② 炯の昔話、前時代の特撮ヒーロー、マグヌス――戦いの合間の穏やかな一日

 この数日の緊張から切り離された、穏やかな一日も終わりを迎えようとしている。カウンターテーブルに置かれた珈琲を僭称する謎の液体をそっと口に含む。向かいで橘さんが食器を洗っている。水の音、陶器と陶器がぶつかる小さな音色だけが店内にそっと響いている。この三年、貴族の地位を失ってからの私の夕時はこの場、この音、窓から差す橙の光だった。もっとも、その光は今は無い。というのは、


「避けてっ」


 背後から悲痛な声が聞こえた。ちらと見上げると、橘さんが実に穏やかな笑みで彼女を見守っている。ウェールスは四人がけのテーブルに夕食を並べて、白い漆喰の壁に映した前時代の娯楽映画を食い入るように観ていた。窓からの光は見づらくなるためカーテンで遮られているのだ。


 マグヌス巨大ヒーローもの――特撮作品と呼ばれる作品群の中でも、身長が五十メートル近くある巨大な戦士がこれまた巨大な敵と戦う話だ。広義では、中心的な登場人物(あるいは生物)が巨大であれば全てマグヌスものだが、狭義には、というより実際的には、一つの作品とそれに連なる作品集をのみマグヌスものと呼ぶ。主人公は巨大な異星人で、普段は人の姿だが窮地に陥ると本来の姿に変身して戦うというのが基本形だ。


 彼女が見ているのは狭義のマグヌスもの。その三作品めだ。


「ねえ。少し話さない」


 出し抜けに彼女がそんなことを言い出したのは、少し遅めの昼食後だった。食器を引き上げようとしたのを羽織の裾を掴まれた。振り返るとじっと私を見つめ、同情心を刺激する表情をしている。つまるところ、


「飽きたのか」

「そう」


 ぱっと裾を放し、笑う。食器の片付けだけ済ませて彼女の部屋に戻り、傍の椅子に腰掛ける。


「話すと言って何を話したものか」


 暇つぶしの世間話をするにも私と彼女は前提をほとんど共有していない。自分たちの外に話題を求めることも、相手の中にそれを求めることも難しい。自由というのは間合いが問われる。それを選ぶ者の品性も。こういう時つくづく思う。


「君は何かしてたの」ウェールスは無邪気に訊いてきた。

「頼まれものがあってね。前時代の娯楽小説の現代語訳なんだが」


 百年以上も経てば文法も変化し、馴染みの無い単語や用語も出てくる。話を理解する上で当時の知識が求められることもある。それらを適宜修正し、必要な注釈を加える作業だ。


「そうなの。じゃあ邪魔しちゃまずかった」すまなそうに問うてきた。

「いや。別に締切がはっきり決まったようなものではないんだ。何かやることがあった方が良いだろうというような親切心から来たものだから」


 私の説明を聞いた彼女は驚いて、


「じゃあ、報酬とか無いの」

「まさか。ちゃんとやれば貰えるよ」

「良かった。タダ働きさせられてるのかと思ったよ。君、人が好さそうだから」

「そうだろうか」

「そうだよ。今だってほら、暇だって言ったら僕に付き合ってくれてる」


 非難はしばしばその対象でなく、当人の性質をこそ物語るらしい。


「君は今その人好しを利用しているわけだ」可笑しくて笑うと、

「う。僕は感謝してるよ」気恥ずかしそうに、「ありがとう」

「どういたしまして。と言って私も君を頼っているんだ。利用しているのと同じさ」

「お互い様だね」彼女は胸を張って言った。

「ああ」思い出したように尋ねる。「体は」

「もうすっかり元気だよ」

「そうか。良かった」

「心配性だなあ」楽しそうに言う。


――おまえは心配性だな。


 ふいに昔を思い出す。あの時も同じことを言われた。流行り病を退けたばかりの疲れ切った顔で、同じようにはにかみながら。


「子供の頃に似たようなことがあったな」


 私にとっては何の気ない発言だったが、彼女は目を輝かせて、


「そっか。君には子供の頃があるんだね」羨望の眼差しを真っ直ぐに向ける。「どんな子供だったの。君が子供だった頃の話が聞きたい」


 それで失敗したと思った。私の人生には惨めな話ばかりが横たわっている。しかし、彼女の純粋な心根を傷つけたくもない。必死に表情を崩さぬまま方法を考え、思いついたのが、


「ちょっと待っててくれ」

「どうしたの」


 前時代に愛され、今も一部に熱烈な愛好家を持つ特撮作品。マグヌスものを彼女に見せようという案だった。それは子供の頃の私にとって、確かに大切なものだった。


 物置になっている部屋から小さな画面を持つ箱を運び込み、それに私が持っている記録媒体を繋ぐ。すると、そこに操作画面が映った。


「すごい。骨董品が動いてる」ウェールスが感嘆の声を漏らす。「僕、学府に来たんだ」


 記録媒体には複数のボタンがあり、それを指先で叩いたり撫でたりすると、画面が対応した動きを見せる。


「おお」


 何を選択しているのかを示す青い帯が上下左右に動くたびにウェールスが喜ぶ。


 この作品は現存が確認されている限りで全四十話。私が持っているのはそのうちの十八話ほど。私は逡巡した。最初から見てもいい。もちろん良い。が、時間は限られており、彼女の興味がどこまでのものかも定かでない。最も魅力的な話を一つ上手くいって二つ見て、私が捕捉的に説明するのが巧妙か。傲慢だということは分かる。しかし、第一話は「来た、見た、勝った」と言われるほど戦闘が薄味だ――。


 彼女は愛好家の独善的な勧めに従って、最終回の前後編から見始めた。


 映像には音が無い。画質も荒い。市民の娯楽として複製、販売が認められたものだからだ。本来、前時代の文化遺産は収蔵する蔵書館から持ち出すことが許可されていない。蔵書館区に立ち入ることができるのは貴族と貴族の紹介状を持つ者のみ、市民以下の階級の者には触れる機会すらない。だが、それだけではその価値を知らしめることも叶わず、影響力も貴族の望むほど大きくはなるまい。そこで一部の複製が市井に流通することを許容し、蔵書館区の価値とそれを守護する自分たちの支配の正当性を誇示するわけだ。


 前後編二話を見終わった彼女は、


「子供の頃の君はこの物語のどこが好きだったの」


 と、私に尋ねた。彼女の興味を引くことができなかったらしい。私は少々の落胆と、落胆を覚える自分に幾らかの嫌悪を抱き、全体としてはそれらを飲み込みながら、


「世界観と言えば良いのか。巨大な異星人の主人公と物語の辿り着く雰囲気、かな」


 主人公は地球人でないから多くの点で違いを抱える。同じものも異なって見えるし、感じられもする。能力の上でもできることとできないことが違う。それが力になって誰かを守ったり、略奪者を退けたりする。自分たちが何者であって何者でないのか。それを受け止め、互いが互いを活かしながら戦っていく。最後、主人公は人類の元を去っていくが、別れは和解的で共存を予感させるものだ。


 そのようなことを掻い摘んで説明した。子供の頃の素直な期待は必然的に私を陰鬱にさせた。苦笑しながら、


「こんなふうだったら良いと思ったんだ」


 彼女はじっと私を見つめて話を聞いていた。はっと我に帰ると、


「良いね」


 きらきらとした笑顔で言った。全く、慣れないことはやるものでない。


 そうして今に至っている。どういうわけか彼女は続きを見たいと言い出した。最初に戻ってそこから途中までを観るという変則的な視聴になったが、


「最終回から観るなんて楽しみ方して良いんだね。僕、最初から観なくちゃいけないとか、最後まで観なくちゃいけないとか、正しい手順を踏まないとって思ってた」


 ありがたいことに彼女は好意的だった。私としては恥をかいたが、彼女の興味を引くことができたから多少の利得はあったわけだ。


「同好の士が増えそうだね」橘さんが小さな声で話しかけてきた。

「そうでしょうか」


 後ろを見る。彼女が夕食そっちのけで映像を見つめていた。ちょうど主人公が巨人に変身し、怪物との戦闘が始まったところだ。


「あの字幕、炯ちゃんの仕事だったっけ」

「仕事というほどのものでは。学生の頃に好きでやったことです」

「ルーちゃんには言ったのかい」

「まさか。苦情は受け付けていませんから」


 言って立ち上がり、白磁のカップとソーサーを持って彼女の横に座る。主人公の放った武器が怪物の首を刎ねた。彼の必殺技の一つだ。


「勝ったね」鶏の照り焼きを口に放り込む。

「そう思うだろう」


 落とされた首が動き出し、飛来して主人公の肩に喰らいついた。この獣の牙には猛毒がある。彼は勝利するものの深い傷を負うことになる。


「これが最終回で響くわけだ」


 最終回は傷ついた主人公の最後の戦いとなる。度重なる戦いで消耗していたために彼は苦境に陥るのだが、この一件は原因の一つに挙げられる。


 程なくして話が終わった。ウェールスが壁に映った静止画を見つめながら、


「子ども向けの娯楽作品だけど、学びがあるよね」

「と言うと」

「毒って怖いね」


 それはあまりに実感のこもった感想だった。私は笑いながら、


「そこが学びになるのは君くらいだろう」壁の時計に視線を向けつつ、「続きは今度にしよう」


 彼女もつられて時計を確かめ、


「うわ、もうこんな時間なの」気まずそうな笑顔を作って、「今度にするよ」

「分かった」


 私が機材を片付ける傍で彼女が急いで夕食を口に詰め込んでいく。


「ゆっくりよく噛んで食べた方が良い」


 心地の良い賑やかさが、暗い日常にそっとい色を差していた。

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