⑥ 蹂躙、穏やかな日々、奪われたもの――復讐者の叫び

 あの男、そう呟く声は、深い悲しみを、湛えていた。


「君は、大家氏に想いを寄せていた」

「良い言い回しね。想いを寄せることはできるものね」


 自嘲的な笑みを浮かべる。


 この耐え難い苦痛の始まりはいつだったか。それは最初――栄氏が大家氏に彼女を譲った日ではなかった。その時点では、栄秀秋氏に植え付けられた恐怖と失意の延長でしかなかった。息子に犯されて、使い物にならなくなった女を山奥で引き篭もる陰気な男の慰み者にするのだ。使い倒され、飽きられれば、いよいよ殺されるだろう。体の良い残飯処理だ。栄氏から大家氏の説明を聞いたときの彼女は、そうとしか考えられなかった。


 それが誤解らしいと分かるまでにさして時間は要さなかった。大家氏は、ある時は我が子を育てるように慈愛をもって、ある時は生徒を教え諭すように誇りと自負をもって、またある時は若輩のけれど成立した人格と語らうように余裕と礼節をもって彼女に接した。一年後、彼女は大家氏に姓を求めて小山過と名乗る。大家氏の門下――知と精神の一族になったのだ。


 その頃の彼女の大家氏への思いは、共感と同情、敬意で占められていた。――旦那様は偉大な仕事をなさっている。この地の歴史を綴った書物を守り、時代人の精神を今に伝えようと奮闘し、しかし、伝統などと盲目的に称揚せずに学ぼうと訴え、今を未来に遺そうとしている。この頽廃の時代に、再び人を人間にしようと必死に叫んでいる。にもかかわらず、誰にもその大きさを認識されず、軽んじられ、山奥で暮らす変人と蔑まれている――。振り返れば、彼女の前には常に分かり易い力を持つ者がおり、その力が持て囃される光景を見てきた。逢坂氏の心身の柔軟さと強靭さ、栄氏の金と地位の暴威。人々がそれらをどれほど尊敬し、ひれ伏すか。


 人々の愚かさと無礼に対する不満、怒りが彼女に自分の形を自覚させた。一方でただ一人静かに誇りを保ちながら自己を貫く大家氏の姿を歯痒く思いながらも深く尊敬した。大家氏は彼女に心の拠り所、自尊心の根拠を与えたのだ。


 その日々が唐突に終わり、苦痛の日々が始まった。何の脈絡も無かった。いつも通り彼の書斎で写本の作業を手伝っていた時。ふいに筆を持つ彼の右手が視界に入った。爪の切り揃えられた指先が小さく揺れている。震える瞳を動かして彼の目を見る。ペン先の文字をじっと見つめる細い目。はっと彼が顔を上げ、


「どうした」


 彼女は、自分が大家氏に烈しく昂奮しているのに気づいた。瞬間、あの日――栄氏の顔、落ちてきた汗、吐きかけられた息、体を這う指、獣のような呻き声――が鮮明に蘇った。その体験が、直前に頭を支配していた衝動を一つ一つ定義していく。


(私はその手で組み敷かれ、目で暴かれ、声で辱しめられることを欲している)


「調子が良くないみたいで」


 消え入りそうな声で答える。大家氏が立ち上がり、彼女の額に手を添えた。被虐趣味的な服従願望が満たされる恍惚とした予感が脳を痺れさせ、栄氏が耳元で肯定を促す囁きをした。


 彼女は錯乱し、泣き叫んだ。


「栄、あの醜い豚のような男に私は何を奪われたのか。旦那様に欲情する自分に気付いて、それが愛そのものだったのだと分かった。あの男の汚れた獣の性が私の中にもある。あの男にされたことを旦那様に求める自分がいる。心の底から死にたいと思った。私には愛がない。この感情には愛とはかけ離れた悍ましい言葉を宛てがわれてしまった」


 ふっと彼女の纏う瀝青の濃度が上がった。遠くを見つめて言葉を続ける。


「もし、あの時に白の媒介者が現れていたら、私は栄を殺したかも知れない。栄を殺して、旦那様も殺して、その死体の上に跨って悦んだかしら。どうあれ、そうはならなかった。私には栄を殺せる力は無かったし、何より、あの人の傍で一緒に生きることはできたから」

「その日々を大家美央氏が破壊した」


 私の指摘に小山さんは俯いた。絶望は体験ではない、それは挫折に過ぎない。絶望とはこの人に強いられた人生そのもの、その人生を強いられ生きる人間そのものだ。彼女は、何度となく挫折を強要された。その度にそれを横に置いて今を生きようとしてきた。そんな彼女の決死の忍耐を大家美央氏は完全に破壊したのだ。絶望し、彼の後を追おうとした彼女の前に、白の媒介者が現れた。彼女の握り締めた拳が震える。


「自分の力が人に認められるもので無かったこと。踏みにじられて軽んじられたこと。愛が満たされないこと、もうそれが分からないこと。それでも耐えた。それでも許して、この街で、この人々の中で、片隅で、私、生きようとしたわ。耐えるたびに蔑みの眼差しを感じた。許すたびに許されていると知りもしない者たちが当然の権利かのように、一層、私から奪っていった。それでも耐えた、それでも許した。ただ、あの人の見つめるものを信じていられるなら、そうしていようと思った。それを」



「あの女」



 声は地鳴りのような呻きだった。夥しい瀝青が放たれる。深い憎しみの塊のような迫力に私の体は自ずと戦慄した。しかし、戦いはここからだ。


「奪われるということは、ただ奪われるということだ。その代わりに何かを手に入れられるわけでも、報復の暴力ならば認められるわけでもない。この都市は、自分の罪を償うことも無ければ、自覚することもしない。君の身に何があっても、君が何をしても、ただ君だけがその罪を贖う。私がここに来たことで、君の計画は失敗した。諦めるんだ」


 説得が通用するはずはない。分かりきったことではあってもやらないわけにはいかない。彼女を助けるためにできることはしなければならない。彼女が反り身になって高らかに笑う。


「あなたが、来たから」嘲りの眼差しを真っ直ぐに私に向けて、「私に勝てると思ってるの。この力を手に入れた、私に」


 力強く床を蹴り、瞬きの間に距離を詰めてくる。咄嗟に呼び出した銀の杭で受け流しつつ、横に跳ぶ。そろりと立ち上がった私をゆったりとした動作で見る。悍ましい笑みを浮かべる大家氏の顔は、首元から左の頬まで真っ赤に爛れている。


「分かりが良くても損するばかり。力だけがものを言う」


 叫び声を上げると瀝青の生成量が一気に数段上へと跳ね上がる。ウェールスの言葉を思い出した。


――君は自分を過大評価してる。殺されてしまうよ。


 苦笑いを浮かべる。なるほど確かに生きる目は無さそうだ。

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