④ 小山過、栄秀秋、クローバー、河原時我聞――逢坂少年と逢坂未来

 逢坂氏が自警団の拠点に戻ったのは、日も暮れきった夜中のことだった。この数日、彼は支援者の繋ぎ止めに奔走していた。明石氏への襲撃を明日に控える今日は、より丁寧な説明を必要とする大口の支援者に状況と今後の展望について説明して回った。最後にその中の一人であり、明日まさに狙われる明石氏を訪ね、話をして帰ってきたところだ。


 彼は今回の事件の当事者の一人であるにもかかわらず、解決に向けて積極的に行動することを控えてきた。コアに対して為す術が無い現実を認めたが故の判断だ。徒に犠牲者を出し、事態を一層の混沌に陥らせぬために自分たちにできることを徹底してきた。


 状況は彼に無力感と焦燥感を与え続けたに違いない。傍目には部外者に事件解決を丸投げし、金勘定と自己保身に終始していると見えて不思議はない。事実、そのような謗りが聞かれた数日間だった。この間、私が彼に伝えた情報は僅少だ。それでも平静を保ち、これを許容し、なけなしの情報と未だ揺るがぬ自信だけで自分の仕事を全うしたのだ。


 そう振る舞えた要因の一つに、クローバーは犯人でないという私の見解と、ひとまずの安堵があったことは想像に難くない。だが――。明石氏との話の中で彼ははっとした。クローバー犯人説が副次的にもたらした地下シェルター街の存在、それが犯行に使われたならばという指摘が、犯人について考える機会を与えたのだ。


 自室の椅子に一人腰掛け、革の破れた両の肘掛けに腕を預ける。背もたれが軋んで立てる不快な音を聞き流す。目を閉じ思案した。


 犯人が地下シェルター街を用いていたならば、しかし、元からその存在を知っているクローバーが犯人でないなら、犯人はクローバーの日記を見たことのある人物に限られる。逢坂氏自身を除けば、彼が最初に相談した栄秀平氏、具体的に協力を請うた大家氏、彼が紹介した明石氏。彼らに付随して盟友である河原寺氏、大家氏に接近する過程で大家美央氏、大家氏の塔で彼を手伝っていた幼馴染の小山さん。栄氏と大家氏は既に殺された。明石氏は明日、狙われる。単純に考えれば、残るのは河原寺氏、大家美央氏、小山さんの三人だけだ。


 逢坂氏はそのままの姿勢で一つため息を吐いた。彼にとり、この三人はいずれも犯人であるはずがなかった。共に自警団の主軸を担い、荒事においては自警団の実質的な頭目である河原寺氏は論外。寝所で妻にして欲しいと執拗に囁き、その為とは言え、確かに協力を惜しまない大家美央氏も動機を見出すことが難しい。小山さんは――。この事件が起こるよりも幾らか前に去ってしまった。仮に今も大家氏と暮らしていたとしても、彼女が他ならぬ大家氏が殺されるような事件を起こすとは到底、考えられなかった。いやむしろ。もし彼女が居たら、少なくとも大家氏は殺されずに済んだのではないか。彼はやはりそう考えずにはいられなかった。大家氏は生きる意志をどこか翳らせている印象があった。彼女を失ってからだ。そんなことを考え出したあたりから逢坂氏の思考は漂流し始めた。


――よぎる、一体どうして貴族のところになんて行ったんだ。


「過」


 扉を勢いよく開けて、逢坂少年は叫んだ。書架の陰から細く白い裸の脚だけが覗いている。それは抵抗する意志を挫かれ、力無く投げ出されて震えていた。獣のような男が姿を現した。


「おまえ、何やった」


 逢坂少年は弾かれたように跳びかかり、汗に濡れた男の首元に全ての力で両手を伸ばした。それで殴り勝てたらどれほど良かったろう。彼は負けた。力一杯投げ飛ばされ、強かに体を打ちつけただけだった。それでもただでは負けなかった。薄れゆく意識の中で養父の声がした。


「これ、偽物のガラクタだってさ」


 そう言って、逢坂少年は銀色の箱を投げ捨てた。手のひら大の鉄製を思わせる代物で、同じ物がクローバーの背後に無数にあった。緑色の髪をした神秘的な女性。彼女との出会い、きっかけは些細なことだった。彼がいつもより少し余計に欲を出したのだ。


 西の荒地はいくつかの異なる景色を持っている。何も無い荒涼な平野、木々に囲まれた廃墟、廃棄物が山のように重なりひしめく通称「鉱山」。逢坂少年に課せられた仕事は、鉱山から金目の物を回収することだった。その際、鉱山には立ち入ってはならない場所があると大人たちから聞かされていた。


 その日、逢坂少年はその禁じられた地に足を踏み入れた。彼は以前からその場所に興味を抱いていた。誰もが忌避し、立ち入らないなら、そこにはまだ誰も手のつけていない物があるはずだ。案の定、今ではめっきり数が減った良品が至る所で見つかった。それらを籠にいそいそと詰め込み、背負って立ち上がった時。うず高く積まれた瓦礫の山の上から自分を見下ろす彼女に気づいた。


「だから言ったでしょう。おそらく値はつかないだろうと」


 クローバーが苦笑いを浮かべながら捨てられた箱を拾い上げ、棚に戻した。逢坂少年はどさっと胡座をかいて、


「そんだけ集めてるの見たら、本当は良い値で売れるんじゃないかって思うだろ」


 口を尖らせて言い返す。彼女が吹き出したものだから、


「バカで悪かったな」

「いいえ、違います」

「何が」

「あなたは今、私を信じられなかったと、とても素直に言ったんですよ」


 自分の言葉を振り返ってはっとする。バツの悪さを受け止められず、


「だったら笑ってないで怒れよ」八つ当たりする。

「それは。ごめんなさい」


 クローバーが笑いを鎮めるのを恨めしそうに待って、


「なんだってこんな役立たずを集めてるんだよ」


 彼女は穏やかな表情で、


「あなたにとっては何の価値も無くても、私にとってはあるからです」


 すると逢坂少年は得意げな顔になり、


「蓼食う虫も好き好き」

「そういうことです」


 その言葉はクローバーから教わったことの一つだった。あの日から彼は足繁く彼女の元を訪れた。彼女は最初こそ彼を遠ざけようとしたものの、すぐに受け入れ、請われるままに多くのことを教えてくれた。


 逢坂少年がクローバーとの交流で得たものはこの地でより良く生きる上で確かに用立った。それどころか有力者から養子に迎え入れたいという誘いを受けていた。西の荒地のではない、この都市の有力者、栄秀平氏からだ。


 だが、そのことが彼の心を単純に明るくすることは決してなかった。養子になればここを離れることになる。彼女ともそう簡単には会えなくなる。


「クローバー」


 勉強の合間の休憩時間、床に寝転がって名前を呼んだ。


「どうしました」


 いつも通りの柔和な調子で返してくる。それが無性に悔しかった。話したところで背中を押すだけだろうと想像がつくことも。


「何でもない」そう言って背を向けた。


 まさかその数日後に別れがやって来るとは夢にも思っていなかった。


「クローバー」


 茫然と呟く。棚にあった銀色の箱が全て無くなっている。何があったのか、手がかりを求め、時間も忘れて家捜しをした。何も分からなかった。棚の隅に見つけた本も彼には読めない文字で書かれていた。


 程なくして、彼は栄氏の養子になった。


「未来」


 遠くの方で呼ぶ声が聞こえた。もう一度、


「未来」


 目を開け、顔を上げる。ぼんやりとした視界が次第にはっきりとしてきた。


「我聞か。悪い」壁の時計を求めつつ、「今、何時だ」

「二十二時六分五十八秒」

「明石さんは」慌てて立ち上がる。

「明日だろ」

「ああ、そうか。そうだよな」力無く椅子に座り込み、「ここにいるはずないだろ」


 自嘲的に笑った。


「大分、お疲れみたいだな」

「ああ」ため息混じりに答えて天を仰ぐ。「状況は最悪だ、我聞」


 河原時氏が笑って答える。


「見りゃあ分かるよ、逢坂サン」

「そっちはどうだ」


 逢坂氏が尋ね返す。団員が惨殺された事件のことだ。実行犯は既に分かっていた。業者だ。問題は背後で指示した人物の有無だった。


「大本の目星はついた」


 その言葉は現時点でこれ以上どうすることもできないという意味だ。このような言い方をする時の犯人は大方、決まっていた。


「栄さんか」


 河原寺氏は首肯した。


「逢坂サン、あのバカ息子とはいつかケリをつけろよ」

「ああ。だが、今は目の前のことからだ」

「分かってる。こっちのことは任せておいてくれ。ま、ただの留守番だしな」


 逢坂氏は河原寺氏のこの反応に違和感を抱いていた。明石氏の護衛を河原寺氏でなく逢坂氏が担う――それは二人で話し合った上でのことであり、理由も逢坂氏らしい考え方に基づくものではあった。ただ、荒事は本来、河原寺氏の領分だ。彼はこのような決定が下される前にまず反対するのが常だった。ところが今回に限ってすんなりと同意したのだ。


「逢坂サン、どうした」

「あ、ああ、悪い。なんでもない」

「今日は早めに寝ておけよ」河原寺氏がいつも通りに笑ってみせた。


 それから幾らか世間話をして河原寺氏は部屋を出た。静かに閉めた戸の前、後ろ手に掴んだ把手をそっと放す。天井を仰いで呟いた。


「いよいよ本丸、か」


 それぞれの一日が終わり、決着の日は訪れた。

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