② 鍵となった炯、蠢動する白の媒介者、ルーチェのもたらしたもの――終わりの始まり

 自動ドアが静かに開いた。外は秋晴れの青空、眩しさで目が引き締まる感覚がした。小川に沿って続く並木道を一人漫然と歩いている。ウェールスの精密検査に少々の時間がかかると言われたのだが、少々が思いのほか長く、ロビーで待っているのにも飽きてしまった。


 ジャヌアリィが実に困った顔で嘆いていた。


「まさかこのようなことが起こるとは」


 何が起きたのか、概要を理解すること自体は容易い。情報剤の代替を生身の人間である私が担った。ウェールスが必要としていた情報剤の役割は、機能を解放して「力」になった彼女に取るべき姿を提示する、彼女が元の姿に戻れるように「人間」の情報子を供給する、この二つだ。本来、これらは彼女に備えられていた。根幹のコアとの戦いで破壊され、森氏の件で更に傷つけられたが、核となる部分はまだ彼女の中で生きている。情報剤はあくまで補完をすれば良い。


「深刻な脆弱性では」


 私が尋ねると、彼は目を細め抗議の眼差しで、


「本を正せば、開道さんの応急処置が原因です。あの時にルーチェは開道さんから人間の情報子を得ました。それが今回の事態に繋がったのです。そもそも、あのような接触は触れた側に深刻な損傷を与えるだけで、何の治癒効果も発生しないものです。絶対に起こり得ないことが起こりました」


 それは嘘ではないのだろう。実際にやるとなれば難事どころの話ではない。今回はウェールスの意思と才能によって実現した奇跡と考えて良い。再現性はあるまい。


「つまり、事実であるはずの演算が推測に過ぎなかったことで起きた、と」


 とは言え、嫌味の一つくらいは言っておく。


「そう言われても仕方のないことではあります。ですが、もう二度とこのようなことは起こりません。これは演算ではなく事実です」


 最後は自信に満ちた表情で断言された。どうにも不穏だった。


「ともあれ、彼女が無事で良かった。媒介者もコアも健在だ。情報剤の開発にはどのくらいの時間が必要なんだ」

「情報剤」


 私の質問にジャヌアリィは不思議そうに首を傾げる。私は訝り、


「今回のことが応急処置と同様なら、情報剤を再度、調整しなければならないんだろう」

「情報剤はもう使い物になりません」


 彼がにこやかに述べたその一言で俄かに緊張を覚える。


「どういうことだ」

「生身の人間が持つ情報量を情報剤で再現することは不可能です。開道さん、貴方は情報剤よりも遥かに優れた情報剤としてあの子に作用しました。もう、あの子は貴方無しに擬似エリミネータにはなれません」呆気に取られる私を見つめたまま、「ああ。マグヌス、でしたね」


 愕然とする私を尻目に話を続ける。


「それ以外にも、例えば、何かしらの武装を使用したとかであの子の情報子が不足したとしましょう。今後は私たちの行為が応急処置になります。回復させられるのは開道さん、貴方だけです」

「現時点では、だろう。今後、研究が進めば」


 慌てて前のめりに言い募る私の言葉を遮って、


「研究とは不可能を可能にする開拓ではなく、不可能性と可能性の境界を探す旅です。境界線を更新できたとき、外形的に新たに何かが可能になったように見えるのです。この境界は既にはっきりしています。不可能です」


 実にいい笑顔で言い切って、追い打ちを仕掛けてくる。


「先ほど私は二度とこのようなことは起こらないと申し上げました。ええ、絶対に起こりません。たった一つきりの錠の鍵穴を貴方は自分の形に変えたのです。鍵は貴方一つきりです。果たしてこれは脆弱性なのか、はたまた堅牢性でしょうか」


 ここに来て意趣返しを喰らう羽目になった。


「フーマニットにも恨みがましさがあるとは」絞り出すように言うと、

「残念なことです」余裕綽々返された。


 私がウェールスの生存と戦力を維持する不可欠の要素になった以上、今回のような企てを再び行うことは完全に不可能になった。一方で白の媒介者の追跡、コアの破壊はし易くなったと言える。よもやこのような形で前向きさを強要されるとは思いもしなかった。


「浮かない顔をしていますね」


 ふいに声をかけられ、そちらを見る。男がベンチに腰掛けて眼下を流れる川を眺めていた。


「およそこんな所には来ないだろう人物を見かけてしまってね」

「ワァルドステイトの支所はD級街ですから、私のような粗暴な業者の男が居たって、間違いじゃありませんよ」


 大家美央氏の傍に最後まで居た手勢の男だ。


「だが、白の媒介者が来るとは思わないだろう」

「そうですね」くつくつと笑う。


 一歩づつ、慎重に距離を詰める。彼女は泰然と構えたまま、


「どうして私だと分かったんです」

「誰が君なのかは分からなかった。居るだろうと思っていただけさ」

「それは、どうして」

「森氏の毒殺は私たちと同じかそれ以上に君たちを動揺させたはずだ。大家美央氏の協力的態度が夫の殺害で解消されることも考えれば、目付け役を置くに違いない。そんな時に手勢の異動が起これば、いやが上にも疑うだろう」

「なるほど。確かに」

「私からも一つ訊きたいことがある」


 彼女が顔を上げたのが分かった。


「なんでしょう」

「何故、クローバーに偽の殺害予告を渡した」


 しばし、間があった。


「おかしなことを言いますね」

「もし、彼女に本物の予告が届いていたなら、彼女は遅くとも、二十二時には小山さんの所に来たはずだ。だが、実際には、彼女はウェールスと一緒にやって来た。二十二時を過ぎなければ、動き出さないはずのウェールスと。単純に考えて、彼女は別のどこかに呼びされ、誰も居ないその場所で二十二時を迎えた。異変に気付いて、ひとまず明石氏の屋敷に向かう途中で、ウェールスと遭遇したんじゃないか」

「道に迷っただけでしょう」

「その後、真っ直ぐ辿り着いたのにかい」分かり切った嘘を揶揄って、続ける。「君はクローバーを小山さんから遠ざけようとした。彼女に最後の望みを叶えさせないようにした。何故だ」


 彼女は、押し黙っていた。その背中に向けて、


「三好さん、ウェールスは無事だ。君の計画は頓挫したんじゃないか」

「まさか。始まったばかりです」

「同じことだ。彼女は強くなって帰ってくる。君の負けだ」


 力強く踏み込んで手を伸ばす。だが、空(くう)を掴んだだけだった。彼女は偽想刻殻を解いて、川の向こう側に立っていた。私を見つめ、口を動かす。


――また会いましょう、開道さん。


 そう言うと、背を向けて、さっと姿を消した。その後ろ姿をそこに見たまま、


「君に何も始めさせない」


 私はそっと、けれど、決然と呟いた。


「お待たせ」


 ロビーに戻って待ち始めてからそれなりの時間が経ち、ようやくウェールスがやって来た。振り向いて彼女を見ると、荷物を背負って小走りで駆け寄って来る。


「検査の結果は」

「上々。問題無いってさ。疲労はあるから、ちゃんと休めって言われた」

「良かった。それじゃ、帰ろうか」

「うん」満面の笑みで首を縦に振る。


 今度は並木道を二人で歩いていく。しばらく続いた沈黙を、ウェールスが破った。


「君のおかげでコアと戦い続ける力を手に入れた」そう言って少し遠慮がちに、「そのことは、ありがとう。僕にはまだ命があるんだ。叶子との約束も守れる」

「約束、課長と」

「また蔵書館区に連れて行ってくれるって」

「そうか。昨日を生き抜いた君に今日があることは、私も素直に良いと思う。そうあって欲しかった。この点に嘘は無い」

「うん」俯きがちに小さく頷く。ぱっと顔を上げて、「そう言えば、栄さんの名簿に大家さんの名前が載ってなかったのはどうして」

「栄氏が縁談を持ちかけて回っていたのは、逢坂氏への反発心を和らげるためだった。敗北感と孤独を癒すことでね。彼らの共通点は妻を奪われたことでなく、その心理的境遇だったわけだ。大家氏にはそれが無かったと考えるのが妥当だろう」

「小山さん」ぽつりと呟く。

「ああ。大家氏が小山さんに向けていた眼差しの内訳はもう分からない。だが、二人の日々は間違いなく幸福と呼べるものだった。栄氏は大家氏も訪ねたはずだ。その時にそれを見た」

「悲しいね。奪われて、奪われて。こうするしかなかったのかな」

「小山さんの置かれた状況を考えれば、積極策はこれくらいしかなかったと思う。彼女の復讐は道義的には正当だが、暴力である以上は罪だ。結果的に死によってそれを償うことになってしまった。忘れてならないのは、奪われなければ奪い返すこともなかったということだ。私たちには事件の発端となった略奪者の罪を咎めることはできない。それが誠実に為されることを願うしかない」

「大家さんの奥さんはどうなるの」

「課長が向かうように仕向けておいた。人身売買事件で都合良く罪に問えそうな人物だからね。今頃はどこかの檻の中だろう。その辺りはまた課長に訊くさ」

「そっか」

「さて、これからどうするかを話し合わないといけないな」

「白の媒介者が次にどう出るか、だね」

「いや、そうじゃない」

「じゃあ、何」

「送別会までして送り出された君は、どの面下げて帰るのか、の話だ」

「そうだった」


 案の定、すっかり忘れていたウェールスが、気まずい挨拶の算段を始める。私も、置き手紙の次第によっては、彼女以上に気まずい帰宅だ。二人、少し重くなった足取りで、起こり得ることを話しながら家路を辿る。


 ふいに、午後の翳り差す空を仰いだ。少女の連れてきた、摘み上げられ宙に留め置かれていた夏も、いつの間にか去っていた。秋の清涼な風は、柊の匂いを運んでいる。いつもよりほんの少し快い、冬の訪れを予感した。

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