③ 按察官砂上叶子――かつての上司との再会と迫るルーチェ潜入作戦
大家氏の塔での話し合いを終えても今日はまだ終わりではない。むしろ、ここからが本来の予定だ。W.S.の副代表が学府に潜入を試みる。ルーチェ・グラックス・ウェールスという名を与えられたフーマニットの少女だ。彼女を迎えに行かねばならない。まさか、フーマニットの不法滞在の片棒を担ぐことになるとは思わなかった。予定の時刻には幾分早いが、不測の事態を考慮して行動した方が良いだろう。
南のD級街と太い旧幹線道路を挟んで北にC級街がある。その北東に佇む放棄されて久しい礼拝堂が彼女との合流地点だった。
それにしても。縁のある場所だと思う。扉を盗まれて茫然と立ち尽くす門柱を通り、やせ細った戸を開ける。屋根に大きな穴の開いた礼拝堂は、先日の雨を浴びて、濡れた木の臭いと湿った空気を孕んでいた。壁や床の隙間には濃い緑が巣食い、今は夕の赤い日差しが差し込む光景は、空しさと穏やかさが同居して度し難い。その陽光に照らされて、場の雰囲気とまるで相容れない先客が長椅子に腰かけていた。
砂上叶子――屈強な自警団員をして大女と言わしめ、この場の陰湿さをも退ける光輝を放つ彼女は、貴族の中でも最上級の家格である石田家の分家筋、砂上家の令嬢であり、学府にあって最も恵まれた肉体を持つ者の一人と讃えられる女性だ。
私は通路を隔てて真横の長椅子に座った。栄氏の屋敷に現れたのが数年ぶりの再会だ。昔から好んで短めだった黒髪はあの頃よりも伸びていた。彼女は前を見つめたまま、
「なんとなくここに来る気がしてたわ」
「さすがですね」
明るい声で返すと気まずそうに私を一瞥した。伏し目がちに、
「お久しぶりね、開道君」
「ご無沙汰してます、課長」
彼女は按察官時代の私の上司だった。私としては半分の渡りに船だ。明日にも連絡して栄氏の屋敷の件で話をつけようと思っていたからだ。もう半分はこの後の予定に支障が出るということにある。
「実は折り入って」切り出した私の言葉を遮るように、
「栄の屋敷でしょ。あの油濃いめ陰険金満野郎は締め出したわ。今は私の手勢に見張らせてる。好きに調べて良いわよ。あなたのこと通せと言っておいたから」
「良いんですか」
思わず上体を彼女の方に向けて尋ねる。課長は私を見返し、
「邪魔して欲しいの」きょとんとした顔で答えた。
「そういうわけではないですが」
私が苦笑いを浮かべて困ると、白い手袋をはめた手を口元に添えて笑う。
「でしょう。私はあなたを信じてる」と言って、またすぐに表情を曇らせる。「こんなこと言えた義理じゃないけど」
前を向き直り、小さな声でそう続けた。私も姿勢を戻す。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。さて」立ち上がる。「もう行くわ」
「もしかしたら連絡するかもしれません」
「いつでもどうぞ。あの部屋の番号、変わってないから」
「分かりました」
「じゃあね」
歩き出す。数歩先でふいに足音が消えた。不思議に思って振り返ると、彼女が一度、深呼吸したのが分かった。
「もし、あの日のこと許す気になったら。今、何をしてるか教えて頂戴」
「私は何も」彼女の背中に言葉を返すが、
「待ってるから。それじゃ」
課長はそれだけ言って足早に礼拝堂を去っていった。戸が軋む、悲鳴のような音が鳴り、消えた。私は背もたれに体を預け、斜め上を仰いで目を閉じた。草が擦れ合う音が聞こえる。穴は天井だけでなく壁にも床にもあった。亀裂は無数の蛇のようにこの体を締め上げている。礼拝堂はただただ失われ方を探していた。
「あの日のこと、か」
ふっと風が吹き、彼女が残した香水の匂いがした。青い、水気のある甘い香りだった。
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