五日目

① 津田の無事、森の毒と死の予見、落ち込むルーチェ――叶子を利用する炯

 しばらく支所でウェールスの経過を観察した方が良いとなり、私たちがリハイブに帰ったのは翌日早朝のことだった。時刻は午前十一時を過ぎたあたり。視線を壁の時計から傍のウェールスに移す。寝台に敷かれた布団から上体を起こし、彼女は少々ぼんやりとした表情をしている。


「そろそろかな」


 私がそう告げると緩慢な動作で体温計を返してくる。硝子の中で伸びた水銀は三十七.五度。状態が落ち着くにつれ、彼女の体は自分に起きたことを発熱として表現し始めた。


「凄いな」

「なんだか釈然としない反応だよ」


 のそのそと横になる。感心する私にウェールスは不本意そうだ。体温計を振って片付けながら、


「この熱が下がれば、とりあえず動けるようにはなるんだろう」

「ジャンが言ってたことが本当ならね」


 とは言え、動けるだけだ。ここからの方針はややこしい。彼女の喪失は避けたい。彼女が回復するまでは犯人の打倒は不可能になる。妨害に徹するよりない。


 と、部屋の戸が叩かれた。橘さんが心配そうに顔を覗かせながら、


「炯ちゃん、お客さん」


 相手は予想できた。課長だ。


「分かりました。今行きます」


 ウェールスには寝ているよう促し、リハイブに向かう。課長は隅のテーブル席に陣取っていた。開口一番、口を尖らせる。


「あの後、本当に大変だったんだから」


 私にその場を丸投げされた課長は、慌てふためく津田さんの妻君をどうにか宥めて彼を家(津田さんは港湾按察に左遷され、その際に中央からこの都市に転居していたとのこと)まで運び、医師を呼んだ。学府随一の家格を持つ彼女だからこそできることだ。


「すみません」

「まあ、いいわ。津田っち無事だったわ。医者が言うにはひどい過労ですって」

「そうですか。良かった」


 無事の言葉に安堵の表情を作りつつ、ここでどう振る舞うかに考えを巡らす。コアの影響を把握し、適切に対処するために津田さんにはW.S.の支所で検査を受けてもらいたい。だが、彼の貴族という地位が持つ形式的な意義や価値は無視できない。他方で今後の行動に目を向ければ、非市民である私とウェールスだけでは難しい局面がある。この二つの困難を緩和するために課長を頼りたいところだ。ある程度の情報を伝える必要がある。しかし、彼女を徒に巻き込み、危険に晒したくはない。どの程度の情報か。こちらは限定するつもりでも相手が訊いてくればどう捌くか。この辺りの加減がウェールスを奥に引っ込ませておいた理由の一つでもある。私が話の切り出し方を思案していると、


「ただ、記憶が混乱しているみたい。前後のことを覚えていないって」

「もう目を覚まされたんですね」


 白の媒介者の性質から考えて、津田さんから手がかりが得られることは無いだろうと思っていた。無事に救出できただけで十二分の成果と言える。課長が余所余所しく周囲に視線を振り撒き、


「あの異人の子は」

「疲れで熱を出してしまって。部屋で寝ています」

「ああ、居るのね。調子が悪かったみたいだけど、大事無いなら良かったわ」

「心配をおかけしました」


 会話が止まる。どうするか。課長が言い出しにくそうに、


「何があったの」伏目がちに力無い声で、「言えないなら無理にとは言わないけど」


 その文言は渡りに船だった。


「津田さんを巻き込んでしまいましたから。言える範囲で良ければ」

「ええ。それで良いわ」


 彼女には珍しい小さくか弱い声は次の言葉で飛んでいく。


「津田さんは何者かにコアを植え付けられたんです」

「へっ。コア」テーブルに身を乗り出し、声を押し殺す。「どういうこと」


 私も彼女と体勢を同じにして声を顰める。


「学府にコアが持ち込まれているんです」

「コアって禁制品でしょ。本当なの。姉さんから何も聞かされてないけど」

「今のところ主に流通しているのが都市の隅と一部の腐敗した下級役人なんです」


 課長に自警団への破壊的な関与をされては困るから、その点は伏せる。


「中央が把握しづらいところね」合点が行ったという表情をして、「だから津田っちは巻き込まれたって言い方なのね」

「おそらく津田さんは何かの事件を追っていたんでしょう」

「港湾按察となれば、ありそうなのは海向こう絡みの犯罪だけど。記憶が無いのが歯痒いわね」

「一度、W.S.で検査を受けてもらいたいのですが」

「私から話してみるわ。心配性のさっちゃんの前で滔々と話してやったら絶対行くわ」


 課長のこういった極悪さは昔から変わっていないようで、思わず笑ってしまう。


「お願いします。ただ、コアのことは」

「なるべく誰にも言わない方が良いんでしょ」


 首肯する。体を起こし、こちらを見上げて様子を窺う課長を見つめる。


「W.S.との関係を鑑みれば、指摘されて学府が簡単に認めることはありません」

「でしょうね」

「認めない以上、W.S.は学府都市で活動できない」

「自明ね」

「そこで、W.S.は彼女を学府に留学者として斡旋したんです」

「ん。彼女って。あの異人の子」

「彼女はコアを追って学府に来た私設探偵なんです」

「私設探偵。そんなものがあるの」


 無い。課長はこんな怪しい話を信じるほど幸福な人でもない。だからこそ、不信感は彼女を介入的にせずにいない。


「津田さんを助けたのは彼女なんです」

「助けたって。コアを植え付けられてたんでしょ。確か、コアを破壊するのは覚醒者でも難しいはず。だからW.S.の専権事項なんでしょう」

「彼女にはそれができるんです」

「あなた、一体、何を」言いかけて飲み込む。言える範囲でないと分かるからだ。「私にできること、ある」

「訪ねたいところがあるんですが、経済人なんです」

「分かった。付き合えば良いのね」


 報告も兼ねて様子を見に部屋に入る。ウェールスはばっと上体を起こして私を迎えた。退屈だったらしい。


「課長さん」

「ご名答」椅子を動かし、彼女の傍に腰掛ける。「調子はどうだい」


 もっとも、大して時間は経っていないのだから変化もなさそうなものではある。彼女は、


「うーん」首を傾げて思案顔をした。自分の中を検められる訳ではあるまい。「熱は下がった気がする」


 体温計で確認すると言うとおりだった。


「凄いな」

「でしょう」


 今回の凄さは彼女としても自慢の凄さのようだ。一度、大きく伸びをして、今からでも動き出したいと言わんばかりに、


「どうしようね」

「今日一日は安静にしてもらうとして」

「ええ」露骨に不満そうな表情をする。

「もし明日も元気だったら動き出すとしよう」


 宥めると一転、悲しげに俯く。


「だってさ。毒が入ってたのって」

「十中八九、森氏の家で食べたものだろうね」


 彼女の心は傷ついているらしかった。無理もない。彼女の森氏への評価は、実に無邪気で素直な好意に満ちていた。彼の彼女への仕打ちは私を不愉快にさせた。


「なんでだろうね」寂しそうに呟く。

「森氏は敵対的な行為に打って出た。少なくとも私たち――私たちの背後にいる自警団に対して悪意を持つ者の一味。犯人側の人物だ」

「側ってことは、犯人は複数人ってこと」

「ああ。彼は共犯だろう。もし彼がコアを宿す主犯なら、毒を盛るなどという迂遠な真似はしないはずだ」

「津田さんのこともあるし。白の媒介者もいるし。一体、誰が何を何のために」


 ウェールスが頭を抱えて「うーん」と唸る。


「犯人像は混乱しているが、動機の見立てが否定されたわけじゃない。君が明日も元気なようなら、森氏を訪ねることにしよう」

「会ってもらえないんじゃないの」言いながら閃いたようだ。「あ、課長さんに頼んだんでしょ」

「ああ」笑みを作って答える。半分の正解だ。


 彼に対して私たちは二つの不利を持っている。一つはウェールスも気づいている、彼が経済人だという点だ。私たちは非市民であり、彼に拒まれれば会おうとするだけで捕まりかねない。毒を盛られたと主張し、根拠に何を持ち出そうと、それらに証拠としての正当性を付与することができない。課長を巻き込むのはそのためだ。私たちは彼に会うことができる。訊くことができる。調べることができる。


 しかし、もう一つ不利がある。それは彼が表面的には自警団に極めて好意的に振る舞ってきたことだ。迂闊に自警団に森氏を糾弾するような振る舞いを取れば、私たちへの印象が悪化しかねない。元貴族の恵まれた人間が恵まれているが故に持っている力を貸しているという彼らにとり本質的に不快な関与をしてきた私と、確かに自警団の恩恵を享受し、金銭的援助をし、情緒的紐帯を築いてきた森氏とでは格が違う。


 課長を巻き込んで突破できるのは一つ目の不利だけだ。それで何かが分かる保証は何処にもない。二つ目は解決しない。生きている限り森氏は自警団に動的に影響を及ぼすことができる。私たちにとって重石になる。一方で森氏が生きていることで抱える危険もある。その間は彼には動く心と口があるのだ。今日は固く閉ざされたそれが明日もそうとは限らない。今日は明日を約束しない。


 私の知る白の媒介者は、森氏を生かす意義と価値を理解できる。しかし、彼女の知る私は、なるほど、課長を巻き込んで事態の打開を図るだろう。森氏は彼女たちの計画に予め役を与えられていたのだろうか。ルーチェ・グラックス・ウェールスという予期せぬ登場人物による突然の配役ではなかったか。彼女は、犯人は、森氏を信じられるのか。今日一日、森氏は一人だ。彼をどうするか。その処遇は、この一連の計画の品質を仄めかすことになる。生かすか、殺すか。だが、私には直感があった。


――彼は、この一日で死ぬだろう。

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