九日目

① クローバー、逢坂の不安、明石前途、学府の歴史――頽廃を退けた藤の粛清

 翌日――予告状が指定していた日――私たちは大家氏の家に集まった。夫妻が二日がかりで殺害される可能性を排除できなかったからだ。しかし、犯人は現れなかった。逢坂氏の見立ては正しかった。標的は大家氏一人だったのだ。そのまま朝を迎えた私たちは、一度、リハイブに戻って仮眠をとり、午後に自警団の根拠地に向かった。


 大家氏は生前、塔が保管していた書物を写本と入れ替え、より安全性の高い蔵書館区の資料館に移管する作業を進めていた。不運にも彼の先見性は証明され、多くの遺産が紛失を免れたわけだが、全てを救えたはずはあるまい。少なくともそれも大きな価値を持っていた塔自体は複製のしようがない。


「我聞には市の方に行ってもらってる」


 逢坂氏は幾分疲労の滲む顔をしていた。廊下、私たちの数歩前を歩く彼と二、三、言葉を交わすが声は暗い。私とウェールスは思わず顔を見合わせた。


 塔は大家氏の財力によって運営されてきた。中央や都市の援助を受けて運営される記念館ではない。そのためこれが焼失しても彼らが主体的に調査をすることはない。あくまで一人の善良な市民が殺され、財産が破壊されたというのが認識の基本的な建て付けとなる。ただ、市にある重要な前時代の遺産が失われたこと、それも非市民の諍いで失われたという事実は受け入れ難い。市が状況の把握に乗り出していた。


 焼失の背景を市に報せたのは栄氏の息子、栄秀秋氏だったようで、いよいよ事件は逢坂氏と自警団を絞め殺す機能を顕にしたように思われた。諸々を考えれば彼の憔悴は全く当然のことだ。むしろそれが滲むほどにしか感じられないことに驚くべきかもしれない。


 部屋に入ってすぐ、彼は次の殺害予告が既に届いていると告げた。自警団の拠点に投げ込まれた大家氏のものと思われる右腕、新たな殺害予告はその腕に括り付けられていた。


「どういうつもりなんだろう」


 ウェールスが首を傾げる。大家氏の殺害がそれを反故にして実行された以上、既に予告の信頼性は地に堕ちた。にもかかわらず、犯人は同じ様式を繰り返している。信じられずとも良いのか、信じさせられる何かがあるのか。そもそも、犯人は意図的に予告を破ったのか、仕方なくか。不可解ではある。だが、私には殺害予告が指名する次の標的の方が問題だった。


「明石前途さき」ぽつりと名前を呟く。

「知ってる人」

「一応ね。貴族だ」

「え。貴族の人が狙われるの」


 驚きの声を上げる。それもそのはず、妙なことだ。自警団の性質を考えれば、貴族は水と油のような間柄にあるはず。また、危険でもある。これまでの二人は市民だったが、貴族となれば犯人もただでは済まない。逢坂氏を破滅させるためにしては過剰だ。


「逢坂さん。この方も支援者の一人ですか」


 内心困惑しつつ尋ねる。ところが当の逢坂氏はこちらの声がまるで聞こえていないようだった。険しい顔で俯き、押し黙っている。私たちと共有していない何かがあると容易に窺い知れた。


「大丈夫」


 心配そうにウェールスが言葉をかける。それに答えず打ち明けたのが、彼の苦悩の本当の内容だった。


「犯人に心当たりがある」


 窓際に立ち、一度ため息を吐いた。私たちと向き直った彼は、窓から差す陽の光に焼かれた炭のように暗く、重苦しい。


「え」そう呟いたウェールスは自覚あったのという顔。恐らくそうではない。

「犯人はフーマニットかもしれない」

「ええっ」


 意を決して告げた言葉にウェールスが反射的に驚く。だが、彼女のあどけない反応は彼には聞こえていないようだ。噛み締めるように言葉を紡ぐ。


「俺はフーマニットに育てられたんだ」


 逢坂氏の話はにわかに信じがたいものだった。彼が子供の頃、西の荒地にフーマニットがいたと言う。緑色の髪をした女性型のフーマニットだったらしい。逢坂氏に「未来」という名を与え、教育を施し、ビットの接種を受けさせたのも彼女だった。髪の色から「クローバー」と名付けたと話す逢坂氏の顔に、その間だけは、身の丈に合わない強がりと狡賢さで着膨れした、在りし日の不器用な少年の面影が香った。だが、すぐに今の翳りが戻ってくる。


「クローバーは俺の元からいなくなった。何度も探したが見つからなくてな。そのすぐ後に栄さんの世話になることになったんだ」一呼吸置いて、「本当はクローバーはいたのかもしれない」

「そのクローバーが犯人だと」

「ああ」


 伏目がちに答えた。逢坂氏の心当たりは、私たちの思い描いていた犯人像とかけ離れており、突飛な印象が拭えない。


「動機は何です」


 尋ねると彼は一度口籠もり、力無い声で、


「明石さんに訊いてくれ。正確に答えてくれるはずだ」


 次に狙われるはずの明石前途氏の名前を挙げた。


 私たちは明石前途氏の屋敷に向かうこととなった。本来、暮らすことのないC級街に居を構えるこの変わり者の貴人に逢坂氏は育ての親であるフーマニット、クローバーの日記を預けていると言う。


「私の知る限り、フーマニットに学府市街の自由な行動が認められたことは今に至るまで一度も無い」

「びっくりだよね」


 もう一方の当事者であるW.S.の副代表、ルーチェ・グラックス・ウェールス氏も驚きを隠せない。ただ、


「君が知らないからと、そのような事実は無かったと考えて良いのかどうか」

「君の疑問は正しいよ。僕、何も聞かされてないから」


 そうだろうとは思うが、そう無垢な笑顔で言われると不憫でならない。


「あったかもしれないわけだ。君も私も知らないだけで。あるいは許可なく滞在していたか」


 最後の一文はウェールスが実にあっけらかんとした調子で否定した。


「それは無いよ。僕たちフーマニットにとって都市は人類が長い歳月をかけて築いた畏ろしい空間なんだ。学府はその頂点みたいな場所だ。許可も無しに足を踏み入れるなんてことはしないよ」


 だとしたら、隣にいるのは幻だろうか。


「それに殺人事件なんて起こしたりしない」力強く頷いて、「うん。絶対にしないよ」


 そう断言する彼女は表情も声も実に明るい。 逢坂氏の話を端から信じていないことの表れだ。


「君の信念に基けば、仮に逢坂氏が出会ったクローバーがフーマニットだとして、彼女はどうなったと思う」

「学府に滞在していたのは何かの任務だったはずだよ。だから団長さんの前からいなくなったのはそれが終わってW.S.に戻ったんじゃないかな」

「クローバーはもうこの街にはいないし、殺人を犯しようもない」

「そういうことさ」

「クローバーの件は支所で確認することにして、これまで通り逢坂氏を恨んでいる支援者の犯行という線で調べていこう」

「うん。なんだかんだしょっちゅうジャンと会ってる気がして癪だけどね」

「目下の懸案は明石氏だな」

「明石さんはどんな人なの」

「教養派の貴族で優れた才覚を持つ女性だ。力のある覚醒者だが、いわゆる求道する貴族でね。最近は藤の粛清についてまとめていると専らの噂だが」

「藤の粛清って。それも関係あるのかな」

「あまりあるとは思いたくないが。藤の粛清は今の学府を確立した、大量虐殺だ」

「えっ。学府でそんなことが起きたの。どうして」


 世界中を飲み込んだ頽廃の潮流は学府もまた襲った。学府が現在の貴族による支配を確立する以前のことだ。自由の時代は蒸発したのではなく、崩れ落ちるように死んでいった。秩序は腐敗し、破綻しながらその弱体を晒し続け、新たな勢力が既存の権威の皮をかぶりながら台頭し、と混沌とした時代だ。頽廃勢力はその新陳代謝の全てを攻撃した。


「学府の歴史が世界史と袂を分かつことになったのは藤清孝という人物が現れたからだ。それまでは各地が経験した頽廃の一類型でしかなかった」


 時期としては人機闘争の趨勢が決した第二次フランキスカ要塞戦の後、W.S.がフーマニットによる平和を本格的に主張し始めたあたりだ。当時、学府は漠然と貴族による支配体制が成立していたが、実態は有力者による血生臭い闘争と均衡状態に過ぎなかった。これらの有力者の大半が頽廃勢力と通じており、彼らは人間性と引き換えに自らの欲望を追求した。そんな時代に藤清孝は登場した。学府貴族の精神的起源と讃えられる、清廉な人格者だった。


「藤は学府の荒廃を克服するために行動した。当初、それは道徳的な態度と実践によって表された」


 この間の彼の代表的な努力として二つの事業が挙げられる。貧者の救済と教育の復興だ。藤は前時代の遺産を守ることの即物的価値を超えた偉大な意義に気づいた初めての人であり、人間性と知恵、その陶冶の重大性を信じた。


「反知性主義運動の話と似てるね。うまく行ったの」

「いや。藤も挫折した」

「同じなんだね。理想は何物にも代えられないけど、それ自体が実際の問題を解決するための手段になるとは限らない」

「まあ、そういうことだろう」


 頽廃勢力と結ぶ守旧派の有力者たちは藤に強い嫌悪と警戒心を抱いた。


「ある時、藤の運営していた施設が何者かによって襲撃された」

「藤さんも殺されたの」

「いや」あまりに残忍な内容であるため言いはしないが、そこで暮らしていた者たちは惨殺され、その中の一人だった子どもの首が藤の屋敷に投げ込まれた。「藤は無事だった。ただ、この一件で暴力を用いる決意をした」


 彼の元には育て上げた覚醒者がいたらしい。現代と違って覚醒能力はほとんど突然変異のようなものと捉えられていた。その数の僅少さも今と比べるべくもない。覚醒の有無がもたらす実力差を考えれば、藤の実行力はならず者たちの比ではなかった。彼は暴力を背景に議会を恫喝し、頽廃勢力に対する一大反攻作戦を認めさせる。舞台となったのは、この都市の西部にあった彼らの広大な居住地――現在、西の荒地と呼ばれる一帯だ。


「藤の粛清は頽廃勢力を文字通り根絶やしにした」

「根絶やし」彼女の表情が暗くなる。

「皆殺しにしたんだ。そこに居たものは一様に」


 かくて西の荒地は生まれた。当時、木々と建物が林立していた地は、空の青を遮るものなど何一つない荒涼とした瓦礫の園と化した。


「そっか」俯いて押し黙る。

「藤の粛清は悪行だった。私はそう思う。だが、当時の学府が頽廃勢力によって人間の死の縁にいたのも事実だ」


 他方で彼らが美徳を嘲笑し、卑劣さと愚昧さを称揚するに至ったのは、放棄運動に共通する富と機会の偏在と固定化――偽りの業績主義によって正当化された実質的属性主義――への熾烈な復讐心が大きな原因だ。


「色々と絡み合ってたんだね」

「確かなことは、藤の粛清が無ければ今という時も無かった。それだけだ」


 この一件で藤は絶大な指導力を獲得した。彼の下で学府の体制が確立され、前時代の遺産は守られた。このような人物だけに彼にまつわるものは多い。藤の粛清が行われた日は記念日となっており、その名も克服記念日だ。この時に活躍した覚醒者を讃えて創られた勲章が緑芽章。こういった一連の決定をした貴族の一派が教養派であり、彼らは藤の支配の継承者を自認している。


「学府の大きな出来事だってことは分かったけど、確かに事件とは関係なさそうだね」


 果たして、どうか。

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