③ 送別会、餞別、前時代のとんでもない刑事もの――最後の穏やかな夜
リハイブに戻った私を一足先に観光から帰ってきたウェールスが橘さんと迎えた。
「どこ行ってたのさ」
「散歩だよ」
「もう。遅いよ。お腹空いたよ」
「すまない。思いのほか時間がかかってしまった」
そんなやりとりをしながら、橘さんがほぼ全て用意してくれた食事を四人がけの食卓に運び、送別会は始まった。ウェールスは眼前に並ぶ御馳走に感情豊かに礼を述べると、僅か数日で会得した箸捌きで大皿の唐揚げを取り、口に放り込んだ。幸せそうに咀嚼し飲み下す。その姿を微笑ましく見ながら、いつもの黒い液体を口に流し込む。彼女が不思議そうな顔をして、
「君は食べないの」
「私はこれが食事なんだ」
答えてカップを軽く掲げて見せる。彼女はじっと疑うような眼差しで、
「まさか外で食べてきたんじゃないだろうね。こんな日に」
「そんなまさか」
これが美景ならここで引き退ってくれるのだが、良くも悪くも純真な彼女はそうもいかない。ぱっと何かに気づいたふうな表情になり、心配そうに、
「もしかして調子悪いの」
「少し緊張しているのさ」
私が苦笑いを作って答えると、
「そっか。ごめん。それなら無理して食べない方が良いね」
まったく良くも悪くも純真だと思う。それと。
「大丈夫。君の分は僕が食べるから」
満面の笑みでそう言うあたり、食い意地はやはり張っていた。
「ありがとう」彼女に礼を言ってから、「すみません、橘さん」
私は懐から鍵を出して渡した。橘さんはそれをためつすがめつ眺めながら、
「綺麗に二つに折れたなあ。怪我はなかったかい」
「ええ。それは」
肉じゃがを頬張っていたウェールスが飲み込んでから、
「何したらこんな折れ方するのさ」
「手持ち無沙汰だったから指の体操をしながら歩いていたんだ。ちょうどその時に転けてしまってね。手をついた拍子に」
「君、足腰弱ってるんじゃない」
冷ややかな目で言う。その表情に触発された橘さんが、
「そりゃあいけない、炯ちゃん。長生きの秘訣は歯と手と脚だよ」
「歯と手は大丈夫そうなんです。三分の二でなんとかなりませんか」
「全部大事なんでしょ」
横からウェールスがにべもなく突っぱねると橘さんが愉しそうに笑う。
「なんにせよ。怪我が無くて良かった」
彼女が来てせいぜい十日程度の日々だったにもかかわらず話は弾み、
「美味しいものは止め時が分からなくって怖いね」
と言っているうちに食べ物たちが皿から去って行った。終わりの時だ。橘さんが、
「おお、そうだ。ルーちゃんに渡そうと思っていたものがあるんだ」隣の椅子に置いていた紙袋から一冊の本を取り出した。「餞別だ」
それは橘さん一推しの推理ものだった。ウェールスは笑顔でそれを受け取り、
「ありがとう。あの、ごめんなさい。僕は何も用意してなくて」
そう言い終える頃には辛そうな表情を隠し切れなくなっていた。もっとも、
「いやいや。下宿先が決まってこれから本格的に学府で学ぶんじゃないか。お返しがあるならぜひ出世払いでお願いしたいなあ」
朗らかに笑う橘さんは、彼女の心痛の理由など知るはずもない。
橘さんからの「餞別」は映像化もされた倒叙系の名作で、「取調官」という題名の通りに取調官が犯人を追い詰めて自白させる駆け引きに主軸が置かれている。主人公は痩せぎすの草臥れた中年の男で、「取調べの名手」の異名を持つ。この時点で倫理的に危うい匂いがする。
偶然、その映像化されたものを私は持っていた。本を読破する自信はなくとも、二時間のそれを視聴することはできる。ウェールスはせめて贈られた物語をきちんと確認したいと私の部屋にやってきた。
今回の犯人は女だった。同居していた交際相手を絞殺したのだが、どういうわけか同じく同居していた被害者の娘が自分が殺したと自首をする。この娘は未成年で、この時代の法律では軽微な罰で済まされる。主人公は真犯人に正当な報いを受けさせるべく、自白を迫る。
まず、被害者が娘に性的虐待を加えていたこと、娘と真犯人が親しかったことを突き止めると懐柔策に打って出る。罪を認めれば減刑もあるとチラつかせ、一方で無実の娘に殺人犯の罪を着せるのかと怒鳴りつける。ところが全く通用しない。
次いで、この事件が突発的なものであることに着目し、彼女の目の前で殺害方法を実演してみせ、事件当時の恐怖と動揺を呼び戻すことで自白させようと試みる。これもうまくいかない。一瞬、錯乱しかけた真犯人は、しかし、その一瞬で持ち直した。
――手強いな。
宙を睨み独り言つ。途方に暮れる主人公は真犯人の過去に辿り着く。彼女もまた性的虐待を受けていたのだ。彼女の心の傷を調べ尽くし、取調室に舞い戻る。
狭く無機質な空間、光も十分でなく、時間も分からない。主人公が窓の日除けの隙間に指を入れて押し広げ、外を覗き見る。茜色の夕陽が差した。お茶を持ってきた年配の女性職員がその姿を見て部屋を出ると、扉の前にいた数名の男たちがこぞって訊いてくる。
――どうでした。
それにこの人がため息を一つ吐いて頷けば、お約束と呼ばれる様式化された演出だ。最後の戦い、勝敗はこの時既に決しているのだ。主人公は彼女の前にある机に若い取調官を押し倒し、あの日、彼女が子供だった時、実の父親にされた仕打ちを、彼女の必死の抵抗とその結果を鬼気迫る様子で演じる。すると、場面はあの時に移り変わり、彼女は呼び起こされた記憶で発狂、長い髪を振り乱して絶叫する。
先の女性職員が扉の前で一言、
――落ちたわ。
落ちたわではない。
「うわあ」
ウェールスが小さく声を漏らした。生理的嫌悪と軽蔑、それがあまりにもよく伝わって思わず吹き出してしまった。笑う私に向かって、
「マスターはこれのどこが好きなんだろう。僕には野蛮な話にしか見えないけど」
と、実に正直な感想を述べた。
「私は橘さんではないからそれは分からないが、私も楽しい話だと思うよ」
「えぇ。君はどこが好きなの」
「正しさの移り変わりに考えを巡らすことができる」
「正しさの移り変わり」
「この物語が作られた前時代と今とでは正義観がまるで違う。その違いが随所に散りばめられていただろう」
「そうなの」
「例えば登場人物の描き方。主人公は全き正義の立場であり、うだつの上がらない見た目が内面の高邁さを際立たせるようになっている。一方で犯人の女は自分の罪を暴かれまいと抵抗する悪人だ。主人公とは対照的に彼女や彼女を庇おうとした被害者の娘は、派手な化粧や着崩した服からも挑発的、反抗的で品性の劣った幼稚な人物という印象づけが行われている」
「僕はそれが釈然としなかったんだ。犯人は自分が受けた酷い仕打ちを、今まさに受けている少女を助けようとした。でも、この話の中でそれはあまり触れられてない。ただ犯人を追い詰めるために使われてる」
その感じ方は正しい。彼女の背景は同情を喚起するためというよりは犯行の動機を説明するためのものだ。
「まさに君が抱いた違和感こそが今と昔の違いなんだ。ウェールス、この物語は名作として今に残っている。時代人に支持されていた証だ。もし、当時の人々が君と同じように感じていたなら、果たして今こうして君が観ることはできていただろうか」
「その時の人たちには全く違って見えてたってこと」
「ああ。と言って本当にその通りかは分からない。だが、そう考えて思いを馳せることが楽しいんだ」
ウェールスは手に持った本を見つめながら、
「そっかあ。そういう楽しみ方もあるんだね」
「好きでいることと、無批判に肯定し、称揚することは全く別の行為だよ」
むしろ、瑕を認めてそれを好むことはできても、崇拝することはできない。あるいは、それができないことが崇拝の証明であり、それは対象と無関係に行われる完全に内的な自己陶酔の一形態に過ぎないのかもしれない。
「思うに、この話は勧善懲悪のような感覚で作られたんだろう。君が感じたような葛藤を与えるつもりではなかった。主人公が標榜する正義は絶対の正義、たとえ犯人たちに同情の余地があったとしても、罪は罪というふうにね」
当時、この話がどう受け止められていたか私なりの見解を述べると、
「この物語が生まれた時代の世界はどんなだったんだろうね」
ウェールスが言った。思い巡らす最中の感慨のようで、質問のようにも聞こえた。その言葉に引っ張られるように私も自然と考えていた。それが成り立つとしたら、正義が誰かだけのものであってはならない。万人を守る正義だからこそ万人が守らなければならないという建て付けのはずだ。
「正しさが誰かだけでなく、誰も彼もを守り、救い、癒す。少なくとも、そう信じられた時代だったんだろう」
私も答えとも呟きとも取れる調子で言った。突然、ウェールスがこちらを向いた。
「炯、君は」何をか言いかけて、「ごめん。なんでもない」
それをやめた。ふいに少しの沈黙が訪れた。俯く彼女の表情は暗い。送別会の時にも――思えば蔵書管区から帰ってきてからだ――時折、その顔を見せる瞬間があった。
「学府観光はどうだった」
「楽しかったよ」
「明るく振舞っているが、合間に暗い顔が覗いている」顔を上げた彼女を見つめる。「嫌な思いをしたかい。課長が隣に居れば大丈夫かと踏んだんだが」
「嫌なことは無かったよ」
「だったらどうしたんだ」
「課長さんから色々と話を聞いたんだ。君のこと」
「そんなことでそんな表情になるのか」
「なるよ」
ちょうどその時、戸が叩かれた。「はい」と答えると橘さんが顔を出す。
「お風呂どうするかね」
私はウェールスを見遣り、
「今日はお開きにしよう。お先にどうぞ」
微笑んで促す。彼女は僅かの間、押し黙った。
「分かった。僕、貰います」
そう言って立ち上がる。部屋を出ていく彼女の背中に、
「おやすみ」声をかける。
「おやすみなさい」
振り向いてそう言った表情を見れば、彼女が訊きたがっていることも、それに答える方が都合が良いことも容易に察することができた。
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