24.ヴァイセンのハープ
翌日、朝食を食べ終わったあとに、ヴァイセンがあるものを持ってきた。
正確には、メイヴェルが他の使用人たちと一緒にセーラのために用意された部屋へと運び込んだのである。
「ハープ?」
「妃殿下のハープを弾いていただろう。姫さまがお許しになったのだから触れても構わないのだが、日常使いするのならあなた専用のものがあったほうが良いかと思ってな。これはうちにあったものだが、良ければ使ってくれ」
布に覆われ、三角形になってるそれを取り払うと、立った状態で胸ほどの高さがある木目調のハープが現れた。
昨日王妃のものを見たときは、メープル色をしたおしゃれなものだった。だが、ヴァイセンが持ち込んだものは白木のような色をしている。
「三十六弦のものだ。妃殿下と同じ種類だから、これなら遜色なく弾けると思うが」
そう言って目の前に差し出されたら、まず弦を爪弾いてみるしかない。
とはいえ、セーラはなんとなくハープというものの形や音の出し方を知っている程度で、実際のところは習ったこともないのだ。
ぺんぺんと適当に弾いてみると、うつくしく調弦された見事な音階が奏でられた。
「調弦してくれたんですか?」
「わかるか?」
少し驚いたようなヴァイセンに、セーラは頬をかいた。
「あー、いえ、絶対音感を持ってるわけではないので、音がだいたい合ってるかどうか程度ですが」
「昨日も思ったが、セーラ殿は音楽に精通されているのだな」
「小さいときに歌とピアノをちょっと習ったことがあるくらいですよ」
言いながら、今度は両手で弾いてみる。指の使い方もわからないから、昨日と同じ曲をなんとなくの運指で奏でていると、ヴァイセンがほんのりと笑った。
「なるほど、ハープを弾いた経験はあまりないようだ」
「……すみません、素人が」
あっという間にバレている。音感があります、というような態度を取った直後だけに恥ずかしい。
手を引っ込めてうつむくと、ヴァイセンは首を振った。
「いいや、驚いているよ。ハープを弾いたことがなくてあれだけのものを即興で弾いたのか?」
「わたしが考えたものじゃないんです。わたしの世界にあった曲で……すごく有名な曲なんです。子どもから大人までみんな知っているものなので、メロディラインくらいだったらできるかなと」
「確かに簡単な旋律だったが、それ故に覚えやすくて楽しい気持ちにさせられる良い曲だったな。歌詞も教義的だったが、セーラ殿の国の聖歌だろうか」
「いえ! そんな御大層なものでは……」
あれはジャンル的にはエンターテイメントだ。
しかしそんなに教義的だっただろうかと主旋律を弾いていると、音もなく立ち上がったヴァイセンが背後に回り、セーラごと抱えるように後ろから手を伸ばしてきた。
「ハープは
「へぁっ!?」
セーラの手に重ねるようにヴァイセンの手が添えられる。
大きな手だ。無骨だが、すらりと長い。彼は背も高いから当然かもしれないが、ヴァイセンの指の第二関節にセーラの指先が届くかどうかだった。
「爪先で引っ掛けるのではなく、指先で弦に触れるんだ。弾くのは指先だけではなく、指の根元が支点になるように。――そう」
セーラに触れるヴァイセンの指は固い。手の甲に触れる彼の手のひらもだ。
ヴァイセンはセーラのすぐ真後ろに座っているから、いつもと同じかっちりとした衣服越しながら、それでも感じられる暖かさがある。
――というか、改めなくてもこの人、本当に大きい……。
真後ろにいるとすっぽりと覆われて、絶対に抜け出せそうにない威圧感に襲われた。
男性にこれほどまでに近づかれる経験はほとんどない。なにをどうしても不用意に触れてしまいそうで固まっていると、後方でわざとらしい咳払いが聞こえた。
「坊ちゃま。熱心なご指導はご立派ですが、未婚の女性に対し少々不躾かと」
「ん?」
メイヴェルの言葉にヴァイセンが振り返る。
「セーラさまが固まっておられます」
「――あ、すまない!」
ガタガタと椅子を蹴倒すような音がして、背後から威圧感がぱっと消えた。
驚いて振り返ると、ヴァイセンが深海の目を瞠り、それから弓なりに整った眉を弱ったように下げる。
「すまない。みだりに触れるつもりはなかったんだが……」
「わ、わかってます。ていうか、あの、椅子、大丈夫ですか? めちゃめちゃ高そうなのに」
「ああ、いや、大丈夫だ。椅子くらいは……」
ヴァイセンは倒れて横を向いた猫足の重厚な椅子をひょいと立て直す。――あれってオモチャの椅子だったっけ? と思うほどあっさりとした動作だ。
「いや、なんだ。こういうのは同じ格好で直接触れて正すほうが覚えやすいものだが、剣術とは違うよな。団員に指導するのと同じつもりでいたもので……。すまなかった」
ヴァイセンが両手を軽く上げ、ホールドアップの姿勢でおろおろと狼狽えている。涼やかな顔をした彼をして、そこまで慌てるのが物珍しくて、セーラは軽く吹き出した。
「気にしないでください。わたしも妙なところで反応してすみません」
「……すまん」
「もう謝るのはなしで」
「う、ん……。わかった」
最後には手の行先を失って、癖の強い黒髪をガシガシとかいている。
そうしていると年相応に見えて、この人もまだ若いのだなと微笑ましくなった。
「ヴァイセンさまはハープを習ったことがあるんですか?」
「ああ。基礎だけだが。この国ではメジャーな楽器だ。貴族以上の身分の者なら誰でも一度は触れたことがあるだろう。さすがに、弾きながら歌うとは想像もしなかったが」
「弾き語りはわたしも得意なわけではないですよ」
「まずそういう発想をしたことがなかったんだ。同時にできるものだと思ったことがない。だから昨日聴いたときも驚いたんだ」
ヴァイセンは、だからセーラはよほどハープの扱いに長けた人なのかと思ったらしい。それにしては指先がおぼつかないから、不思議に思っていたと。
とんでもないことだった。
音は間違いだらけだったし、歌詞もうろ覚えで、おそらく正しくない。この世界の人ならセーラの間違いもわからないだろうと高を括っていただけなのだ。それを、偉業を成し遂げたことのように言われてしまうと恥ずかしかった。
「そんなに大層なものではないんですよ。本当は両手で主旋律と伴奏を弾こうと思ったんですけど、お気づきの通りハープは初心者だったので、右手と左手で違うものが弾けなくて……。結局ハープを伴奏だけにして、主旋律は歌ってやり過ごしただけなんです。楽器も歌も中途半端なものを聞かせてしまってお恥ずかしいです」
「そう卑下することもない。ヤスミーンさまがあれで喜ばれていたんだ。十分な腕前だったということだろう」
「そうだったら良いんですけど」
セーラはふたたびぺんぺんと爪弾きながら、部屋をぐるりと見回した。
昨日も思ったが、ヴァイセンの屋敷には、大部分の部屋に時計がない。基本的にはメイヴェルが懐中時計のようなものを持っていて、逐一時間を確認しつつ次の予定があれば声をかけてくれる。だが、時間に追われる現代社会に生きるセーラにとっては、時間は気になったときに自分で確認したいものだ。どうにもこのやり方に慣れなかった。
「あの、今日はいつごろ姫さまのところに行けば良いんでしょうか」
こちらでの生活は、基本的に朝は早いが、身支度や朝食にはかなり時間をかけている。その朝食が済んだらゆっくりと会話する時間まで設けられているから、今はもう昼に近いのではないだろうか。
昨夜、王女は眠る前に今日になったらまた歌を聞かせてほしいと言っていた。
あの言葉がそのまま遂行されるなら、そろそろ部屋に伺う時間ではないかと思ったのだ。
ヴァイセンはちらりとメイヴェルに視線をやった。それを受け、メイヴェルが時計を確認する。
「ヤスミーンさまはまだ起きられたばかりの時間帯だ。準備が整ったら呼ばれるだろうから、おそらく昼かそれ以降になる。それまではセーラ殿にはここで待機していてもらいたい」
――今のやり取りのどこでメイヴェルさんとスケジュールのすり合わせをしてたんだ……?
ヴァイセンが目線をやり、メイヴェルが時計を確認しただけ。それでなぜコミュニケーションが成立していたのか、セーラにはまるでわからなかった。
だが、ひとまず昼ご飯を食べ終わるまでは何かをする必要はないらしい。それがわかっただけでも良しとして、セーラは「なら」と口を開いた。
「それまでこれを練習していてもいいですか? 今日、姫さまにまた弾くとお約束しちゃったんで……」
「もちろん構わない。だが、私は先に姫さまのもとへ行かねばならない。あとのことはメイヴェルに任せてあるから気軽に使ってくれ」
言って、ヴァイセンはすぐに席を立つ。
昨晩あたりからそうだが、急に慌ただしくするようになった。
「ヴァイセンさま、実はすごくお忙しいのに昨日はわたしに付き合って一緒にいてくださったんですよね」
忙しいヴァイセンに代わり部屋に残ってくれたメイヴェルに問いかけると、きれいに整ったメイヴェルの白い口ひげが緩やかに弧を描いた。
「セーラさまのお世話を買って出たのは旦那さまですから、当然のことです。セーラさまが気を遣われることはありませんよ」
「ですけど、ヴァイセンさまって姫さまの護衛兵の方なんでしょう。姫さまのそばを離れて大丈夫だったんですかね」
「昨日は旦那さまの代わりにベルディン騎士団の方が殿下のおそばについておりましたから」
「なる……ほど……?」
会話の中に何度も出てくる〝ベルディン騎士団〟という言葉も気になっていたが、それはメイヴェルに聞くより、〝ベルディン団長〟と呼ばれていたヴァイセンに聞くほうが良い気がしていた。
――あとで聞いてみようか。……って考えて、年齢のことも後回しになっちゃってるけど。
今は質問攻めにしてメイヴェルを煩わせるより、今日すぐに求められている歌をなんとかするほうが先だ。
セーラは改めてハープに向き直り、大人しく練習することにした。
それにしても、なぜ王女は歌にこだわるのだろう。セーラの歌などうまくもないのに。
約束してしまった手前反故にすることは考えていないが、思いの外準備が必要になってしまったことを悔やむ。音楽に逃げずに物語だけ聞かせて於けば良かったな、と思わないでもないのだ。
ポロポロと爪弾きながら、昨日聞かせた歌の他にもいくつかできそうな候補を考えてみる。
そうしているうちに、次第にセーラは練習にのめり込んでいった。
昔からそうだった。習いごとをやるのは楽しかったのだ。練習して、自分の腕が上達したと実感するのも面白い。
しかし母親はもっと劇的に才能が芽吹くことを期待していたようで、どれもこれも凡庸だ、才能がないと決めつけられて、軒並みやめさせられてしまった。
――ピアノもなあ。もっと習って、有名な曲とかかっこよく弾いてみたかったな。
歌もそうだ。教育テレビで見る歌の上手なおねえさんだとか、あるいは日常的に子供に歌を聞かせている保育士のように、求められたらさっと他人の興味を引けるような特技があったら良かった。
こんな、流れでやる羽目になったことひとつで付け焼き刃の練習が必要になるような、そういう中途半端な技術しかない自分に、果たして王女のお守り役などが務まるのだろうか。
――これで良いのかな。こんなわたしで役に立てることが本当にあるのかな。
そう不安になる気持ちが、無意識にため息となってこぼれ落ちたのだった。
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