44.眠れない夜はお腹が空く

「それで……一体何があったんだ?」


 セーラの部屋に戻り、彼女に椅子を勧め、すかさずその膝にブランケットをかけてやる。必要ないと固辞したが、それを被らないことには話ができないと説得すれば、セーラは不承不承ながらに大人しく従った。


「ちょっと小腹が空いたなと思いまして……」


 話はこういうことだった。

 夜になっても眠れなかったセーラは、長い時間起きていたためか空腹を感じていた。しかし、既に時刻は深夜に差し掛かっている。寝静まった使用人たちを起こすのも忍びなく、厨房の場所もわかるからとひとりで忍び込んだ。もちろん、この屋敷の至る所に魔導具まどうぐによる警報機が設置されているとは知らずに。

 そうして、見事に引っかかったというわけだ。


「思えば、眠るまでに果物とスープしかいただいてなかったんですよね。固形物を食べていなかったので、まあお腹空くんですよね……」

「ですから、そういうときは我々をお起こしくださいとベルもお渡ししたでしょう」


 部屋に戻ってきたトゥーリーンがセーラを窘め、彼女の前に温かいスープとパンの乗ったお盆を置いた。


「あ、ありがとうございます。こんな立派なスープまで……。料理長の手を煩わせてしまってすみません、ほんと」

「この程度でしたら手間でも何でもございませんよ。もしかしてセーラさま、ご自分で何かお作りになるおつもりでした?」

「そのとおりで……」


 しおしおとセーラがうなだれる。

 当然のように自分で作るつもりでいた、ということは、彼女は調理技術も持っていたのか。

 初めて知るセーラのスキルに驚きながらも、ヴァイセンはちらとセーラのためのスープを見やった。


 ほかほかと湯気を立てるそれは、黄みがかった半透明をしている。細かく刻まれた野菜は種類こそ少ないが、ジャガイモ、キャベツ、ニンジン。それから、白く丸い小さな塊がいくつか入っていた。


「その白いのは何だ?」

「あっこれ。つみれですね。お肉ですよ」

「肉?」

「お肉を挽き肉にして練って、丸く形を整えて煮込むんです。ミンチにしているので煮込んでも固くなりませんし、ここに味付けしたりお肉と風味の合う香草を刻んで入れてもおいしいんですよ。ってこれ、いつかの夕飯のときに料理長とお話したやつですよね。作ってくださったんですか? っていうかやっぱりこんな夜中に作らせてほんとすみません……」


 一瞬喜びを見せたものの、すぐにしょぼくれるセーラにトゥーリーンが笑った。

 どうやらヴァイセンにはわからない遣り取りがあったらしい。トゥーリーンを見やると、彼女は笑いをほんのりと引っ込めて説明してくれた。


「先週、旦那さまがご不在のお夕食のときに、セーラさまから料理長へご提案をいただいたんです。今セーラさまが仰ったように、お肉を食べやすく挽き肉にして味付けをし、一口大に形を整えて煮込み料理にするとおいしいスープができると。だいたいどんな味付けのスープにも合うということでいずれ試してみると料理長も乗り気だったんですが、この機会に有言実行なさったようですね」

「ほう……」


 スープに直接肉を入れる。そのような料理がないわけではないが、ヴァイセンの経験では、すり潰した肉を加工してスープに入れたものは食べたことがなかった。


 まず加工肉というあたりからも、おそらくは庶民の間で好まれるやり方だろうと想像できる。

 まったく無意味なプライドだとは思うが、貴族社会ではあまり加工肉を食べないのだ。新鮮で、柔らかく、質の高い肉を食べられることそのものが、貴族たる証にもなる。

 加工肉は、品質の劣る部位を何とかおいしく食べるための庶民の知恵。そのように解釈する者が多く、だから食卓には並ばないのだ。


 ジュラーク公爵家の料理長は、公爵家の食卓を預かる者として、貴族の食文化はもちろん、料理好きが高じて庶民の食文化にも明るい。だから彼には、この加工肉が庶民の料理であるとはわかっているはずだが、こちらの文化に疎いセーラの提案だ。敢えて触れずに、セーラの好みなのだろうと解釈して作ったのではないだろうか。

 そんな料理長の気遣いが透けて見えるようで、ヴァイセンはふと口元を緩ませた。


「旦那さまもご興味があるのではないかと思い、僭越ながらこちらにご用意させていただきました」


 ちょうどそのやさしさの腕前を披露してくれた料理長が自らやってきて、ヴァイセンにもスープ皿を差し出してくれた。

 小さなスープ皿に盛られたセーラのものとは違い、ずいぶんな量である。ちらりと料理長を見やると、彼は恭しく一礼した。


「こんなお時間ですが、どうせならしっかりお召し上がりになるでしょう?」


 ヴァイセンはついに吹き出した。


「ああ。食べる。ありがとう。ろくに食べる暇がなくて空腹すら感じなくなっていたところだったんだ」


 深夜というよりも明け方に近い時間だが、屋敷に戻ってきてようやく空腹であることを思い出したのは本当だ。だから今、セーラの目の前に用意された食事を見て、自分ももらえないかと頼もうと思っていたところだった。

 実に気の利く料理長なのだ、彼は。


 ヴァイセンとセーラは料理長の心遣いに舌鼓を打ちながら、しばらく悲鳴を上げる胃を満たすことに専念したのだった。


「みなさん、本当にすみませんでした。勝手に忍び込んでしまって……あんなに警報が鳴るとは思わなくって」


 料理長、トゥーリーン、メイヴェルと揃い踏みになったところで、セーラが改めて頭を下げた。


「そんなに謝らないでください。思えば、セーラさまに厨房に入ってはいけないとご注意したことはありませんでしたからな。先に警報機があることをご説明しなかった我々の落ち度でもあります」


 料理長が穏やかに言えば、メイヴェルも重々しくうなずく。


「そうですな。セーラさまは何も言わずともこちらがご紹介した以外の場所へ不用意に足を踏み入れる方ではなかったので、私たちも改めて屋敷をご案内することを失念しておりました」


 メイヴェルの隣でトゥーリーンが申し訳なさそうに身を縮めた。


「それに、セーラさまがお部屋を出たことに私が気づいていなかったんです。これまで一度も夜中にお部屋を出られることがなかったものですから、私も寝入ってしまって全然気付けなくて……セーラさまをお世話するお役目をいただいているのは私なのに、これは本当にもう、私の落ち度ですわ」

「ああ、いや、全然、みなさんのせいでは……」

「我々の落ち度もあるんだ、セーラ殿」

「ヴァイセンさま……」


 困ったような顔のセーラに、しかしヴァイセンは笑みを引っ込める。


「まずは主人である私が詫びねばならん。この屋敷で自由に過ごして良いと言ったのは私なのに、案内もさせず、屋敷の中で足を踏み入れて良い場所、そうではない場所の説明を怠った。申し訳なかった。そしてメイヴェルたちも世話を預かる身でありながらあなたが快適に過ごすための努力を怠った。ちゃんと謝らせてやってくれるとうれしい」

「そう……ですか」

「そうなのですよ、セーラさま。本当に申し訳ございませんでした」


 トゥーリーンに続き、メイヴェルと料理長も口々に謝罪する。セーラは自分こそが悪いのにと納得がいかない様子だったが、しかしこれを受け入れなければ話が進まないと思ったのだろう。しっかりと頷いたのだった。


「そして、セーラ殿も自覚なさっているように、トゥーリーンの言いつけを無視して騒ぎを起こした」

「はい。本当に――」

「それについてはもう再三謝罪をいただいている。だから、これにてこの件は終わりだ。――ということでいかがかな?」


 セーラはそれでも罪悪感を覚えているようだが、落とし所は考えなければならない。いつまでも謝罪合戦をしているわけにはいかないのだ。

 少々考えたようだが、やがて、セーラはようやく肩の力を抜いて力なく笑ったのだった。


「では、そういうことで」

「うん」


 ふたりともが食事を終えると、料理長は空になった皿を下げるために退室した。

 彼はもうあと数時間後には、朝の料理を作り始めなければならない。だが、その料理を食べる主人のヴァイセンと客人のセーラが今食べてしまった手前、明日はいつもより少し時間を遅らせて朝食を取りたいと伝えておいた。


 そしてメイヴェルとトゥーリーンも下がらせる。彼らも夜中まで起きていては明日の仕事に支障を来しかねないし、メイヴェルにはヴァイセンの就寝準備も整えてもらわなければならなかった。

 それに、ヴァイセンにはセーラに聞きたいことがある。


 ――病み上がりで疲労しているならともかく、妙に元気がある。……というより、空回り、というほうが正しいか?


 セーラの様子を見る限り、いつもよりよく喋るし、仕草もやや大げさだ。

 有り体に言えば、何かしら興奮しているように見えた。

 使用人たちは気づいていたのかそうでないのか特に心配する様子は見せなかったが、ヴァイセンにはこれを見過ごしてはいけないような気がしていたのだ。

 

 だから、「スープおいしかったですね」とにこにこと笑うセーラを見て、その無理をした笑顔に胸が締め付けられる思いがしたのだった。

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