22.今夜はまた別の寝物語を

 にわかにきらきらと目を輝かせ始めた王女を見やって、セーラはそっと視線をそらした。


「お歌は明日にしましょう。今から音楽をいっぱい聞いたらもっと身体が起きてしまいますから」

「じゃあ、あしたもきて。おうたうたって」


 まさかのご指名をいただいてしまった――。

 セーラは静かに目を閉じ、すっと深呼吸する。

 断りたい。歌は勘弁してほしい。しかし王女の健やかな日常を取り戻すことがセーラに与えられた任務。――否、義務でもなんでもないはずなのだが。

 義理もなければ義務でもないが、小さな子供の期待を己の快不快で左右するのは忍びない。


「……では、明日、また朝起きていただけるなら」

「あしたもがんばっておきるわ。やくそくよ」

「……ハイ」


 はきはきと約束を取り付ける王女にしおらしく返答しながら、セーラは考える。

 王女の今のセーラとの会話だけを切り取ってみると、とても一拍前まで眠れないと不安そうにしていた子供には見えない。


 どうも彼女には機嫌にムラがあるな、とセーラは頭の隅で考えた。もしかしたらこれも、深い悲しみと長い間の鬱屈とした生活の中で狂ってしまった情緒の影響なのかもしれない。


 自分とだけ一見元気そうに機嫌よく会話してくれるのは、対応するこちらは楽だ。だが、裏を返せばそれだけ気を遣われている証拠、つまりまだ信頼されていないのかもしれない、とも思う。


 大人も子供も、頼れると思う相手にこそ甘えるものだ。わがままも言いやすくなるし、機嫌も見せやすくなる。

 その点、王女はセーラに機嫌の良いところしか見せておらず、最初は丁寧な言葉混じりだった。つまり、見ず知らずのセーラがどうして自分のそばにいるのかを理解していて、その役目をまっとうさせようとする主人の振る舞いに他ならない。


 ということは、セーラがここにいると逆に眠れなくなってしまうのではないか、と懸念がよぎる。

 来客応対モードになってしまったら、せっかく眠りにつこうと準備していた気持ちが起きてしまう。

 セーラは困って、ヴァイセン、もしくはラティーヤにそのことを伝えようと思ったのだが、しかしふたりともあとのことをすべてセーラに任せるつもりで部屋の隅に控えていた。


 ――いやいや、このパターンものすごく既視感デジャヴュ


「セーラ、ではおはなしして」

「お、お話ですか?」


 そうしている間にもぐいぐいと裾を引っ張られる。そういう仕草は子供らしいのに、ただ楽しませれば良いだけではない――王女を安らかに眠らせなければならない――のだからしんどい。


「ええと、では、昨日と同じお話でよろしいですか?」

「ちがうおはなしもあるの? ちがうおはなしがいい」


 ――おっと、藪蛇だった。

 セーラはふたたび目を閉じ、すっと深呼吸した。

 言葉に表すなら、「しまった、やらかした」である。


 しかし乗り気になってしまったものは仕方ない。今夜もふたたび脳内データベースに急いで検索をかける。貧弱なCPUをぶん回し、カリカリと音を立てながら貧相なデータベースから取っ掛かりを探していた。

 昼間、ヴァイセンは王女の大好きな母親が海に浮かぶ島国の出身だと話してくれた。なるほど、だとしたら、王女も〝大好きなお母さま〟の故郷について話を聞いている可能性が高い。

 島国だというのなら、やっぱり海にまつわる話だろう。

 海といえば、人魚姫である。


「姫さまは人魚姫をご存知ですか?」

「にんぎょひめ……? わたくしとおなじ、おひめさま?」


 この感触からして、この国には人魚伝説はないものと見た。もしかしたら王女が知らないだけで、大人の間では都市伝説的に知られているのかもしれないが、一旦置いておこう。今から話すのはセーラの世界で知られる人魚姫の話だ。

 セーラはにこりと微笑んでうなずいた。


「ええ、そうです。姫さまと同じお姫さまです。ですけど、住んでいるのは海の中。人魚姫は、海の中の王国のお姫さまなんですよ」

「うみの中のおうこく……。うみにも、国があるの?」

「さあ、実際のところ、わたしにはわかりません。わたしは泳ぎはそれなりにできますが、海の深くまでは潜ったことがありませんから。海の王国は、わたしたち人間にはたどり着けない場所――息の続かないほど深い海の底にあると言われています。ですから、人魚姫、人魚というのも、本当にいるのかいないのか誰も確かめたことはないんです」

「いきができないばしょにくらしてるの? にんぎょひめは、どうやっていきをしているの?」

「人魚姫は人魚、つまり半分お魚なんです。身体の腰から上は人の形、腰から下、脚は魚の鱗を持ち、きれいな尾びれがあります。呼吸は人間のように鼻で息をすることもできますし、お魚のようにエラを使って海の中で呼吸することもできます。ですから溺れることなく海の底で自由に暮らしているんですよ」


 王女がぽやっと宙を見つめて押し黙る。きっと人魚姫がどういうものか、想像しているのだろう。

 その調子で物語の世界に入っていってもらいたい。セーラは王女が脳裏に思い思いの人魚姫の姿を思い描くのを待って、話を続けた。


「人魚の住まう海の底には、このハイデルラントより……いえ、ハイデルラントと同じくらい大きな大きな王国があります。それだけ大きな王国を統べる王様はもちろん偉大なお方。その王様には、仲の良い王妃さまとの間にたくさんの姫君がいました」


 一般的に一番有名な童話の人魚姫の話をするつもりだったが、これも概要をざっくりと覚えている程度で、話の細かな部分までは記憶していない。



 ――一番年下の人魚姫が十五の誕生日をきっかけに初めて海上へ出て、そこで船に乗った人間の王子――いや、良家の坊っちゃんだっただろうか――に一目惚れしてしまう。


 人魚姫は一目惚れした王子と恋仲になりたくて、人間になりたいと望む。だから、人魚の尾びれを人間の足にしたくて、魔女のもとへ願いを叶えてもらいに行った。

 魔女は人魚姫に足を与える対価として声を奪う。さらに、王子と結ばれなかったからといって海へ戻ろうとしたときには、人魚姫は泡となって消えてしまうと告げた。


 それでも人になることに憧れた人魚姫は魔女と契約を交わし、喋れなくなった人間の娘として浜辺に打ち上げられる。無事に王子と出会うことには成功したものの、言葉が話せないのでうまく距離を縮められない。


 そうしているうちに、王子に人間の婚約者ができる。だから願いは叶わず、泡になって消え――るなんて話したら穏やかに眠るどころじゃなくなるので、この婚約者は人魚姫の美しい声をした魔女が化けていた姿だということにする。


 魔女は、海の世界では一番美しいと褒められていた人魚姫の声を手に入れ、人魚姫に成り代わろうとしていた。

 そのためには人魚姫を泡にして殺し、亡き者にしなければならない。だから王子の婚約者の座を奪い、わざと人魚姫の願いを叶わないものにしようとしていた。


 魔女はさらに、人魚姫の美しい声を使って父王までをも騙し、海の王国すべてを手に入れようと企んでいた――。



 話が進むたびに記憶があやふやで、セーラの妄想という名の創作が激しくなっていく。

 オーソドックスな人魚姫の童話を聞かせてやるつもりだったが、途中から世界的に有名すぎる二次創作に引っ張られて、人魚姫のお目付け役にはあの陽気で愉快なカニまで登場してしまった。――カニというか、見た目にはロブスター的なアレだ。


 ――うんまあ、そっちのほうがハッピーエンドだし。人魚姫が泡になって消えるより良いよね。童話は泡になって消えるけど、こっちはちゃんとハッピーエンドで王子と結婚できるし。


 セーラが覚えている限りの内容を出力しているだけなので許してほしい。いや、この話もセーラ以外に知る者もいないから、誰に許可を得ているわけでもないのだが。

 そうしてふたたび魔改造が拗れに拗れてきたころ、ふと肩を叩かれる。頭の中で練り上げていた壮大な物語の中から急に引き戻され、セーラは慌てて待ったをかけた。


「えぁっ……? や、待ってください、ここからちょっと王子の活躍を考えなきゃならないんで……。王子もなにも気づかないままの木偶の坊で終わっちゃ、人魚姫が王子に惚れる理由が弱くて……」

「セーラ殿、それはまた明日じっくり考えてもらえれば良いから」

「ん?」


 苦笑交じりのヴァイセンにそう止められて顔を上げると、いつの間にやら好奇心に満ちた青い目がなくなっている。代わりに、けぶるような長いまつげをぴったりと閉じた王女が、清潔で真っ白な寝具に白金の髪を散らし、白い頬を枕に埋めるように寝入っていた。


「あ、あれ……寝落ちちゃった?」

「今夜も大手柄だな」


 低く艶のある声がからかうようにひっそりと耳打ちされる。左半身が、ぞわ、と粟立った。

 ヴァイセンの張りのある低い声は、声量を落としてもそれはそれで掠れ気味の色気がある。突然耳元で囁かれるとちょっと、いやかなり、心臓に悪い。


「ヴァ、ヴァイセンさま、ちょっとそこで喋らないでもらって良いですか……?」

「なぜだ?」


 心外だ、とばかりに片眉を上げるヴァイセンを見て、セーラは確信する。


 ――この人、自分の声がどういう効果をもたらすかわかっていてやってるな。


 じっとりと睨めつけると、喉奥でくつくつと笑ったヴァイセンが目線で退席を促してきた。


「ひとまず、場所を移そう。せっかくお休みになった姫さまを起こしたくない。ラティーヤともまともに挨拶をしていないだろう。紹介したい。別室へ来てくれるか」


 セーラはうなずき、そっと音を立てないよう王女のそばから離れたのだった。

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