⑪ 駆ける叶子、届く逢坂の想いと声、憎しみと優しさのマグヌス――恩讐の果て
「この道を進めば、私が通った入口がある。そこに車を停めてる」
行きに体当たりで空けてきた穴を全力疾走で戻りながら、課長が説明する。逢坂氏の反応を待たずに話し続ける。
「車、置いてて大丈夫かって。大丈夫よ。何仕掛けられたって問題にもならない。ここに来る時に人も呼んだ。車二台で来いってね。もし盗まれてたら、その一台を使うわ」
穴は途中までは直線的だったが、後に行くにつれ、来る時の困惑を反映して左右にズレていた。暗い地下シェルター街だ。目の前に壁が迫って、やっとあるはずの穴が無いと分かると、勢いそのまま体を水平に倒して壁を走る。穴まで来ると向こうの縁を足がかりに身を翻し、体勢を戻して駆け抜ける。
逢坂氏が一言も発しないのは、そんな曲芸を課長の小脇に抱えられた状態で味わわされているからだ。
(これが本物の覚醒者の実力なのか)
真っ青な顔で込み上げる吐き気を抑えながら、次元の違う実力差に臍を噛む。
夜の街、旧幹線道路に突如、大きな亀裂が走った。赤い光が漏れ出し、空に投射されたように砂嵐が浮かぶ。そのチラつきが次第に輪郭を持って、エリミネータが現れた。機械仕掛けの人形は、今や、全長四十メートルに及ぶ巨大な、狂気の兵器の様相だ。六角形の穴のような奇怪な口を開くと、夜の空に甲高い鳴き声を響かせる。物悲しい音色だった。けれど、強力な弾性効果のために、姿はおろか声さえも眠る街には届かない。誰かに呼びかけるように二度、三度と鳴いて、諦めたように歩き出す。一歩、一歩、ゆっくりと振り出される足は西の荒地に向いていた。
地上に出た二人を黒服の男たちが恭しい態度で迎えた。
「お嬢様、女は北條様の配下に引き渡しました」
課長は衣服の埃を荒っぽくはたき落としながら、
「ありがとう。こんな夜中に北條もよくやる」乗ってきた車を見遣り、「車は無事みたいね」
「細工をされた形跡もございません」
「結構。みんな帰って良いわ。私はもう一仕事あるから」
「畏まりました」
「ほら、行くわよ」
振り向き逢坂氏を促す。車に乗り込むと男たちの見送りを背にアクセルを思い切り踏み込んだ。
「北條っていうと、市長の」
助手席の逢坂氏が様子を窺うように尋ねる。
「そう。私ってば顔が広くってね。北條は姉の今の旦那。人身売買事件で都合の良いのを見つけたから、受け取りに来いって呼びつけたのよ。近道を使うわ。歯食いしばってなさいよ」
勢いよくハンドルを切り、猛スピードで狭い路地に突っ込む。縫うように走り抜け、到頭、車が嵌る程の幅しかない路地裏に飛び込んだ。サイドミラーが吹っ飛び、車体の左右が壁と火花を散らす。またも青ざめた顔で吐き気を堪える羽目になった逢坂氏を尻目に、
「学府の都市は市長と中央組織の二重統治。特に中央に近い都市はね、市長も強いし、按察や管察の機能も強い。手柄争いが出て来る。私は北條に貸しを作ったってわけ。こういうこと、知っておくと活きるかもしれないわよ。団長さん」
余裕の笑みを浮かべる課長の横顔を逢坂氏は呆気に取られた表情で見る。と、唐突に浮遊感が生じた。両手で口を覆ったが早いか、叩きつけられる衝撃と共に車が大通りに出た。
「まったく。地下の迷路で右に左に振り回された。地上を行けばすぐよ」
そう言ってハンドルを握り直し、
「掴まってな。飛ばすよ」課長が力強く宣言した。
西に向かうエリミネータの誰にも聞こえない足音だけがこだまする。機械仕掛けの巨人は、今も宿主と偶然手に入れた燃料を崩し、燃やして、莫大な瀝青を蓄え続けていた。それが閾値を超えると、周囲に大量の落葉のコアをばら撒く。これに寄生された者は人格を破壊され、コアに支配された廃人になる。巨人を西の荒地に向かわせる虚な意思だけが、その恐怖と今、戦っていた。だが、その意思――クローバーはコアのプログラムとの度重なる応酬の中で消滅しつつあった。
西の荒地の手前を川が流れる。その川を越えたところで、エリミネータが全身を軋ませ、動きを止めた。プログラムが主導権を握った。俯いていた顔を上げると振り返り、東を向く。再び甲高い鳴き声を上げ、市街地を目指し、足を前に踏み出した。
その時、暗闇の向こうから大きな足音が聞こえてきた。彼女にだけ聞こえる足音が、一歩、一歩、近づいてくる。突然、夜の闇が霧のように払われ、もう一体の巨人が現れた。全身を漆黒の甲冑で固め、悪魔か武者か。頭部に二本の角。顔の上半分をプレートが覆い隠し、その表情は見えない。エリミネータの行く手に立って、黒き巨人、マリィスが咆哮を上げた。
静けき夜の街、夜空を浮かべる名を忘れられた川。二体の巨人が対峙して、知られざる死闘が始まった。
エリミネータが右前腕から赤い剣を瞬時に作り出し、先ほどまでの緩慢な動作が嘘のような速度で真っ直ぐに直進する。マリィスが躱し、腹に拳を打ち込んだ。火花が散り、小さな歯車が外れ飛ぶ。それが地面に落ちて消えるより早く、エリミネータが建物に突っ込む。すぐさま追撃を試みる黒い巨人が肉迫する。巻き戻しのように起き上がり、振り下ろす剣、そこに姿はない。右脇腹に打撃が入る。今度は宙で体勢を整え、木々の広がる空地に降り立った。両手を前に突き出し、赤い光線を次々に放つ。しかし、黒い巨人には射撃を無効化する力があった。腕を交差して受けきり、咆哮を上げるとエリミネータの手が砕けた。明後日を向いた左右の五指が触手のように蠢き、掌が再度、形成される。もう一度、剣を持つ。瞬間、姿が消えた。黒い巨人に迫り、振るう。これは躱した。だが、先ほどとは勝手が違った。コアの優れた学習能力を遺憾なく発揮し、別人のような太刀捌きで攻撃を繰り出す。遂に払った切先が、マリィスの左腕を切り裂いた。後ろに跳んで距離を取る。エリミネータが執拗に距離を詰める。鋭く突いてきた剣を躱しつつ、黒い巨人は左の前腕から骨のように白い柄を突出させる。抜き取ると先端が瀝青を放出して戦斧を成す。迫る二本の剣目掛けて、それを振り抜く。
形勢は戦力だけならばマリィスが優勢に見える。だが、それには理由があった。黒い巨人は急いでいた。残された瀝青の量が少ない。対するエリミネータは宿主の全てを燃やし、瀝青を獲得している。マリィスにはコアを完全に破壊する技がある。しかし、その前にコアを守るエリミネータの戦力を大幅に削がなければならない。負けなければ必ず勝てるエリミネータとは勝利条件が違った。その違いが、真実の形勢において、マリィスを圧倒的不利に立たせていた。
何度となく続いた鍔迫り合いの果てに剣を叩き折り、マリィスが腹に蹴りを入れた。大きく後ろに飛ばされたエリミネータの立ち上がるが早いか、マリィスが両手を顔の前にかざす。手甲が外れ、掌に空いた二つの孔が露わになる。口を大きく開けて咆哮を上げると掌の孔で不思議な音と強烈な衝撃波に変換され放たれる。嘆きのハウルがエリミネータを襲い、上半身を消し飛ばした。
それは、マリィスの賭けだった。だが、エリミネータは失った体を回復し、鳴き声を上げた。機械仕掛けの巨人は、己のコアを守っていた。マリィスが膝を突いた。
大量の瀝青を一時的に喪失し、すぐには強力な武器を作り出せないエリミネータはマリィスに駆け寄り、殴る、蹴る。賭けに負けた黒い巨人には単純な暴力を退ける力さえも残っていなかった。不完全な回避と防御で痛打を辛くも逃れる。それも続かず、鳩尾に膝を打たれると首から投げられ、建物に叩きつけられた。その間に瀝青の供給が完了したエリミネータが、遂に赤い剣を再度、作り出し、マリィス目掛けて振り下ろす。切先が首筋に迫る。
――聞け。
頭の中に響いたその声で、エリミネータの動きが止まった。声は聞こえなかったマリィスにも姿は見えた。川の向こうの無人のビル、屋上に二人の人影があった。その内の一人、課長が驚く。
「動きが止まった」
強力な弾性効果のために、この距離、課長ほどの覚醒者であっても巨人の姿は見えない。だが、漠然とした影と動きは感じ取れた。動きを止めたのはもう一つの人影、逢坂氏だ。彼は、覚醒者だった。
――この距離でようやく届いた。
逢坂氏は、エリミネータの中で今も生きているクローバーの意思に、語りかけていた。この力こそ、彼の使える、彼にしか使えない唯一の覚醒技能だ。
辿り着く声――言葉を交わしたことのある相手に、いかなる条件も退けて、自分の声を必ず聞かせる技。この声には少々の干渉系の性質があり、声を聞く者を魅了することができる。更に、瀝青を相手に渡す効果も併せ持ち、相手を強制的に自分の声が聞ける状態にする。攻撃力も破壊力も持たないこの技は、しかし、破格の威力を有していた。
聞かせるだけならいかなる条件も超越するが、後ろ二つの効果は物理的距離、遮蔽物の有無、相手の抵抗性の性能によって無力化される。そうであるが故に、彼は、今、エリミネータの前にその姿を晒したのだ。彼は誰もいない空に向かって笑いかけた。
「最後に、昔話をしよう」
そう切り出して、逢坂氏はクローバーと出会った日から今日までのことを語り始めた。求められていた金額分のガラクタを見つけられず途方に暮れていたこと、勇気を出して禁じられた場所に踏み込んだこと、そこでクローバーと出会ったこと。冷たい顔が気になって何度も通った。いつの間にか勉強を教わるようになっていた。その中で知った学府の歴史、凄惨な虐殺、クローバーの正体。だが、教わったのは暗い過去だけではなかった。未来という言葉、その意味を知った。
「月並みな言葉ですけれど」
雑草という草は無いなどという戯言。名前を持つ意味、個を認識する尊さ。その件だった、そこらに自生する名も知らぬ草をシロツメクサと呼ぶと知ったのは。それを知って初めて知った。誰に唾吐きかけられようと名は汚されはしないこと、その素晴らしさと力強さを。
エリミネータが忌々しげに鳴き、両手を逢坂氏に向ける。だが、光線は出ない。活性化するクローバーの意思がそれを阻止していた。動きを止めようと掴みかかったマリィスを振り払い、近場の瓦礫を投げつける。だが、突如飛来したそれを拳一つで粉砕し、課長が叫ぶ。
「続けろ」前を見据え、「守ってやる」
逢坂氏は身じろぎ一つすることなく語らいを続ける。熱を出した小山さんを背負って訪ねた夜のこと。自分も熱を出して死にかけたこと。目が覚めた時には二人すっかり治っていた。あの日からクローバーの様子はおかしくなった。今、思えば、あれは自分たちにビットを打ったことに葛藤していたのではないか。栄氏の養子にならないかと誘われこと。そのことを打ち明ける間もなく居なくなったこと。どうして去ったのか、その理由は今も分からない。
「俺はあの日からずっと探したんだ。声が枯れるまで呼んだんだ。毎日、毎日、駆けずり回って、そうやって」顔を上げ、叫ぶ。「俺はこの力を手に入れた」
失意の果てで逢坂少年は前を向き始める。誰にも殺されないために、誰も殺さないために、非市民は人間性を獲得し自立しなければならない。その彼を導いたのはこの力だった。彼は覚醒能力を駆使して経済人の妻たちを拐かし、援助を勝ち取っていく。仲間を増やし、事業を強化し、自警団を築き上げた。貴族とさえ関係を結び、クローバーの日記の研究を進めた。
彼は走り続けた。あの惨劇を二度と繰り返させないために。あの惨劇を克服と言って持て囃す者たちに罪を認めさせるために。いつかまたクローバーに会える日を信じて。その途中で、もう随分前に出会った相棒がその人だとは知りもしないで。
逢坂氏の力はクローバーを追いかけることで目覚めた。その力が彼を導き、その力で今、彼はクローバーに最後の言葉を告げようとしている。とめどなく涙を流し、微笑みかける。
「俺でも分かるよ、クローバー。おまえは今とんでもないことをやらかそうとしてるんだろ。おまえが、おまえの仲間が、苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いて守ったものをおまえは今ぶち壊そうとしてるんだ。おまえが俺と、俺たちと過ごした時間。俺たちに託したもの、託したかったはずのもの。全部、壊そうとしてるんだ。そんなこと、させるわけにいかないだろ。俺が、俺たちが、おまえの代わりに守るから、必ず守ってみせるから。だから、クローバー」
――死んでくれ。
その言葉で、クローバーに内蔵された自己破壊プログラムが稼働する。エリミネータの全身に無数の赤い亀裂が走る。けたたましい断末魔を上げる。それを掻き消さんばかりに逢坂氏が吠えた。
「やれえっ」
叫びはマリィスに向けられていた。与えられた瀝青を端緒に周囲の瀝青を巻き込んで必殺の技を起動する。赤く燃える両腕でエリミネータの体を掴むと空高く掲げて咆哮する。炎のようなその赤が黄金の輝きに近づき、直視できない燦然たる光となった瞬間、機械仕掛けの巨人は強烈な衝撃波とともに爆散した。
「何」
課長が悲鳴を上げる。弾性効果による急激な減弱を受けてなお凄まじい衝撃が二人を襲い、立っていた建物もろとも吹き飛ばされた。
勇ましく俺たちが守るからと言った直後にまさか墜落死するとは。逢坂氏は薄れ行く意識の中で自嘲した。ふっと、誰かに受け止められたような浮遊感があった。
「ここは」
目を覚まし、自分が気絶していたことに気づいた。東の空が黒から藍に色を変え、新たな一日の訪れを告げている。立ち上がり、周りを見渡すと、すぐ近くに課長の姿があった。小さく漏らした寝言で気を失っているのだと分かった。ほっと安堵して座り込む。沸々と怒りが込み上げてきた。瓦礫の山を掻き分け降りて、駆け出す。
「大家」
叫びながら、衝撃波の爪痕がまざまざと残る川の辺りへ向かう。クローバーとの約束は忘れてはいない。彼女の望みも理解しているつもりだ。それでも、衝き上げる憎しみをどうすることもできなかった。
(殺してやる)
と、橋の真ん中で何かに躓いて転んだ。忌々しげに振り向き、睨みつけ、目を見開いた。そこに転がっていたものを、彼は知っていた。ひび割れ、今にも消えようとしている銀色の箱だ。震える両手で拾い上げる。
――これ、偽物のガラクタだってさ。
それが何であるか悟ったとき、彼は、あの日、自分が言った言葉の意味を理解した。クローバーの亡骸を抱きしめながら、ただ、ただ、泣き叫んだ。
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