④ 学府とワァルドステイト、人機の葛藤――夜の街を激走するルーチェと人攫い

 私が待つと待ちぼうけるの境界を考え始めた頃。当の待ち人、もといフーマニットの少女は、


「なんで。ねえ、なんで」


 狭く暗い路地裏を目尻に涙をためながら走っていた。


「待て」


 粘着質な脂と汗の臭いをぼろの服と体の隙間から放ちながら、業者の男たちが追いかけてくる。


 話し合いは予定通り物別れで終わり、帰りの車中。彼女は冷たいソーダを思い切りよく飲んだ。


「ぷはっ。あぁ、針の筵。たまんないよ」


 張り詰めた糸がようやく緩んだところだ。道中、何度か検問があり、乗組員の人数を確認されていた。その最後を通過した。


「ルーチェ、ご苦労様です」


 支所の受付にいたフーマニットが、バックミラー越しに笑いかける。彼女が運転係兼随行員だった。車は自動運転だから、運転はふりだが。少女の傍らに転がる円筒状の機械からジャヌアリィの声がする。


「ルーチェ。すまないが、寛いでいる時間はない。準備をしてくれ」

「分かってるよ」


 ソーダの缶をテーブルに置き、むすっとした表情で昔の姿を再現した変装を解く。再び缶を取ろうとしたところを、


「資料の確認」

「うう」


 不満を唸り声で表現しつつ、黒く硝子のように薄い板を取り上げる。たちまち板に情報が表示された。紙をめくるように指を滑らせ、次へ次へとページを進めていく。目を通しながら、


「護衛も監視もつけないなんて分からないなあ」


 学府は会場までの道と車両の数を指定しただけで、彼女たちを迎えることも送ることもしなかった。たった一台の車で走っているのはそのためだ。何か起きたらどうする気なのだろうと何かする気でいるからこそ不思議だった。


「彼らは人類とフーマニットの非対称性に拘泥しているんだ」


 ジャヌアリィは簡潔に理由を告げた後、自身の見解を詳しく述べた。


「今の主流派である教養派の貴族に特に顕著な態度でね。自分たちの偏狭なセンチメントに基づく教条主義的世界観で物を見る」

「ふうん」


 ジャヌアリィにはある学府への彼なりの評価を評価できるだけの何かを、自分が持っていないことだけは理解できた彼女は、漠とした反応を示して続ける。


「まあ、おかげでこの作戦ができるわけだけど」

「学府貴族は想像以上に一枚岩ではなかったようだね」

「そっか」


 少女は窓から外を見た。景色が滑るように流れていく。その早さは彼女がこの都市に放り出される時が目前に迫っていることを否応なく報せる。


 手元に視線を戻し、画面を指で撫でる。男の写真が表示された。現地の協力者だ。毛先を紫に染めた長い黒髪と浅黒い肌をしている。緩やかに波を打つ髪から目を離すと男がカーディガンと長いスカートを纏っていると気づく。一方で目深に被る鍔広の帽子と重い前髪が両目を隠し、口元は静まり返っているから表情が分からない。また指を画面の上で滑らす。別の写真だ。いつ撮ったのか男の髪は短く女装もしていない。金の腕輪が輝く左手を口元に添え、ダブルブリッジの眼鏡の奥で銀色の瞳が一点を見つめている。


 彼女は男の目をじっと見つめたまま、手だけ伸ばしてテーブルの上のソーダを探した。二、三度パタパタと音を立てると諦めてそろそろと引っ込める。


「ルーチェ」


 ジャヌアリィの呆れ気味に急かす声ではっとして、


「変わった出で立ちの人だね。どうしてだろう」


 端末からため息が聞こえ、


「折を見て訊いてみると良い。ただし、失礼の無いようにね」

「分かってるよ」

「そろそろ指定された地点です」


 運転係のフーマニットが告げる。少女は残りの資料を指と目で餅を搗くような軽快すぎる動きで流し読みし、最後に板を持つ指先に力を込めた。板は一瞬、真っ赤になると、たちまち消滅した。情報子を破壊し、瀝青化したのだ。


 リュックサックを背負い、ソーダを飲み干す。


「いつでも行けるよ」

「あの建物です。あれの正面を通るタイミングで攻撃が来ます。直前に脱出を」


 運転係が指差す。少女はフロントガラスを覗き込むようにして確かめる。


「使用される武器は古典的なものばかりだが、君は万一がある。くれぐれも」

「分かってる。気を付けるよ」


 ジャヌアリィの言葉を遮る。運転席から笑い声が上がった。


「あなたのことが心配なんです。ありがとうくらい言ってあげてください」

「ありがとう」不服そうに言うと運転係を気遣う。「君も気を付けて」


 もっとも、彼女は最新型のフーマニットだ。火器程度では傷一つ付かない。


「ありがとう、ルーチェ」


 車が緩やかに速度を落とす。少女はドアの把手をぐっと握った。車の鼻先が建物の端の線を越える。「幸運を」運転係の声と同時に少女は車を飛び降りた。


 路地裏に飛び込んだ直後。けたたましい銃声が鳴り、車が爆発した。震えた空気が彼女の体を飲み込んで追い越す。上半身だけで振り向き、


「殺意が高い」


 呆れ顔で呟く。前を向き直り、暗い路地裏の先で広がる濃い藍色の空を仰ぐ。両目が自ずと星を探した。かぶりを振って歩き始める。ふいに、


(僕は何も分かっていない。自分が何に怒り、悲しみ。何を愛するのかも)


 そんなことを考えた。


 ここまでは、良かったわけだが。そこから大して時を置かず、


「へへ、へへ」


 男たちと遭遇したことで今に至っている。


「こんな万一聞いてないよ」


 息せき切らせて走る。男たちは先ほどの角でまいた。しかし、地の利は彼らにある。見つかる前にと救いを求める心地で礼拝堂に駆け込んだ。勢いよく開けた扉を、音を立てないようにそっと閉め、深呼吸する。


「危なかった」


 その時。後ろから腕が伸びた。抱き締められ、口を手で力強く覆われる。


「逃げ込むならここしかねえよなあ」


 言いながら、壁に空いた穴から男たちが現れた。

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