21.夜の課題はまだまだ山積み
その日の夜、またセーラは王女の部屋へと呼ばれた。
王女が眠れないと泣いて興奮状態なので、なんとかしてほしいと請われたのである。
ヴァイセンを伴ってセーラが王女の部屋に駆けつけると、そこには昨夜と同じ、侍女たちがわらわらと働いている中にラティーヤもいた。彼女は王女が横になるベッドのそばに座り、殺伐とした侍女たちの中で唯一やさしい笑顔で王女に話しかけている。
――ラティーヤさんがいればわたし必要なくない?
構図としては、昨日セーラが王女に寝物語を聞かせたポジションだ。そこに既に王女と信頼関係を築いているラティーヤがいるのなら、セーラのやることはないように思われる。
胸の内に得も言われぬ不快感が広がったが、それを言語化できる気がしなかった。
ラティーヤを邪魔だと思っているわけではない。もともと部外者なのはセーラのほうである。彼女が王女の相手をしてくれるなら、それに越したことはないのだ。
だが、それならなぜセーラが呼ばれたのか。
なんとなく、この不快感は良くないなという気がした。そんな不快感を抱いてはいけないような、焦りのようなものがあったのだ。
しかし、今は自分の気持ちに向き合っている場合ではない。
セーラは言われるがままにラティーヤのもとに近づく。
「姫さま、また明日も元気にお庭を散歩するためにも、今日はもう休みましょう。私もここにおりますから」
「でも、ラティーヤは明日にはいなくなってしまうでしょう?」
「それは……お約束はできませんけれど、私も精一杯お願いしてみます。ですから……」
「ラティーヤがいないのなら、いや。それにきっと、こんやもねむれないわ。よるは、ながくて、くらくて、きらい」
「姫さま……」
明日も変わらず王女の隣にいられると約束できないラティーヤの誠実さと、これまでの経験から、今夜も同じではないかと不安になる王女の気持ちが交錯する。
遠くで遣り取りを見ているだけのセーラにも、王女の気持ちはよくわかった。そうではない夜もあるかもしれないと納得させるだけの説得力が必要なのだろう。そして、王女を不安にさせている〝ラティーヤは明日もいるのか〟という問いに是を唱えられないから、ラティーヤ自身も王女を説得できなくて困っている。
セーラが必要とされているのはこの王女を納得させることなのだろうが、それよりも気になることがある。
――この、つんと鼻につくにおい。
昨日のような、王女のセルフネグレクトや粗相が原因の悪臭ではない。良いにおいと言われれば良いにおいだ。
たぶん、お香かなにか、そういう香りものの類のにおいがする。だが、それが強すぎて、つんと鼻につくような、鼻から脳裏に抜けて頭が痛くなるような、きつい香りがするのだ。
「セーラ殿」
なんとかできないか、とヴァイセンに目線で訴えられ、セーラは首をかしげた。
ヴァイセンにはこのにおいがわからないのだろうかと思ったのだ。
「なんか、めちゃめちゃにおいしません? ヴァイセンさまはもしかしてなにも感じてませんか?」
ヴァイセンはしれっと目を閉じて、声を低めた。
「するにはするが……女人の部屋でそれを指摘するほど無粋ではないつもりなんだが」
「あ、お気遣いいただいてただけですか。良かった。いや、まあ、昨日のにおいだとわたしもさすがに言いづらかったんですけど、これってあえてにおいをつけるためのにおいじゃないですか。お香というか……」
「昨日のにおいを誤魔化すために焚いているのだろう?」
ヴァイセンはわからないと言わんばかりに首をかしげる。
なるほど、この世界においても、殊においに関しては男性はやや鈍感であるらしい。
セーラは苦笑した。
「これは誤魔化してるにおいじゃないですよ。粗相のにおいでしたらきれいさっぱりなくなってます。今朝窓を開けて空気を入れ替えたおかげもあると思いますが、さすが侍女さんたちですね。窓を開けただけでベッドのにおいまでは取れないと思うので、頑張ってお仕事をなさったんだと思います。――これはそれとは違って、たぶん、こう、王女さまが眠れるようにお香を焚いてるんじゃないかと思うんですけど」
「これがか? だとしたら逆に眠れなくないか?」
「あ、そこの感性は一緒なんだ。良かった」
まさにそれが言いたかったのである。
セーラが胸を撫で下ろすと、ヴァイセンはわけがわからないという顔をする。セーラはちょっと笑って、ラティーヤに近づいた。
「ラティーヤさん、今お話よろしいですか?」
名前は知っている。昼間も顔を見た。だが、会話をするのはほぼ初めてだ。
気分は新入社員だった。
面識のない、明らかに目上の先輩に、わからないことを聞くときに戸惑う気持ち。誰がどう見たって相手は忙しそうにしていて、でも自分は新人で、わからないことがあれば聞けと言われているから話しかけねばならないのだが、それも憚られる――そんなときの心細い気持ちだ。
果たしてラティーヤは、少しくたびれたほつれた白い髪を揺らしながらこちらを振り返ったのだった。
「セーラさま、お待ちしておりました。私になにか……?」
「このにおい、お香とか焚いてますか?」
ああ、とラティーヤはけぶるような長いまつげを瞬く。白い髪に琥珀色の目をした、この国の中でも特殊な色をしていた。
「姫さまが眠れるようにと、ラベンダーの香を焚いておりますよ」
「ああ、ラベンダーなんですね。気持ちを鎮める効果がありますよね。ですけど、ちょっとにおいがきついかなと思うんです。良いにおいですけど、寝るときに明るかったり物音がしていたら寝付けないのと同じで、においもあまりないほうが眠りやすいかと。眠るための香でしたら、ほんの少し、たまーににおいがするかも? 程度のほうが効果があるんじゃないかなと……」
なるほど、とラティーヤは素直にうなずいて、それからすぐに王女の枕元にある楕円形の陶器を片付け始めた。
あれが香の正体だったのか、とセーラは目を丸くする。
あんなそばににおいの元があったら、それは確かに眠れないだろう。置いたのが誰だかはわからないが、酷なことをする。だが、香もまた王女のためを思って置かれたものだから、それを口にしてわざわざ犯人探しをする必要はないだろうとセーラは口をつぐんだ。
そのセーラの服の裾をツンと引っ張った者がいる。
王女本人だった。
視線を下げると、清潔な白い寝具に埋まった不安げな幼い顔が、すがるようにこちらを見つめていた。
「セーラ」
「こんばんは、姫さま。今朝は頑張って起きてくださってありがとうございました。日が沈むまで頑張って起きていれば眠れると言ったんですが、眠れませんでしたね。すみません」
「いいの。眠れないわたくしが悪いの」
「ええっ!? いやいや、そんなことはありませんとも。姫さまが悪いことなんてひとつもありませんよ」
なんてことを言うのだ。四歳児なのに。
セーラは真正直に大きな声を出してしまった。
眠れないのに誰が悪いもなにもあったものではない。確かに、親の都合で子供の生活リズムを乱したり、精神的に不安定にさせて眠れなくする親はいるかもしれない。だが、子供の健やかな生活が乱れる原因はいつだって大人にあって、子供が悪いことなんてひとつもない。
それに、今回の件は王女の世話を任されている大人にだって悪い人はいないのだ。
みんな一生懸命で、やり方を試行錯誤して間違えてしまっただけ。ただ運が悪かっただけなのだ。
その運の悪さで不眠になってしまった王女に言う言葉ではないから口をつぐんだが、しかしセーラは訂正したい。
「良いですか、姫さま。朝起きられないこと、夜眠れないこと、ご飯が食べられないこと、なにもしたくないこと。これは全部、姫さまのせいじゃありません。もしもご自分のせいで侍女のみなさんに迷惑をかけてしまっていると思っていたら、その考え方はいますぐやめてください」
「……でも、みんなわたくしのせいでつかれてるの。わたくしがねむらないからみんなもねむれない……」
「そうですね、今はみなさん大変なときです。でも、もう一度言います。それは決して姫さまのせいじゃないんですよ。誰のせいでもありません。ですけど、眠れなくなってしまったことは姫さまご自身ももちろん、姫さまがご存知のようにみなさんも困ってしまうので、なんとかしていきましょう」
「できるかしら……」
「もちろん、今日一晩でぜんぶうまくいくことはありません。今日はうまく行かないかもしれません。ですけど、夜は何度でも来ます。姫さまが毎日夜が来るのが嫌だなって思うほど毎日来るんです。毎日夜はやってくるんですから、毎日挑戦できるんですよ。今日はどうやったら眠れるかしらって、何度でも挑戦できます。ゲームみたいだと思いませんか?」
「ゲーム……」
王女の目線が少し定まる。不安でゆらゆらとしていた目に、ほんの少しだけ安堵が交じった。
先行きのわからない不安。その不安の正体がわからない、漠然とした不安。それに名前をつけ、意味をもたせると、少しだけ〝不安〟が身近なものになったような気がするものだ。
口から出任せだったが、セーラは内心で手応えを覚える。
眠れない夜をどう眠れるようにするか、楽しみながら変えて行けたら、不安感も薄れるのではないかという気がしてきた。
「今夜はいつもみたいに眠れないんじゃないかって不安なんですよね。では、まずはその不安を忘れる方法を考えてみましょう。不安を忘れるには楽しいことをするのが一番です。――姫さまの楽しいことはなんですか?」
もしかして、「ない」と言われてしまったらどうしようか、と一瞬焦る。
だが王女はぼんやりと青い目を瞬いて、それからまたセーラについと視線を向けたのだった。
「じゃあ、おうたうたって」
「…………」
――ヘタウマソングは一番封印しておきたいんだけどなー!
セーラは笑顔のまま固まった。
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