46.本心

 初めてセーラが口にした懺悔に、ヴァイセンは大きく目を瞠って言葉を失っていた。


「セーラ殿……」

「そうじゃないんだって、わかってます。わたしがきっかけになれたのなら、多少でも何かの役に立ったんだって……思っても良いって、わかってます。たとえまったく役に立っていなかったとしても、だからって罪悪感を覚える必要もないんだって、それもわかってます。だって、勝手に喚び出されただけですから。……でも、わかっていても……わたしの存在を否定する人があちこちにいたら、どうしたって気持ちが小さくなってしまって……」


 叩かれていく自尊心を、理性的な意思で守っていた。その結果が〝諦観〟だった。それでようやくぎりぎり自分の心をつないでいたのに、そんな虚しい努力も粉々に破壊するようなことが起こった。

 セーラの存在が邪魔だからと、命まで狙われたのだ。

 もう、立ち直れなかった。


 それでもこの場から今すぐ逃げ出すこともできない。虚勢の諦観を貼り付けてあの場をやり過ごしていたが、身体が回復して思考だけが元気になれば、どうしても暗い考えばかりが浮かんでいく。

 そうなったらもう眠れなかった。眠れないだけではなく、いても立ってもいられなかった。

 なぜ受け入れてくれないのかと泣き叫んで、排除しないでくれと縋りたかった。

 けれども、その段に至ってなお、セーラは理性的だった。


 どうしようもなく悲しいのは、怪我をして弱っているせい。

 夜だから仕方がない。

 きっとお腹が空いているからだ。


 自身の堪えきれない感情を懸命に外的要因のせいにして、それを解決するために厨房に忍び込んだ。もう、冷静にトゥーリーンを起こそうなどとは考えていられなかったのだ。


 顔を覆って泣き崩れたセーラの嗚咽に混じった言葉は、糸がもつれてぐちゃぐちゃに絡まったように支離滅裂で、固く凝っていた。

 こんな言葉ではきっとヴァイセンには理解できなかったに違いない。

 現に彼はひとつも相槌を打つことなくただ黙っていた。


  ――謝らなきゃ。きっと困ってる。


 こぼれる嗚咽を飲み込み、セーラは乱暴に頬を拭った。


「ごめんなさい。こんな話を聞かせても困るだけですよ、ね……」

「謝らないでくれ」

「…………」


 強い力で抱き寄せられ、セーラは押し黙った。

 何が起こったのか、しばらく理解が及ばなかった。


 においがする。

 淡い、本当にごくごく薄い、柑橘のような香り。その中に混じった、ヴァイセン自身のにおい。

 セーラはヴァイセンに確かに抱きしめられていた。

 

 こんなことは初めてで、驚きや羞恥を覚えるよりも先に、人の腕の中はこんなにも気持ちが凪いでいくものなのか、と感動すら覚えたのだった。


「謝るのは俺のほうだろう。あなたの存在を受け入れない連中がいることは知っていた。俺もそれを傍観する気はなかったし、その都度あなたに対しての態度を改めるよう言葉にしてきたつもりだったが、つもりに過ぎなかったのだな。あなたはいつも落ち着いていて仕方ないと笑っていたから、大丈夫なのだと勘違いしていた。……本当にすまない」

「……いえ、わたしが……」

「もっと態度に表してくれたら、などとは思っていない。あなたはあなた自身の心を守るためにやっていただけで、我々に本心を気づかせたくなくてそうしていたのではないだろう。あなたがこの世界に居づらくなるような言葉や態度を向けていた人間がいたのは事実。それを俺も見ていたんだ。ならばあなたがどれだけ平気なふりをしていようと、もっと気にかけるべきだった。あなたが本心を打ち明けやすいような関係を作るべきだった。……あなたを守った気でいながら、実際にはまったく気を回せていなかったのだな。申し訳ない」


 抱きしめる腕の力が強くなる。

 それだけで慰められた気持ちになる。あれだけ傷ついていた心が楽になっている。


「恥ずかしながら、こういうとき、どう慰めて良いのかわからないんだ。だが……今は、こうしなければならないような気がした。驚かせてすまない。あなたが嫌なら離すべきなのだろうが――」


 セーラは慌てて手を伸ばし、ヴァイセンの背をぎゅっと掴んだ。離してほしくなかったのだ。


「わたしも、恥ずかしながら、もう少しこうしていてほしいと言いますか……」


 どう言葉にしようか迷った挙げ句、実に情けない懇願になってしまった気がする。しかし、しっかりと抱きしめたその仕草で伝わったらしい。

 耳元で、ほんのりと吐息が微笑んだ気配がした。


「こんなもので助けになるのなら、いくらでも」

「わたしが弱いばっかりに、変なこと言ってすみません」

「あなたが弱いとは思わない。これほどの目に遭いながら理性的に自身を守るために行動していたのだろう。本当に弱い人にはできないことだ。――もっとも、仮によく涙を見せる方だったとしてもそれを不快に思うことはないんだが。セーラ殿は本当によく頑張る方だから、たまには心を休めているところも見せてくれたほうが俺も安心するよ」

「……そ、ですか」


 慰めではあるのだろうが、こうも肯定的な言葉をかけてくれる人は今までいなかったものだから、冷静になってくると羞恥が勝ってくる。

 これ以上会話を続けるのも気まずくて、セーラはただ静かにヴァイセンの温かい腕の中でじっとしていた。


 そうしてしばらく抱きしめ合っていると、次第に嗚咽が収まり始める。パニックになっていた思考が冷静さを取り戻し始めると、今度はいつまでも抱き合っていることが恥ずかしくなってきた。

 もぞりと腕の中で身動ぎすると、ややあって拘束がゆるむ。それに名残惜しさを感じていることさえ、なんだか照れくさかった。


 身体が離れると、そっと覗き込んでいた深い青の目が真剣な色を湛えている。気遣うというよりも、ただ切実な色をしていた。 


「セーラ殿にとって、ここは縁もゆかりも無い場所だろう。陛下に姫さまを救ってほしいと頼まれたところで、それを真っ当に引き受け遂行する義務もなければ、義理もなかったはずだ。だが、あなたはあなたのできる範囲のことを懸命に考えて実行してくれた。その努力があったからこそ、姫さまはあそこまでお元気になられたのだと、俺の目にはそう見える。そんなあなたがなぜこうも頑なに自身は無能だと嘆いているのか……俺にはそれがわからんのだ」

「…………」

「セーラ殿。あなたの何が、あなたをそこまで苦しめている? あなたがあなた自身を無能だと思わせているのは何だ?」


 呼吸が止まる。

 それはセーラの根幹を成すものだ。


 脳裏に母親の声が蘇る。


 ――あなたって本当に何もできない子ね。もう良い。明日から習いごとはすべてやめて勉強しなさい。医者か看護師、保育士でも良い。とにかく手に職をつけるのよ。そうでないとこれからの社会、良い生活なんてできないからね。


 じっとりと冷たい汗が吹き出してくる。

 そこには触れられたくない。けれども、一番にそれが思い浮かんだということは、これこそがセーラの呪いになっているものなのだ。


 ――もうわかっているじゃないか。


 そして、ヴァイセンが受け止めてくれるだろうこともわかっている。

 彼はやさしい人だ。ただ唯々諾々とこちらの言葉に従う無責任なやさしさではなく、言葉を与えることの責任を知っている。

 その彼が、自らここまで踏み込んだ質問をしたのだ。受け止める覚悟があって一歩歩み寄ったのだろう。セーラも、彼が無責任にセーラの問題に関わろうとしたことから逃げるような人ではないことくらい、短くともこれまでの付き合いがあればわかる。


 それでも、口にしようと決めるまでにものすごく勇気が必要だった。

 セーラはたっぷり二呼吸分、覚悟を決めるのに時間がかかった。そうしてから、震える声でとりとめもなく話し始めたのだった。

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