② 森盛男、学府精神の機微、栄秀平の親心――空腹に負けたルーチェ

「大丈夫」


 ウェールスが心配そうに尋ねてくる。


「これでも覚醒者だからね。殴られたと言っても見かけだけさ。痛手は無い」

「覚醒者なら避けるくらいできたでしょ」

「人は小さな罪を押し付け合って生きるものだ。今回、彼は妻にそれを押し付けられ、その一部を私が受け取った。話を聞かせてもらった礼に殴られるくらいのことはした、というわけさ」

「感心しないよ」

「その方が良い」

「まったくもう」

「彼から得られた情報は有益だ」

「団長さん、結構悪どいことやってたんだね」

「そうでもしなければ今の彼も自警団も存在しなかっただろう。まあ、それで恨まれては世話は無いという君の言い分も分かる」


 ウェールスは不服そうに私を見上げて、


「まだ何も言ってないけど」ふいっと前を向き、「そう言うつもりだったけど」

「君は素直で分かり良いな。美徳だと思う」

「バカにして。これで自警団への攻撃に栄さんを殺すっていう構図があり得る人たちが見えてきたね」

「ああ。これを踏まえて次が最後だ」

「どんな人なんだろうね」


 森盛男氏、暦に跡が残っていた人物だ。逢坂氏の話では、森氏だけは私たちの訪問を快諾したそうだ。今日、唯一まともに話が訊ける相手になるだろう。


「ウェールスさん。これから森氏を訪ねる前に一つ約束して欲しいことがあるんだ」


 そう切り出した私に彼女はきょとんとした顔で首を傾げた。


「なに」

「おそらく私たちは森氏の家に上がることになる。その際、もしかしたら飲み物や食べ物が出されるかもしれない。それらに絶対に口をつけないでくれ」

「え。それは良いけど。でも、なんで。僕たちの訪問を歓迎してくれてるんでしょ。親切で出してもらったものを疑うなんて失礼にならない」


 と、海向こうから来た者らしい素朴な疑問が投げかけられた。


「学府の風習みたいなものでね。まあ、素直に考えれば君の言う通りだが、学府の精神は素直じゃないのさ」


 この習慣の出処は貴族階級なのだが、頽廃期の中で相互不信を抱えながら権力闘争を繰り広げてきた彼らにとって、いかなる相手も自分と利害の不一致を抱える葛藤関係にあった。その中で疑うことが相手を一人前と認める行為だと見做されるようになり、今では疑い方のいくつかが社交上の様式となっている。


「何かが与えられた時には必ず与えた者の思惑がある」


 学府貴族がよく聞かされる言葉を諳んじる。


「なるほど」彼女はお腹をさすりながら、「うう。できる限りは頑張るけど、ここまで結構歩いたし、お腹空いたし、喉乾いたし、あんまり長いと食べちゃうよ」


 彼女は体躯こそ十七、八歳。長身の早熟な女性というくらいだが、言動は時に幼さが覗く。私は苦笑いを浮かべながら、


「分かった。なるべく手早く話を終わらせよう」

「よし。じゃあ急ごう」言って駆け出す。

「走ると余計にお腹が空くんじゃないのか」

「少しは減るけどさ」こちらを振り返って答え、また先を急ぐ。

「仕方ないな」


 私も彼女の後を追うべく久しぶりに地面を強く蹴り、


「大丈夫」


 思い切り転んだ。


「気にしないでくれ」

「君、歳いくつなの」

「確か二十四とかだったが」

「ええ。まだ若いのに」


 瀝青で身体能力を強化すれば支障はない。そう言おうとしたが、彼女の私への印象が悪化する以外に無いから止めた。


 森氏は中肉中背のどこにでもいる温厚そうな中年の男性だった。私たちを家に上げ、上等な絨毯に置かれた柔らかなソファーを勧めた。


「妻を亡くしてしまってね」


 台所から彼の低く落ち着いた声が響く。お盆を持って来ながら、


「人と家で話すのも久しぶりだ。片付けが行き届いていないが、目をつぶってくれ」


 居間は徒に華美ではないが趣味が伝わる調度で統一されており、裕福な暮らしぶりが見て取れた。森氏は随分やつれているようで、肩の位置の合わない服が部屋の気分とちぐはぐな印象を与えた。


「大変な時にお伺いして申し訳ありません。お構いなく」


 テーブルに陶製の食器が並べられていく。断りを入れる私の横でウェールスが目の前に現れた紅茶とお菓子に「うわあ」と小声で感激しているのが聞こえた。


 森氏は対面の椅子に腰かけて、


「栄さんだね。正直、動揺してるよ。世間では栄技研の金持ちだってくらいだろうが、篤実な宗教家でもあってね。あの人なら良いことをやってくれるという信頼は多くの者が持っていたと思うよ。まだ多くのことがやれた、やるべき人だった」

「栄氏とは親しかったのですか」

「元々仲良くしてもらっていたが、妻を亡くしてからは特に。世話焼きな人で、見合い話を持ってきてくれたよ。気持ちに区切りがつかないと断ったら、区切りなんてものはつくのを待っていても塞ぎ込むばっかりだ、新しい相手と幸せに暮らしていれば後からついてくる、と言われてね。忘れたって構いやしないじゃないか、なんて相手によっちゃあ掴みかかりそうなもんだが、栄さんの言うことならと思わせる不思議な魅力があったね」


 森氏は太ももの上で組んだ指をじっと見つめながら話していた。


「栄氏は他の方にも見合い話を」

「ああ。私の知っているだけでも何人かには」

「それは」私が赤の名簿の人物の名前を挙げると、彼は驚いた表情で、

「そうだそうだ。よく調べてるな。私が知っているのはそいつらだ」

「全員ですか」

「ああ。そうだよ」

「言葉尻を捕らえるようで恐縮ですが、そいつらということはご友人ですか」

「いやあ。そこまで仲が良いというわけではないが、まあ、話の分かるやつらだね」

「その方々の中で覚醒能力に秀でた方はいらっしゃいますか」

「それは分からないな。まあ、私に無いことだけは確かだが。ちょっとの力があればと思うよ」


 話を自警団との関係に移す。


「自警団の支援者になられたのも栄さんに誘われたからですか」

「ああ。そうなんだ。最初は渋々だったが、今となっては良かったよ。逢坂君はさすがに栄さんのところで育っただけある。志と熱意を持った若者だ。こんなふうに支援者と自警団の間に楔を打ち込むようなことが起きた時こそ支えなければ」

「最後に。犯人に心当たりはありますか」

「自警団を目の敵にしている連中はいくらだっているが、それで栄さんを殺すというのは。想像もつかないな。自警団に徹底的に叩きのめされて潰されるって時に栄さんに泣きついて間を取り持ってもらった者も多い。栄さんは重石だったんだよ」

「ありがとうございます」


 森氏から聞ける話はこれくらいだろう。好い加減、ウェールスが目の前の軽食に手を出しかねない。


「こんなことくらいしか話せないが」森氏は私の隣に顔を向け、「美味しかったかい、異人のお嬢さん」

「美味しかったです」


 言われて私はウェールスの前の器を見た。お菓子が無い。彼女を見遣る。目線を逸らし、気まずそうに小さな声で、


「食べちゃった」


 違和感を覚えてテーブルに視線を戻す。紅茶も無い。彼女を再び見遣る。


「飲んじゃった」


 間に合わなかったか。


「申し訳ありません」


 私はバツが悪い思いで謝り、森氏は困ったような苦笑いを浮かべて、


「いやいや。気にしないでくれ。君もどうだ」

「いえ。お気持ちだけで。ありがとうございます」

「ごちそうさまでした」


 ウェールスは満足気だ。私は何度か頭を下げ、彼女と共に森氏の家を辞した。

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