45.崩壊
トゥーリーンもメイヴェルも辞して、部屋にはヴァイセンだけが残った。
彼もこんな時間まで働いていて、明日だってまた早朝から出かけるのだろう。セーラが迷惑をかけたせいで、少ない休み時間をも付き合わせてしまっている。
セーラはもういい加減いたたまれなくて、まだ立ち上がる気のないらしいヴァイセンをちらと見やった。
「あのう……ヴァイセンさまもお疲れでしょうし、もうお休みになったほうが良いんじゃないでしょうか。騒ぎを起こした身で言うのもなんですが」
「私はあなたに話があるので残った。女性の部屋に滞在するには不適切な時間だろうが、許していただきたい」
「…………」
まさかそうストレートにお叱り宣言をされるとは思わず、セーラは思わず身を固くした。
誰が悪いだとか、セーラが起こした騒動だとか、それは今どちらにも非はあった、ということで話は終わったはずだった。だが、屋敷の主人はヴァイセンである。責任者から改めて話があると考えてもおかしくはない。
セーラはヴァイセンの第一声と共に土下座する覚悟を決めた。
「あなたが眠れなかったのは、空腹だけが理由ではないだろう?」
「本当に申し訳――え?」
「……今、また謝ろうとしたか?」
食い気味の謝罪は、しかし思いがけない質問にフェードアウトしていった。
ヴァイセンは耳ざとくセーラの言葉を聞き咎め、深海の目をじろりと寄越す。
とんでもないと慌てて首を振れば、ヴァイセンはため息ひとつで不問に処してくれたのだった。
「あなたの性質的に、ただの空腹で眠れなかったのならば、そこの水差しで空腹を誤魔化すだけに留めるだろう。どうしても空腹に耐えかねたのなら、トゥーリーンだけを起こして夜食を用意させたはずだ。
「……それはちょっと、買いかぶってませんか」
セーラの性質をよく把握している。と思うと同時に、彼の想像するほどいついかなるときも冷静に物事を判断できる人間ではないとも思っている。
ヴァイセンの過大評価にへらりと笑みこぼして見せると、しかし彼は真顔のまま続けた。
「眠れなくて、いてもたってもいられず部屋を飛び出した。……今もだ。自覚があるのかないのか私には図りかねるが、あなたは自身の感情を隠すのに必死なようだ。気づいているか? 先程から笑っているのだろうが、全然笑えていないぞ」
「…………」
バカみたいにヘラヘラ笑うな、と言われているような気がして、セーラはついに笑みを引っ込めた。
何を虚勢を張っているのかと暗に問われ、ようやく自分が虚勢を張っていることに気づいたのだ。
――言われてみれば確かに、わたしは何か、焦っていたかもしれない。何に対して焦っていたのかと問われると言語化するのは難しいけれど、強いて言うのなら。
「……笑っておかないと、笑えなくなっちゃうじゃないですか」
「なぜ笑えなくなったらいけないんだ?」
「だって……」
笑えなくなったら、何かが決定的に崩れて、もうもとには戻れないような気がしたのだ。
「だって、わたしは……。わたしは、ここにいたらいけないのかもしれないけど。それを受け入れたら……ここにいちゃいけないんだって、わたし自身が思い込み始めたら――」
「セーラ殿」
続きは言葉にならなかった。
――ああ、恥ずかしい。こんなつもりじゃなかったのに。
言葉にならない感情が多すぎて、熱となったそれらが飲み下せない。ぐぅと喉が鳴って、堪えきれずに涙がこぼれ落ちた。
この気持ちをどう説明したらいいだろう。
決して、卑屈な気持ちになっていたわけじゃないのだ。
命を狙われて、それが、セーラがこの世界にいることを疎む人の仕業だと知って、「ああ、自分は受け入れられないのだな」と思った。
そんなことは前々から知っていた。王宮の重臣たちの中にはあからさまにセーラを排除すべし、などと言う人もいるし、そうして意見が対立することに国王とヴァイセンが矢面に立って、彼らを執り成すのに苦労しているのも知っている。
けれどもセーラは、そのすべてを「仕方がない」と割り切ってきたつもりだった。
そうして諦観しないと、自分の心を守れなかったのだ。
多くの人がセーラの存在を望んでいない。悲しい、ひどい、なんて悲劇のヒロインぶったって、セーラがこの世界から今すぐに帰れない事実は変わらない。どれだけ望まれていなかろうと、その冷たい視線からは逃れられない。
そんな人の態度を真に受けたら、悲しくなるじゃないか。
自分は望まれていないんだと自分でその事実を認めたら、もっと心が苦しくなるじゃないか。
だから諦めていたんじゃないか。
セーラがこの世界に受け入れられないのは仕方がないことで、ヴァイセンたちが帰る方法を見つけてくれる一時的な間のことだから我慢しようと言い聞かせていたんじゃないか。
そうやって心が弱ってしまわないように虚勢を張ってきたのに、命まで狙われたら。
「わたしは殺意を抱かれるほど望まれていない人間なのかって……それを言葉にしたら、本当に価値のない人間なんだと、認めてしまうみたいじゃないですか……っ」
こちらに来てから、ずっと心の内側に抱えていた。
自分には価値がない。
親に望まれた〝手に職〟はついに何も得られず、何もかも中途半端で、そんな何の能力もない自分が呼び出されて王女の元気を取り戻すよう期待されても、大したことはできていない。
王女が公務ができるまでに回復したのには、確かにセーラが働きかけたことがきっかけになったところはあるだろう。だが結局のところ、王女の病を解決したのは王女自身が元気になりたいと望んで本人が努力した結果であり、その努力の手助けを朝から晩まで見守っていたのは侍女たちのおかげなのだ。
自分は何もできていない。何もしていない。だからこの世界の人に歓迎されないのだ。
ずっとずっと考えていた。
それが捻くれた自己卑下だとわかっていながら、落ちていく思考を止められなかったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます