35.もう少し頑張れる気がする
その日の深夜、ベルディン騎士団の宿舎に迎えが来た。
ヴァイセンだ。
ちょうど、今夜のセーラの宿について騒ぎがあった頃だ。
宿舎の中に一部屋用意してはどうかと提案する者、まさか男所帯の騎士団の中で休ませるわけにはいかないと急いで一般の宿屋を探す者、ヴァイセンの客人に庶民の泊まるような安宿を提供できないとそれを止める者。そうしたさなかに、なにも眠る場所はなくとも一晩屋内に置いてくれるだけで良いのだとセーラは主張したが、当然受け入れられず。
さてどうするかとみんなが頭を悩ませ始めた頃に、セーラの迎えが来たとひとりの兵士がヴァイセンを伴ってやってきたのだ。
「遅くなってすまなかった、セーラ殿」
「ヴァイセンさま」
このあとどうするのか知らされていなかったが、おそらく今日中には屋敷には帰れないだろうと思っていただけに、セーラの驚きもひとしおだった。
ヴァイセンはいつもの穏やかな気配を湛えてやってきたが、その深海の色をした目にはどうしたって疲労が滲んでいる。あれから、何時間あの祖母と格闘していたのだろうかと心配になる。
「屋敷に戻ろう。ここではあなたの休める場所がない」
「ですけど、お祖母さまは大丈夫なんですか?」
「心配ない。もうお帰りいただいたから」
そう諭されて、セーラは気の良いベルディン騎士団の兵士たちに見送られて屋敷に戻ったのである。
屋敷には確かにあの強烈な公爵夫人がいた形跡は跡形もなく、いつものように静かに佇んでいた。
行き交う使用人はいつもどおり粛々と仕事をこなしているが、こんな時間まで働いているところを見るに、やっぱりあの公爵夫人が残していった爪痕はあるらしい。通常業務が滞ってしまったから、こんな時間まで明かりを片手に働いているのだ。
「今日は急に追い出すようなことになって済まなかった。……あの方はいつもは領地のひとつの屋敷に住んでいらっしゃるんだ。降嫁されたあと首都に近寄ることは滅多になかったんだが、今回のセーラ殿の件でいてもたってもいられなくなったらしい」
屋敷に戻って落ち着いた頃、ヴァイセンがそう切り出した。さすがに、なんの説明もないまま放置されることはなかったようで、少々安堵する。
「ベルディン騎士団の方にいろいろお聞きしました。先代国王の妹さんだったとか……。あれだけ保守的な方で、降嫁されたあと首都に近寄らなかったというと、やっぱりご結婚にも不満があったんでしょうか?」
「まさにそのとおりだ。お恥ずかしながら、見ての通り血筋や身分に固執する方でな。婚姻のために王家を出るのも嫌がった。――王位継承権にないのだからそれ以外に道はないのだが」
「ですよねえ」
王位継承権もなく、ただ王妹というだけで、一生王族として遊び暮らせるわけがない。
特に女性なら、政略結婚の材料として国外に嫁がされることだって珍しくないだろうに。
ヴァイセンはため息交じりに言った。
「当然、あれだけの気性の方が国外に嫁ぐことには無理があると判断されてな。国内の貴族がもらい受けることになったのだが、当人は王族の名を返上することそのものを嫌ったし、各公爵家もあのような方が家に入られることを避けて、当時婚姻はずいぶんと難航したらしい」
若いときから、国内でも扱いにくい人だったのか。
どこの公爵家も嫁にもらいたがらなかったという気持ちが少しわかって、セーラは変に笑いそうになるのを堪えるので必死だった。
下手に嫁として迎えたが最後、公爵夫人として夫の実権を乗っ取りかねないなと思ったのだ。
実際、どこの公爵家も本音はそこに尽きたらしい。
「結局、名乗りを上げたのがジュラーク公爵家、私の祖父だった」
「勇気ありますね、お祖父さま。……というと失礼かもしれませんが」
ウッカリ本音が漏れたが、ヴァイセンはくすくすと笑うだけで「そのとおりだな」とうなずいた。
「我がジュラーク公爵家は、ハイデルラントを代表する十二の公爵家の中でも、〝新しもの好き〟として有名なのだそうだが」
「あ、それさっきアスターさんにも聞きました」
「そうか。俺があなたを保護した理由も納得がいっただろうか?」
「やっぱりそういう理由だったんですか? 確かにわたしは国にとっては物珍しい〝新しい〟人間だとは思いますけど」
呆れたように笑ったセーラにいたずらっぽい目を向けていたヴァイセンが、しかし笑みを引っ込め真剣な顔をする。
「あなたを保護したこと自体は、決して遊び半分ではなかったと誓う。あのとき、私には……私の抱える問題には助けが必要だった。そしてその具体的な方針をあなたが持っていた。だからあなたを頼ったのだ。だが、自分と似たような考えを持つ者がいたからと言ってこうも簡単に異邦人を客人として受け入れるのは、やはりジュラーク家の血筋だなと我ながら感心したのも本当なんだ」
「その〝新しもの好き〟のヴァイセンさまでなかったらわたしは今頃とっくに死んでたと思いますから、そこには感謝してますよ」
セーラがひょいと肩をすくめると、「それなら良かったが」とヴァイセンは少々申し訳なさそうな顔をしてから話を戻した。
「お祖父さまもそうした気質をお持ちだった。同時に、決して自由奔放で無謀な方だったわけではない。お祖母さまを迎え入れ、懸念していたとおりにジュラーク公爵家はお祖母さまが主導権を握ろうとなさったが、それをうまく制御なさったのがお祖父さまだ。特に我が家はお祖母さまとはかけ離れた気質を持っていたのが功を奏してな。家族の誰もお祖母さまのご意見には耳を傾けなかった。……だからこそお祖母さまはジュラーク公爵家の中で孤立する一方で、早いうちから領地のひとつをおひとりの住まいとして家族から離れ、王女時代から付き従ってきた侍女たち以外は何人たりとも近寄らせなかった」
「だから、今までこちらのお屋敷にお姿が見えなかったんですね」
「概ねはそうだな」
うなずいてから、ヴァイセンは罰が悪そうに、しかし真摯な目でセーラを見つめた。
「あなたがこの世界に留まる理由がなくなっても安全に暮らせるよう尽力する、などと言った直後にこんなことになって、どの口がと思うかもしれない。だが、それを含めても私は必ずあなたをお守りする。安心して確実にもとの世界に帰れる日まで、私とこの家の者、そしてベルディン騎士団があなたの後ろ盾となることをお約束したい。だから……お願いだから、焦って早計な真似をしないでほしい」
「…………」
なにをそんなに決まりが悪そうにしているのかと思ったら、そういうことか。
身構えたセーラは思わず息をついてしまった。
それを呆れられたと取ったらしい。ヴァイセンは端麗な顔立ちを悔しげに歪ませたが、そういうことではない。
セーラはほんのりと笑みを浮かべたのだった。
「ヴァイセンさまのことを信用していないわけじゃありません。でも、焦ってたんです。実を言えば、今も焦ってます。ヴァイセンさまはわたしのことを客として扱ってくれますけど、周りの人はそうじゃないでしょう。その上、わたしのことを邪魔だとか、異分子だと排除したがる人のほうが多いじゃないですか。そんな中でわたしを庇うと、ヴァイセンさままで立場が悪くなっちゃうんじゃないかって……そうなったら申し訳ないなって思ってたんです」
「そんなこと! あったとしてもあなたのせいではない。私がしたくてやっていることなのだし、理解のない者には納得するまであなたにこちらを害す気がないことは説明していく」
「ヴァイセンさまがその気でも、わたしが気になっちゃうんですよ」
「セーラ殿、」
「ですけど」
なおも言い募ろうと身を乗り出したヴァイセンに、セーラは一言で制する。
セーラの味方はこの世界にはいないし、唯一後ろ盾となってくれているヴァイセンの立場まで悪くしてしまったら嫌だ。
そう思っていた。だが、少しだけ視界が開けたのも本当だ。
たった数時間。たった一度。
貴族社会のこの壁の向こう、庶民とほとんど変わらない暮らしをするベルディン騎士団の人たちと初めて言葉を交わして、その彼らのセーラに向ける視線の温かさを知って、思い出した。
そういえば、敵意のない人の視線とは、こんなにも気にならないものだったなと。
セーラはいつの間にか心が小さくなっていたのだ。
こちらに来てからずっと、ハイデルラントの重臣たち、あるいは王族近くに控える人たちに囲まれて、いつでも部外者を見る目つきにさらされてきた。そのひとつひとつは、仕方のないこと、一時的なものと割り切ってきたはずだ。しかし表面上はそうやって自身に言い聞かせていても、心の奥底ではそうやって冷たい目で見られることに怯え、気持ちは固く小さく縮こまり、この世界に味方などいないのだと、次第に思い込むようになっていた。
ヴァイセンやこの家の人たち、そしてベルディン騎士団の人々。たくさんの人がセーラの無事の帰還のために働きかけてくれていると、言葉ではわかっていても、本質を理解していなかったように思う。
彼らと言葉を交わした今は、なぜあんなにも焦っていたのだろうと不思議に思えるくらい凪いだ気持ちでいた。
ヴァイセンたちが味方になってくれている。彼らが帰り道を探してくれている。だったら、それを待とう。待っている間は、セーラに求められた役目を果たそう。
今は、素直にそう思えるのだ。
「ヴァイセンさまを慕ってくださる方々の存在も知ることができました。その方々が、わたしが帰る方法を探してくださってることも理解できました。だからちゃんと待ってます。その日が来るまで、焦らずに。それまではお世話になりますね」
「……セーラ殿」
周囲の人から、その人の人柄を知る。王女の人柄から王妃の人柄を察したように、ベルディン騎士団の人の様子からも、ヴァイセンの人柄を改めて知れたように思う。
セーラが笑みを作ると、ヴァイセンはようやくホッとしたように薄い唇を緩ませたのだった。
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