11.王妃が刺繍したハンカチ
「おはようございます、姫さま。朝ですよ」
「まぶしい……」
「まぶしいですねえ。いいお天気ですよ」
「ねむいの……」
「あら。やっぱり昨夜は眠れませんでしたか?」
当然のことのように尋ねたから驚いたのだろう。王女はしぱしぱと眠そうな目を何度も瞬いて、それから意外な言葉でも聞いたかのように目を丸くした。
日差しのもとで見ると、その目は灰色混じりの明るい青をしている。ヴァイセンよりもずっと明るい青色だ。
「うん、ねむれなくて……ごめんなさい」
「なにを謝ることがありますか。眠れなくっても良いんですよって昨夜お話したでしょう」
王女は何度もこちらを見つめては瞬いている。
その視線がうろうろと彷徨った。セーラの頭の天辺から身体のほうまでじっくりと眺めているところを見るに、大方、この人は誰だろうと記憶を探っているのだろう。
「セーラです。昨夜、姫さまに物語をお話しました。覚えてますか?」
「セーラ……セーラ、うん」
合点がいったように目に光が戻り、セーラはほっとした。昨日の今日で忘れられていなかったらしい。
「今起きないとまた夜眠れなくなっちゃいますから、今は頑張って起きましょう。ご飯をしっかり食べて、太陽の下に出る。今日はそれだけで良いですよ。そこまで頑張れたら、夜に眠れないなんて悩む暇もなく寝ちゃいますからね」
「でも、おなかすいてない……」
「じゃあ、少しお外を歩きませんか? 歩いておしゃべりしたらお腹も空いてくるかもしれませんし。見えますか? 窓を開けたんです。いい天気ですよ。お庭にお花がいっぱい咲いてるんです。わたしはこの世界は初めてなので、姫さまの知ってるお花の名前を教えてくれませんか?」
王女は今度こそきょとんと目を丸くした。突拍子もないことを言われているとでも言いたげだ。
「……きょうは、おべんきょうはしなくていいの?」
なるほど。そういえば、昨日も王女は勉強がどうの言われて侍女たちに責められていたんだったか。
こんなに幼いのにと思わなくもないが、王女ほどの人が受ける教育となると、セーラの想像する〝勉強〟とはまた違うものだろう。
王女は王位継承権第一位と言われていた。だとしたら、彼女が学ぶのはいわゆる帝王学などだろうと推測できる。
後ろを振り返ると、今にも飛び出したいと言わんばかりの顔で、あちこちの柱や壁を握ってギリギリと歯噛みしている侍女たちいる。その全員が一斉に首を振った。
――良いわけあるか。勉強するに決まってるだろう。
そんな声が聞こえてきそうである。
しかし、セーラは彼女たちの無言の訴えを見なかったことにして、王女ににっこりと笑いかけた。
「もちろん、今日はお勉強はナシです」
瞬間、後ろからざわっと声が上がった。
が、ふたたび一瞬にしておさまる。
おそらくヴァイセンがなんとかしてくれているのだろう。
セーラは後ろの侍女たちに聞かせるつもりで続けた。
「姫さま、今はまだ起きたくないほど眠くって仕方ないですよね。昨日までもそうやって、夕方までなんとなく眠れそうな、そうでないような感じで過ごしていたでしょう。ちゃんとお食事もとっていないという話なので、お腹は空いているはずなんですが、食べたいとは思わないんですよね。夜は夜でたくさん考えることがあって眠れなくって、だから今眠たいんですよ。そういう状態でお勉強をしてもなにも身につきません。頑張って覚えようとしても、明日には忘れてしまいます。それじゃあ、頑張っても意味がないですよね。なので、まずはお勉強できる元気を作ることが先です」
「げんきをつくる?」
「そうです。朝は侍女のみなさんが起こしに来る前に目が覚めて、元気いっぱい「お腹空いた!」って侍女のみなさんたちのほうを起こすくらいでなくちゃいけません。そのために、生活リズムを調えましょう。生活リズムっていうのは、朝は明るくなったら決まった時間に起きて、決まった時間にご飯を食べて、決まった時間にお勉強をして、決まった時間に運動をして、暗くなったら決まった時間に眠ることです。決まった時間に決まったことをするのが重要です。そうすると、自然と元気になるんですよ」
「できるかしら……」
「できますとも。でも今はそれが崩れている状態なので、少しずつ直していくところから始めます。なので、我慢しなきゃいけないこと、頑張らなきゃいけないこともたくさんあります。そのために、まずは今頑張って起きてくださいということです。今日暗くなるまで頑張って起きていたら、きっとぐっすり眠れるようになります。夜になって、眠れないな、寂しいな、みんなに心配かけちゃうなって思わずに済みますから」
「ほんと?」
王女の目に希望が宿る。
今日は暗くなるまで起きているだけ。そのために、今だけ少し無理をして起きてほしい。
そうして頑張ったご褒美が〝眠れること〟だとわかれば、やる気にもなるだろう。眠れなくて困って、こうなっているのだから。
セーラは笑顔でうなずいた。
「ええ。なのでまず、起き上がって朝ご飯を食べましょう。食べられなければ先にお散歩でも構いませんよ」
「うん。おきる」
――よっしゃ。第一関門突破! これはなかなか順調なのでは?
セーラはちょっと得意げになって後ろを振り返る。影から隙間から様子を覗いてはどよどよと驚きの声が上がっていた。
セーラは知らないが、王妃が亡くなって以来、王女が自発的に起き上がったのはこれが初めてのことだったのだ。
王女はまだ眠そうな目をこすりこすり、きょろきょろと辺りを見回している。
まだなにか足りないものでもあっただろうか、とセーラが首をかしげると、後ろからすっと影が差した。
「おはようございます、ヤスミーンさま。ただいまお着替えをお持ちして洗面のご用意いたしますので、少々お待ちくださいませ」
侍女のひとりが進み出て、笑顔でそっと声をかけた。
なるほど、王女ほどの人ともなると、起き上がるそのいち動作だけでも侍女の手が必要なのか。
セーラが感心していると、間もなく侍女たちがやってきて、王女の身支度に取り掛かる。こればかりは、なにも知らないセーラが手を出しても邪魔になるだけだ。ヴァイセンとともに部屋の隅へと控えると、深海のような目がちらりと見下ろしてきた。
「さて、このあとどうするおつもりだ? 庭の散歩か?」
「え、だめですか?」
「いや、いけないことはないが。一応、本日の姫さまのご予定を陛下にご報告せねばならんのだ。それから、侍女たちにも周知しないと彼女たちも困るだろう」
確かにそうだ。セーラは納得して、自身よりもはるかに細やかな気配りのできるヴァイセンを見上げた。
「これって、あとはヴァイセンさまが指揮したほうが良くないですか? わたしじゃ王女さまの暮らしぶりなんて想像もつかなくて、どこの誰にどう配慮したら良いのかヴァイセンさまほど考えつきませんし……」
「あなたの指示に従えとの勅命なのだ。私が言っても侍女は動かない。彼女たちは私の部下でも下僕でもないからな」
「ええ……。わたしだって侍女さんたちに偉そうに指示できる立場じゃないんですけど……」
セーラは困惑しながらも、悩んで腕を組む。
「予定と言っても、わたしも手探りなので王女さま次第なんですよね。一応、お散歩はするつもりです。運動と、陽の光を浴びたほうが良いので。動き回ったらお腹も空くと思うんです。空かなくてもスープくらいは食べてもらいたいですね。本当はお風呂にも入ってもらいたいんですけど、ちょっと高望みですかね……。というか、この世界のお風呂ってあんな感じなんです?」
「あんな感じとは?」
セーラは思わずしょっぱい顔になる。
昨夜、ヴァイセンの屋敷に招かれたセーラは、温かい夜食の他に蒸しタオルをもらったのだ。それで身体を拭けということのようで、風呂には入れなかった。
地下牢のカビ臭い床に座り込んで汚れは気になっていたし、拭けるものがあるだけありがたかった。しかしそれでも、あれがこの世界の標準的な〝風呂〟だと言われてしまうと今後が思いやられる。
「タオルで拭くだけなんですか? こう、シャワーを浴びたり、湯船にお湯を張って浸かったりとか、しないんでしょうか」
ないものを求めることはできないが、お風呂事情だけは受け入れがたい。なんとかならないかとヴァイセンを見やると、彼は合点がいったようにうなずいて苦笑いした。
「湯殿か。もちろんあるとも。だが昨晩は許してほしい。あなたを私の目の届かないところに置くわけにはいかなかったんだ」
「えっ。着替え見てたんですか!!?」
思わず大きな声が出る。ヴァイセンも目を見開いて心外だと言わんばかりの顔をしたが、彼がなにかを言うより前に騒ぎが起こった。
王女が泣き出したのだ。
「なにがあった?」
侍女たちが集まる王女のそばへヴァイセンが駆け寄る。セーラもあとをついていくと、侍女たちは困り果てた顔でこちらを振り返ったのだった。
「その……王妃さまのハンカチをお探しのようで」
「おかあさまの……おかあさまがさしてくださったハンカチ、みんなしらないっていうの」
「いえ、ですから、お探ししますので……」
伝言ゲームのように「王妃さまのハンカチ」という言葉が侍女たちの間に広がる。だが、誰もが首をかしげてしまっている。どこにあったか、そんなものは存在したか、などと話し合っている有り様だ。
セーラもはたと思い出した。
昨夜王女に物語を聞かせたときに、彼女は〝おかあさまのさしてくれたハンカチ〟なるものを探そうとしていた。
王女は身支度を始めて意識が覚醒し、そのことを思い出したのだろう。しかし、こればかりはセーラにはどうしようもなかった。
とはいえ、それが探し出せないことにはこの先の身支度に進めなさそうだ。とんだミッションが加わったものである。
セーラは助けを求めて隣のヴァイセンを見上げたが、そこに彼はいなかった。既に部屋の外へ出ようとしていたのだ。
「あれっ。ヴァイセンさま?」
「少々出てくる。セーラ殿はとりあえず姫さまのお世話を頼む」
「いやっ! そう簡単に頼まれましても!」
――今のところ、あなたがわたしとこの世界の人をつなぐ仲介役でして!
セーラが追いすがる間もなく、ヴァイセンは大股に去っていく。素晴らしく長い脚だ。全然追いつけそうになかった。
――お願い、ひとりにしないでー!
内心で叫んでみたものの、それで彼が止まってくれるわけもない。
「あの……どうしましょう……」
しかも侍女の多くはこちらにすがるような目を向けている。まったく、どうしましょうはこちらのセリフだというのに。
セーラは昨夜ぶりに背中を冷や汗でびっちょりにしながら、引きつった笑みを浮かべることしかできなかった。
「と……とりあえず、みなさんはその〝王妃さまのさしたハンカチ〟を探してくれますか? わたしは姫さまにもっと特徴を聞いてみます……」
わらわらと動き出した侍女をよそに、セーラこそが泣きそうになった。
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