47.帰りたいのか、帰らなければならないのか
「ずっと……わたしは何もできない子供だと怒られながら育ちました。小さいときはたくさん習いごとをさせられて、わたしが興味を持つ持たないにかかわらず、たった数回試して母の理想通りにできなければ「才能がないからやめなさい」とやめさせられて……。十代半ばからは、医者か、看護師か、保育士か、とにかく専門性のある職業に就けと言われました。専門性のある職業に就くには相当勉強して、他の子よりもずっと成績が良くないとなれません。だけど、わたし自身がなりたいと思っていたわけじゃなかったからやる気が出なくって……。結局、大学――十八のときに、母の求める専門的な知識を学ぶ進路に進むのではなく、親元を離れることを選びました」
「……ご両親は教育に熱心だったのだな」
「そう……かもしれません」
「だが、ご自身の理想を追求するあまり、セーラ殿の人生についてはあまり興味を持てなかったように思える」
「そう――そうですね。わたしは母に、わたし自身に興味を持ってもらいたかったんだと思います。わたしが好きなこと、わたしがやりたいことは何なのか知ってほしかったし、それを優先してやらせてほしかった」
「うん」
「だけど、結局叶いませんでした。……いえ、叶える努力もしなかったんです。物心ついたときからそうだったから、それが普通だと受け入れてしまっていて、母の理想に正面から抗うっていう発想もなかったんです。ただ母のそばにいることが息苦しくて、だから逃げることを選んでしまった」
言葉にすると、それを聞いてくれる人がいると、だんだんと自分の気持ちが整理されてくる。
物心ついたときから三十年近く、ぼんやりと問題としては抱えていたのに、それについて何が嫌だったのか、どうすれば良かったのか、具体的なことを何も考えてこなかった自分に初めて気づいたのである。
セーラは吐息で笑った。
嘲笑だった。
「日本では二十二歳から社会に出て働き始める人が多いんですが……そうなったときも同じでした。とにかく母に会いたくなくて、だから実家から離れた場所で仕事を得ました。結局、そういう理由だけで進路を選んでいたから、母の望む専門職にはなれなかったんです。他の多くの人と同じ、誰でもできる仕事に就きました。――それでも母は、何かにつけて今からでも遅くないから勉強し直せって言ってましたけどね」
「…………」
「わたしはずっと、
ヴァイセンは口を挟まず、ただ黙ってセーラの話を聞いていた。セーラが話したいだけ話せば良いのだ、と肯定してくれるようで、だからつい、とりとめのない話ばかりしてしまう。
自分で考えて答えを出さなければ誰も解決のしようがないのに、自分でも答えが出ていないような、どうしようもないことばかり。つらつらと口からこぼれては、投げっぱなしの気持ちの数々。頑是ない子供のような、矛盾して破綻した感情。
自分でも何を話しているんだろうと呆れながら、一度口にし始めたら止まらない。
こんな、どうしようもなく怠惰で、我儘で、無能な人間のくだらない思いの丈などぶち撒けて、さすがのヴァイセンも呆れただろう。
それでも、一度打ち明けた心の叫びは止まらない。息切れして、ふたたびあふれる感情に涙がこぼれて、ようやく言葉が出なくなった。
沈黙のさなかに己の荒い吐息だけが聞こえる。
そうなるまで、彼はただじっと、逃げもせず、ため息もつかず、黙って話を聞いてくれていたのだった。
「――だからあれほど、自分には何もできないと繰り返していたのだな。本気でご自身には何の能力もないと信じていたのか。ようやく腑に落ちたよ」
返ってきた言葉は穏やかだった。
セーラのこれまでを責めるものでも、どうすれば良かったとアドバイスするものでもない。ただヴァイセンとセーラの認識の違いからくる齟齬をようやく理解した。そのことに納得したようだった。
「ここで私が安い慰めたとしても、あなたは本心では納得しないだろう。それに、あなたは既に過去の自分に対してかける言葉を見つけていて、それを踏まえてこれからどうしていこうか、それを悩んでもがいているように見える」
「――そうかもしれません。……実を言うと、今ヴァイセンさまにお話しているうちに、自分でもこんなふうにこれまでのことをきちんと言葉にして整理したことなかったなって気づいたんです。それで喋ってるうちに、ああ、こうしたら良かったのに、とか、こんな発想しても良かったのに思い至らなかったなとか、いくつも気づいて」
「それだけでも、私がここにいた価値があったわけだ。お役に立てたのなら何よりだ。それに、セーラ殿」
「はい」
「私は過去のあなたに声をかける術は持たないが、今のあなたに語りかけることはできるんだ。これからどうしていきたい? と。今すぐ答えが出なくても良い。あなたがまた自身の心に囚われて苦しくなったとき、私は何度でも問いかけていける。あなたはどうしたいのか、と」
セーラは息をついた。
隣に立って、そばにいるのだと示すように声をかけてくれる。その存在がいてくれるだけで、どれほど心強いか。
初めて、肩から力が抜けたのだった。
力なく笑うと、ヴァイセンが心配そうな目を向けてくる。どうした、とでも言いたげだった。
「なんていうか、ただそうしてくださる方がそばにいるだけで、こんなに気持ちが楽になるんだなって拍子抜けしちゃいまして……。もっと早く、誰かに話を聞いてもらえば良かったかな」
自分の話ばかりしてしまった手前、恥ずかしくて誤魔化すように笑ったのだが、しかしヴァイセンは不意に眉を寄せた。
不快そうというよりは、恐ろしく真剣な目だった。
じっくりとセーラを見つめたまま黙ってしまう。何か気に障るようなことを言っただろうかと、心臓が嫌な音を立てる。
「ヴァイセンさま……?」
「他の誰かではなく、俺に話せば良いだろう」
どこか拗ねた響きに、セーラは意図がわからず首をかしげた。
「えっと……はい。今、お話できて良かったなって思ってます」
「今だけではなく、これからもだ。他の誰かではなく、俺を頼れば良い」
「それはまあ……ありがたいと思ってますけど」
けれども、ヴァイセンはこのハイデルラント王国の人で、それはセーラにとっては異世界のことだ。
「――今、もとの世界に帰るまでの一時的なことだから、俺では役に立たないと思ったか?」
「い、いえ! そのようなことは……」
役に立たないとは思っていない。そんなことはない。けれども、このままヴァイセンと一生をともにするわけではないのだ。それどころか、無事に帰れるときが来たのなら、それはヴァイセンとは一生会えなくなることを意味する。
――それは嫌だなあ。せっかく、良い人なのに……。
けれど、そうしなければならない。
唐突に、近い将来来るであろう別れを意識した。
セーラがうつむくと、ヴァイセンはそっとセーラの肩を掴む。
「セーラ殿。ずっと尋ねようと思っていたのだが……。あなたは帰りたいのだろうか」
「それは――」
当然だろう。そう答えを返そうとしたが、しかしヴァイセンはセーラの言葉を遮って続ける。
「この国にいるのは嫌か?」
「…………」
「あなたにとって心地良い場所ではないのだろうか。……いや、さんざんあなたを拒絶するような輩に心無い言葉をかけられ、命を狙われているのだから、こんな国は嫌いだろうが……」
セーラは目を瞬いた。
考えたことのない視点だったのだ。
「ここにいたいかどうかは考えたことがありませんでした。ここにいてはいけないと……。帰りたいというより、帰らなければならないと考えていたので。ハイデルラント王国が好きだとか嫌いだとか、そういうふうに考えたこともないです。ヴァイセンさまや、姫さま、ベルディン騎士団の方々はもちろん好きです。良くしてくれますし、みんな温かい人だと思います。でも、好きにはなれない人もいます。彼らもわたしのことは好きではないし、歩み寄れるとも思えません。ですので、好きか嫌いかは……」
「ああ、いや。今その答えを考えて出してほしいというわけではないのだ。だが、そうか。……ここにいてはいけないと思っていただけで、あなた自身がここに残りたいかどうか、この国を好きだと思えるかどうかについては考えたことがないのだな」
「考えてみれば、そうですね。うん。望まれてないから、早く立ち去らなきゃってそのことばっかり必死に考えてて……」
翻って、もとの世界のほうに早く帰りたい理由があるかと問われると、それもあまり思いつかない。
母娘仲は今もなおうまくいっておらず、大学から住んでいる土地にはろくに友達もいない。もちろん、大学時代に付き合いのあった友人はいくらかいるが、心の底から何でも話せる友人たちだったかと言われると、そうでもない。
長期休暇のたび、実家に帰るのを楽しみにしている彼らを目の当たりにしては、ひどく自分が薄情で惨めに思えていたのだ。だから、セーラのほうが彼らと一歩距離を置いた付き合いしかできなかった。
そんな貧相な人間関係だったから、社会人になって十年もすれば連絡は途絶える。
会社の人とのつながりこそあるが、社内の人はあくまで仕事仲間であって、友人ではない。
奇しくも今、ヴァイセンが問いかけた。
あなたはこれからどうして行きたいか、と。
無事にもとの世界に帰れたからといって、その答えを見いだせない。
そんな気がしてしまったのだ。
セーラは考えもよらなかった可能性に思い至って、思わず黙り込んでしまった。
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