② 孤児院、楠木御門、再会、少年時代――幼馴染に託す形見の鍵
今から十年以上前の話だ。ここがまだ開道家領と呼ばれていた頃。C級街の一角に身寄りの居ない非市民の子供たちを受け容れる孤児院があった。母の強い要望で開設された場所で、母に連れられて私もよく訪れた。少年期の私の交友関係はこの場で築かれたと言って良い。
「飛行機って言ってさ、前時代には鋼鉄が空を飛んだらしいよ」
子供の頃の私は単純だった。最近知ったことを引っ提げて仲間のところにやって来ては意気揚々と話した。それは決まって庭のクスノキの下で行われ、聞いている顔ぶれは時々で変わったが、その少女はいつもいた。栗色の髪をした闊達な少女だった。
「そんなわけあるか。鉄の塊をどうやって飛ばすんだよ」
傷を作ったばかりの顔で笑い飛ばす。彼女は私とは対照的に粗暴で喧嘩っ早く、常に生傷が絶えない子供だったが、不思議と気が合った。
「それは、科学」
「急にふわっとしたな」
「どうやってって部分は、追々。取り急ぎ、飛んだという事実だけは伝えたのさ」
苦し紛れに強弁する私にからかい混じりに、
「だったらいつか飛ばし方を教えろよ。そうしたら」勢いよく立ち上がり、「おれが飛ばしてやるよ。飛ばしておまえに見せてやる」
見上げた彼女は夏の終わりの日差しを背にあびて眩しかった。約束とも言えない曖昧な言葉は効力を持つことなく霧消し、私たちは大人になった。彼女は楠木
その大人物が門柱に背中を預けて、木々の向こうに広がる空を眺めていた。獅子の鬣を思わせる勇壮な髪型と凛然とした横顔には粗忽者の面影は無い。が、よく見るとまだ顔に傷跡が残っている。足元に花束が見えた。
「相変わらず律儀だな」
声をかける。誰か来るとは思わなかったらしく、目を丸くしてこちらを見る。さっと視線を逸らし、腕を組む。わざわざ不敵な笑みまで作って、
「久しぶりだな。炯」
楠木
「この前、会った時はこのくらいだった」
掌で太腿くらいの高さを示す。鼻で笑って、
「三年前なら今の高さだ」
「三年ぶりか」
「忘れてただろ」
「まさか。忘れていたら言えないだろう」
「おまえさあ」ため息を一つ吐いて、「まあ、良いか」
「今も時々来るのか」
門の奥で佇む孤児院に視線を移して尋ねる。美景も同じように見つめて、
「当たり前だ。忙しさは理由にならない」
「だったら好い加減、中に入れば良いものを」
「あたしには資格がない。あの日、ここに居なかった」何度も聞いた答えを繰り返す。
「誰も君を責めてない」
「あたしが責めてる」
そう言ってこちらを見る。居心地悪そうな笑顔を見せたら、この話はもうやめてくれの合図だ。
「それよりおまえはどうなんだ。あんまり来てないだろ」
「用も無いのに来るわけないじゃないか」
「大事な場所だろ」
「君は相変わらず察しが悪いな」
「はあ」
やや前のめりになって応じる。それは無視して、
「用が無ければ来ないと言う奴が来たんだ。何の用でとならないか」そう言って手を差し出した。「これを。君に預けに来た」
指先で揺れるそれを覗き込みながら、
「これって」
「ここの保管庫の鍵だ」
ばっと姿勢を戻して、
「バカか、こんなもん受け取れるか。おまえのだよ、これは」
「母のものだ。私のものじゃない」
「だから」
食い下がる彼女の言葉を遮り、
「重要なのは、より安全な所にあることだ。権力を持った個人ほど丈夫な傘はそう無い。私はもう貴族じゃない。君が適任だ」
「必ず戻してやるから」
「無駄なことだ」
「無駄なもんか」
駄々っ子のように言い返してくる。私は言い聞かすように、
「私の身に起きたことは結局、起こるべくして起きたことだ。よし、百歩譲って君のおかげで貴族に返り咲いたとする。もう一度、落伍するだけだ」
「同じことは起きない」
「ああ、同じようなことが起こるだけでね。さあ、君が持っておくんだ」
少しの間、押し黙る。上目遣いでこちらを窺いながら、絞り出すように、
「無理だ」
「そうか。残念だ」
手を引っ込めると鍵をへし折る。狼狽えた美景が止めようと私の手を掴んだ。はずみで鍵が地面に落ちる。
「な、何やってんだ」
「見て分からないか。折ったんだ」
「おま、おまえ」わなわなと震える。
「君に私を責める資格は無い。君が受け取らないと言ったからこうなったんだ」
「こうなったら受け取るったってどうにもならないだろうが」
声を荒らげて掴みかかってきたところで、
「ああ。間違えた。こっちだった」ポケットから鍵を取り出し、顔の前にかざす。「じゃあ、受け取ってくれ」
「おまえ」
恨めしそうに受け取る。二つに割れた鍵を拾い上げながら、
「君の聞き分けが悪いから鍵を一つ失うことになった」
「それ、大丈夫なのか」
「ああ。問題ない」
「まったく。受け取っても私は入れないぞ」
「今じゃなくて良い。いつか自分を許せる時が来たら」
「けっ」悪態をつく。背を向けて歩きだした。
「花を預かるよ。君は中に入れないんだろう」
「まだ帰らねえよ」どさっと門柱に寄りかかる。腕を組み、「最近どうしてる」
「見ての通りさ」
そう答えると、美景は私の頭からつま先まで眺める。はっとして、
「女装に、ハマってる」
「残念だが、これはただの方便だ。素性を隠して生きてるが正解だ」
「そっちかあ。隠せるもんかね」
「意外とね」
美景がやり返してやろうと意地の悪い顔をする。
「開道殿は御乱心としか見えんが」
「得られる効果は同じでは」
「なるほど」愉しそうに笑う。スカートを指差し、「それ、下どうなってんの」
「男物。上に羽織っているだけだ」
「いやあ。てっきり色々あったから。おれはおまえの意思を尊重するけどな」
「どうもありがとう」
嫌味っぽく礼を言って、二人笑った。美景が腕時計を一瞥して、
「まあ。元気そうで良かった」
「君も」
「色々と大変だけどな」肩を竦めて嘆いて見せる。
「と言うと」
「極秘事項だ」
「そうか」
「じゃあこれ。花を頼む」
花を取り上げ、差し出す。受け取りながら、
「分かった。元気で。大変なようだけどね」
「おまえもな」
美景は去っていった。その姿を見えなくなるまで見送って、孤児院に向き直る。孤児院は既に放棄され、今は学府のありふれた廃墟の一つとして時の流れに身を晒している。隙あらば誰かしらが家探しをして目ぼしいものを盗っていくのが常だが、ここには誰も近寄ろうとしない。
昇降口の前に立ち、歪んだ戸の下の方を掴む。持ち上げながら動かすとガラガラと音を立てて開いた。孫に急かされて歩く腰の曲がった老婆を思わせた。労うように軽く叩く。暗い廊下の先に教室がある。あの頃には既に戸を取り払われて、四六時中大口を開けていた。少し背を屈めて中に入ると、窓から差す赤い夕陽が、来るたびに一つ一つ並べてきた机と椅子を、壁際にまだ残るそれらを、照らしていた。
美景の花を夕陽が最も綺麗に映える机の上にそっと置き、黒板に歩み寄る。墨を詰めた皮袋を叩きつけたような、黒々とした大きな血痕があった。触れてそっと覗きこむ。干からびた薄い欠片がこびりついていた。爪を立てて剥がすと、小さな虚しい音を立て、ひらひらと暗い床に落ちた。
割れた窓から風が入り込み、音が鳴る。見上げると、あの日の輪飾りの切れ端が揺れていた。それは醜くなって、今も壁にぶら下がっている。
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