、環境が一変してしまうほどの忙しさが、ヴァイセンを家族を失った悲しみから遠ざけてくれた。
否が応でも継がねばならなかった公爵当主として、日々一寸先も真っ暗なわけのわからない仕事に忙殺されていたからこそ、自身の個人的な感情を後回しにできたのだ。
父と兄を喪ったことに悲しんだのは、あの流行病が収束してからずいぶんとあとのことだった。
突然爵位を継ぐことになってから一年以上が経ってからだっただろうか。ある日突然、家でひとりで眠ることが怖くなったのだ。
――思えば、精神的なショックがあとから遅れてやってきたのは、俺自身のことか。
たった今、セーラにそのような話をしたばかりだ。
団員に似たような精神的な症状が現れることがある、などと偉そうに語ってしまったが、何を隠そう、それは自分が通ってきた道だった。
不意に口を開かなくなってしまったヴァイセンに何を思ったのだろう。
じっとうつむいていたヴァイセンの手に、そっと白い手が伸びてきた。ヴァイセンのもとのはまるで違う、柔らかくてすんなりとした、誰かに守られて慈しまれるべき手だ。
はっと顔を上げると、既に枕に頭をあずけて半分眠そうにしているセーラが、掛布の下から手を伸ばしてきていた。
こちらが彼女を慰めるつもりでここに座っていたのに、いつの間にか、彼女がヴァイセンを労るように手を重ねている。
その、はかなくも慈愛に満ちた目に何かが重なる。
いつか、同じ光景を見た気がする。
まるで白昼夢のような、一瞬の茫洋とした感覚。
――白昼夢ではない。
幻でもない。
しまい込んだ記憶の中に、確かに残っているものだ。
母がまだ生きていたとき、病床に臥せっていた母のもとを訪れ、枕元に座ってとりとめのない話ばかりを聞かせていた。
今日はどんなふうに過ごしたのかと母が話をねだるから、まだ幼く、語彙も足りない頭で、一生懸命に話して聞かせた日々があった。
そんなとき、母は決まって、こうしてヴァイセンの手を握ってくれていたのだ。
ちゃんと聞いている。あなたが成長していく姿を、瞬きの瞬間すら見逃さない。残された時間の限り、きちんと見届けるから。――そんなふうに言われている気がして、毎日母に会える時間は必死で喋り続けた。ヴァイセンも、母のひとつひとつの仕草を見逃すまいと、絶対に忘れるものかと瞼に焼き付けるつもりで見つめていたあの時間。
そんなことを、今になって思い出す。
握られた手に己のそれを重ね、そっと撫でる。温かくてしっとりとしたセーラの手が、やがて、安堵したように力が抜けていった。
規則正しい寝息が聞こえてくる。
なんだか胸が苦しいほどに締め付けられて、どうしてか、無性に泣きたくなった。
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