十四日目

① 炯の嘆き、ルーチェの涙、朝焼け――明日が今日となって訪れる時

 崩落間際の地下通路に、少女の啜り泣く声が小さく響いていた。彼女の前には今しがた息絶えた男の無惨な姿。エリミネータが地上に出た。もう、行かなければならない。幸い情報剤が間に合った。戦えば、勝てる。だが、戦意はおろか生きようという意思さえ湧かない。義務と理屈を並べ立て、どれだけ自分を叱咤しても感情の歯車はびくともしない。一歩も動けなかった。ウェールスは私の傍にぺたんと座り込み、


「炯、起きてよ」体を揺さぶり、項垂れた。


 何より彼女を悲しませるのは、この死がこの惨めな男の最後の活路だったことだ。数時間前に聞いた言葉は一点の曇りもない、整然とした絶望だった。生きることに救いも報いも無かった。この死はこの絶望の暗澹を穿ち輝く創造性の光だ。命と人生に見出すことのできる、たった一つ限りの光だ。間違いない。確かに、間違いは、無い。


「いやだなあ」


 目に涙を貯めて、困ったように微笑み、呟く。心に感情が渦巻いていた。それに宛がう言葉は分からなかったが。数日の思い出を振り返るように来た道を見遣る。血が点々と続いている。涙が頬を伝い、太ももに落ちた。その冷たさに驚いて膝下を見る。ふと、これから向かうはずだった道を見た。はっとした。そこに血の雫は落ちていなかった。当たり前だ。まだ歩かれていないのだから。だが、そのことがウェールスには鮮明に暗示じみて感じられた。


――君は自分のいない明日を私に約束するつもりなのか。


 彼女の体が瀝青を放ち始めた。次第に美しい煌めきとなって辺りを照らしてゆく。私に言わせればそれこそが本当の絶望だった。どういうわけか彼女の瀝青が私の生成装置に供給され、強制的に再稼働した。傷の回復、血液の生産、自分自身の瀝青の生成。力強く急激に進んでいく。小さく顔を歪ませて、私は薄ら目を開いた。


「試してないことがあるんだ」


 ウェールスは私の首に腕を回した。耳元で囁く。


「二人で一緒に賭けをしよう。明日があるか、ないか。もしあったら、約束したって良いんでしょ」


 供給される瀝青を拒絶することはできる。だが、それはもはや自死だった。それに。彼女の体は無数の亀裂で赤く光っていた。その眼差し、声、小刻みに震える体躯。これを退ければ、彼女の一縷の希望は砕かれ、心は深く傷つき、彼女は死ぬだろう。これではただ単に生きることに倦み、彼女を殺して自死するだけになる。私は自分の尊厳を手ずから破壊するのだ。


「だから――」私の体をきつく抱き締め、叫ぶ。「僕を、求めてよ」


 選択の余地は、無かった。彼女の体を抱き締め返す。ただ、深い嘆きとともに、祈った。


(この怒りと憎しみを、置いて去ることができないと言うなら、どこまでも大きくなってゆけ。――優しさに届く高さまで)


「マグヌス(大いなる者)」


 崩落するシェルター、轟音の中で。ウェールスの声が響く。瞬間、互いの体が境界を失い、巨大な力の奔流になった。


 目を覚ますと、あの丘の上にいた。西の荒地の北にある忘れられた丘だ。藤の粛清が奪ったものを一望できる展望台、石造りの長椅子に横たえられていた。背中に伝わる少し湿った冷たさで生きているのだと分かった。空の端から太陽の光線を感じた。一瞬、日暮れかと思った。全ては今から始まるところで、私はどう言うわけか少し気を失った。ウェールスは今から大家美央氏の家を見張り、私は。そんなはずはない。陽光の気配は頭の先、東にあった。日の出だ。少女の息遣いもそちらにあった。


 上体を起こし、茫然と南の空を見渡す。既に藍も薄らぎ、夜は払い除けられるように西へ西へと追われていた。南東、屋根で休んでいた影が風に誘われるまま空に舞い、数羽の烏となって東の空へと飛んでいく。涼やかな風が吹き、爽やかさの意味と何が倦怠かを私に教えて通り抜けた。宵闇は、何ら解決されることはなく、ただただ殺されていく。朝が来る。明日が今日の顔をして、私の元にもやって来る。


 一体、この有無を言わさぬ殺人、死んでゆく夜の空に朝の光は何と言うのか。自分のしたことの説明を試みるか。己の善良、正義であることを言い募るのか。思い上がりの説教か。どれほどの小賢しい言葉でこの偽善を誤魔化すつもりでいるのか。


 私は、ウェールスを見た。見て、思わず息を飲んだ。いましも昇る太陽の真白い光線、赤い髪は炎のように鮮やかに煌めき、白い肌が光に一瞬の憩いを与えて西の空へと送り出す。逆光が眩しく目を細めた。そっと、輝きを増した日の光が彼女の頬を撫でる。二つの琥珀色の瞳が小さな太陽を思わせ、涙の水面の上で小さく揺れている。


 少女は、ただ泣いていた。何をか言葉を紡ごうとして、その度にそれを飲み込んでいた。震える頬を伝う涙が、朝露のように静かに輝く。その全てが、私の問いへの彼女の答えだった。


 心の中で天を仰いだ。ああ、だから。正しく朝は来るのか。笑うよりない。私としたことが、間違えたのだ。


――君は、朝焼けだったか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る