⑤ 炯、ルーチェ、橘、ハンス――始まる新たな日常
通り雨かと思われたものは、暗い夜の空が気に入ったのか、今も居座り続けている。雨が時折窓を叩き、秒針が時を刻む。橙色の電灯の下、三人の人影があった。
「ルーチェ・グラックス・ウェールスです」
フーマニットの少女が名を名乗った。明るい笑顔がよく似合う。品の良い余韻を豊かに響かす澄んだ声は、ただの名乗りにすら価値を与えるものかと呆れるほどだ。帰り道に雨に降られた私たちは、風呂に入るなり着替えるなり部屋の案内をされるなりと、滞在の事実が先行してからの自己紹介となった。
「ここの店主をやっている橘だ。よろしくウェールスさん。道中、無事だったかね」
誰に対しても物腰が柔らかく紳士的な橘さんが、いつにもまして紳士をしている。
「おかげさまでなんとか」
ウェールスは苦笑いを浮かべながら答えた。
「彼女は膂力もなかなかです。特技は肘打ちだったかな」
私がにこやかに言うと彼女の瞳がすっと逃げた。
「ごめんってば」
外の喧騒から事情を察した私は、礼拝堂に飛び込んできた彼女を抱えて姿を消す技を用いた。ところが突然のことに驚いた彼女から鳩尾に痛打を受け。あやうく「静かに」と言ったこちらが声を上げそうになった。
「実に痛かった。君の良心が同程度痛むことを願わずにいない」
「君、根に持つね」
「残念ながらね」
橘さんが噴き出す。普段、なかなか見ることのない満面の笑みで、
「ウェールスさん、お腹は空いてないかね。なんだったら夕食を温めるが」
「良いんですか。ありがとう、マスター」
ウェールスはパッと目を輝かせた。感情の豊かな少女だ。
「マスター」
そう呼ばれたいのであろう恰好で店に立ちながら、大多数から茶屋のおやじと呼ばれてきた橘さんは、嬉しそうに支度にとりかかった。その背中に、
「服、大切な物なのに濡らしてしまって。すみません」
「気にすることはない。濡れることだってあるさ」
事情を知らないウェールスが不思議そうに問うてくる。
「君が着ていた服って大切な物なの」
「女物はね。橘さんの亡くなった奥さんのものなんだ」
「燃やしそこなったのさ。役立ててもらった方が良い」背中越しに橘さんが付け加えた。肩を竦めて、「棄てたらバチが当たりそうだからね」
穏やかな声で話す。微笑ましく感じられた。と、ウェールスがじっとこちらを見ているのに気づいた。
「どうかしたかい」
尋ねるとふいっと前を向いて、
「またの機会で良いです」
「そうか」
「お待ちどうさま」
橘さんがカウンターテーブルに夕食を並べていく。ウェールスは目で追いながら、
「わあっ」
感嘆の声を上げた。彼女の鮮やかな反応に橘さんの方がやや気後れして、
「ただの残り物だが」少し照れの差す笑顔で言う。
彼女の前の美味しそうな匂いが隣の私まで迫ってきた。私は席を立ち、店の隅で伏せているハンスの傍に歩み寄る。
「君は食べないの」
「ああ、私は良い」
大きな犬の豊富な白い毛を手で梳きながら答える。会話に割って入るように橘さんが、
「ウェールスさんの専攻はなんだね」
学府に来る異人と言えば留学者だ。橘さんにウェールスの素性は話せないから、この手の質問は避けられない課題となる。これには彼女も用意があったようで、
「前時代の大衆の娯楽と芸術です」
それを聞いた橘さんが私に視線を向けて、
「だったら炯ちゃんの専門じゃないか」
「そうなの」釣られてウェールスも私を見る。
「炯ちゃんはその手の現代語訳だとか論文だとか書いてたんじゃなかったかね」
「そうなの」
驚きと憧憬を含んだ調子で同じ言葉を繰り返す。先ほど橘さんが味わった気後れを私も味わうことになった。
「十代の、学生の頃の話だよ」苦笑いで答えて続ける。「ウェールスさん、食事が冷めるよ」
「あ、そうだ。いただきます」思い出したように食事と向き直り、食べ始める。「マスター、これ美味しいよ」
「それは良かった」
手放しに誉められ破顔する橘さん。二人はカウンターを挟んで会話を弾ませる。私は明かりが届かぬ暗がりでハンスを撫でながら彼女の横顔を眺めた。少女は深みのある艶やかな赤髪と煌めく琥珀色の瞳が素晴らしく、絶勝の夕焼けを一身に宿しているように思われた。
「このお店の名前は何からつけたんですか」
「海向こうの言葉で再生とか復活って意味だよ」
「リバイブってこと。濁点が足りないよ」
「言葉すら壊れたところから復活するのさ」
私も昔にした問いを彼女もした。橘さんはあの時と違って円滑に答える。まるで用意があったかのようだ。
過ぎ去った夏に背を向けて、秋を見る姿が様になる頃。私の前に現れたその少女は、まだ夏を引っ提げていた。
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