第9話 09 哨戒作戦第一日目 工兵隊と歌、そして、嫉妬

 工兵隊の陣営地はその未伐採の森の向こう側に設けられていた。一個小隊30名の正規の人数で換算して三個中隊、総勢300名ほどはいるだろうか。指揮官は大隊長クラスか。すると、少佐級かな、などと考えているうちに陣営地の前に着いた。ヤヨイの小隊の野営地よりはるかに大規模に、太い樹木を並べた高い柵と頑丈な扉を備え6、7メートルはある高い監視哨がいくつも立ち並ぶ本格的な陣営地だ。工兵隊という「本職」の作った陣営地だから当然と言えば当然か。

「止まれ!」

 陣営地の前でレオン少尉が叫んだ。

「皆はここで小休止。ジョー、ヤヨイ。一緒についてこい!」

 ジョーに促され、少尉と共に陣営地の門をくぐった。

 立っていた衛兵が少尉に敬礼した。ジョーが進み出て衛兵に二三事言うと、衛兵はどうぞ、という風に手を挙げヤヨイたちを先導した。

 なぜ皆一緒に陣営地に入らないのだろう。中の方が安全そうなのに。

 ヤヨイが怪訝な顔をしているのをまたもジョーは察したらしい。

「何故全員を陣営地に入れないか、と思っているだろう」

「・・・はい」

「俺たちが信じるのは自分の目と仲間と少尉とこの銃だけだからさ」

 ジョーがそう言うと少尉はヤヨイを振り返って笑った。ヤヨイの理解できる帝国語とは別に、レオン少尉の小隊にはなにか特別な無言の言語があるかのように思えた。

 陣営地の中はいくつものテントが張られ、様々な土木工具や数十頭の馬が首を並べる厩まであった。首都では珍しくないが、蒸気無限軌道車や掘削機械まであった。

 しかも工兵隊の士官たちはレギンスではなくトラウザースズボンを穿いていた。百年以上前までは蛮族の風俗だといって嘲られていたそうだが、今、首都のトーガ長衣を着ない平民の男性の中で流行っているのをヤヨイは知っていた。

 ある士官の前で少尉は右手を上げて敬礼した。左胸に茶色い月桂樹の葉が付いている。もちろん、ジョーもヤヨイも唱和した。

Ave CAESAR!アヴェ・カエザル! (敬愛なる皇帝陛下!)」

 その丸眼鏡の肥えた少佐はテュニカとズボンの略装で面倒くさそうにチョイと右手を上げ、おざなりな答礼で返した。

「第三十八連隊所属独立偵察大隊第二中隊のニシダであります。哨戒作戦中立ち寄りました!」

「ご苦労、少尉。話は聞いている。だがもう、パトロールなど必要なかろう」

 そう言って工兵隊の少佐は随行のジョーとヤヨイを一瞥した。

「ここもそのうちに二十五連隊本部が進出して常設の駐屯地を築く。この作業はそのための地均しみたいなものだからな」

 口髭が自慢なのだろう。少佐はその端をひねりながら、終始少尉に対し小馬鹿にするような態度を取り続けた。工兵隊はインテリ揃い。それに対して偵察隊は顔や肌を迷彩塗料だらけにした野人、野蛮人の巣窟だとでも言いたげな態度を見せていた。

「軍の上層部の意向の忖度は小官の職務ではありません。小官としてはただ命令の遂行あるのみですので」

「・・・まあいい」

 少佐はまだ全軍には支給されていない貴重な双眼鏡をぶら下げていて、それが別種の階級章でもあるかのように、見せびらかすように目に当て、焦点を合わせるツマミを弄った。

「夏を迎えて蛮族どもの動きが活発になっております。特にこの地は昔ヤツらの神聖な土地だったようで、いずれ奪還しようと捲土重来を図っているもののように推察されます。充分ご警戒ください!」

「そんなことは言われなくてもわかっとるよ。だから2個中隊も護衛を付けている。心配はいらんよ、少尉」

「だとよろしいのですが」

 用件はそれだけだった。

 最初と同じように敬礼して指令所を辞した。少佐は答礼もしなかった。軍律厳しい帝国軍にあってはたとえ上官といえどもあってはならない行為だったが、少尉はそれを上申する気もなさそうだった。時間のムダ。彼女の顔にはそう、書いてあった。

 陣営地で水筒の水の補給をしたのがまるで本来のここへの訪問の目的だったかのようだ。

「友軍の状況確認も大切な哨戒行動の任務の一つだ。だが、面倒なことでもあるな。顔を出せばああいう風に嫌味を言われるし、出さねば挨拶にも来なかったと文句を言われる。辺境にトバされて鬱屈しているのだろうな、きっと」

 陣営地の門を出た途端、レオン少尉はアッハッハと豪快に笑った。

 水の補給を終え、小隊は出発した。切り倒された巨木が倒れるズシーンという地響きを背中に聞きながら、川に沿ってまだ伐採されていない森の中へと入って行った。

 工兵隊の陣営地までのうっそうとした見通しの悪い森の中の道とはうって変わり、少し森を抜けただけで大きく河原を望む見通しのいい川沿いを歩きながら、しかも歌を歌いながらの行軍になった。

「ハンス、何か歌え!」

 少尉の命令で、ではあったが、デブのハンスはニヤと笑って大きく息を吸いこむと朗々とした声で歌い始めた。



 ヤヨイが生まれる2、30年前あたりから海洋歴史学が格段に進歩した。

 それまでは大きな金属製の釣り鐘のようなものを海中に沈め、その中に奴隷が2人がかりで押す大きなふいごで空気を送り込む。釣り鐘の中に人が乗り、そこを拠点にして素潜りで海底の遺物を探査していた。

 ガスを使った溶接技術が進歩して薄い鉄板を繋ぐのが容易になるとガスボンベというものが発明? 再発見? された。誰かがそれに空気を詰め、その中の空気を吸って水中での呼吸ができることを証明すると、海底に滞在できる時間と潜水深度が飛躍的に伸びたのだ。

 そうした発掘調査中に「レコード」というものが奇跡的に無傷で何十枚も発掘された。

 それは材質のわからない、少し柔らかめの不思議な薄い円盤で、細かい細い溝が切ってあった。誰かが試みにその円盤をくるくる回しながら高価な薄い上質紙の角をその溝に落とすと、紙は震え何やら不思議な音を奏で始めた。

「音楽だ!」

 そのしくみを発見した人は狂喜したという。それから、美しい音楽が巷で聞けるようになるまでに数年しかかからなかった。

 その原理を解析して、手で回す式の「蓄音機」というものが発明され、ヤヨイがバカロレアに進学したころには首都のそこここで「蓄音機」を回し小銭を稼ぐ「音楽屋」がチラホラ出始めていた。

 こんな辺境の地であの頃の流行り歌が聴けるとは。

 ハンスの歌声に、ヤヨイは思わず懐かしさを覚えた。

「ハンスは別名『マイスタージンガー』だからな」

「銃の腕前はとても『マイスター』とは呼べんがな」

「黙れ、ガンジー。お前、あとで覚えてろよ」

 二三の兵が笑いながらそれに唱和したりしていたが、しかし同時に不安にもなった。

 こんなに気楽に、ハデにしていていいのだろうか、と。

 そのことをジョーに訊いた。

「はは。心配ない。ここを通る時はいつもこんな風に歌うんだ」

 と、彼は答えた。

「来いヤヨイ。教えてやる」

 その会話が耳に入ったからだろうか。レオン少尉がヤヨイを手招いた。目は相変わらず厳しく周囲を警戒していたが、彼女もどこかリラックスしているように見えた。

「この河の対岸はもう野蛮人どもの地だ。対岸の林の中から今も我々を監視しているかもしれない。だが、彼らの弓や石弓は射程が短すぎてここまで届かない。反対に我々の銃は十分に届く。奴らはそれを知っているから昼間は絶対に渡河したりしない」

「ではなぜわざわざ歌を聴かせるんです?」

「わからんか。デモンストレーションだ。これは示威行動なのだ。ここは我が帝国の領土だと奴らに思い知らせるためにやっている。我々が楽しそうに歌っているのを奴らがどう感じるかわからないがな。神聖な土地を奪った上に楽しそうに歌なんか歌ってわれらの神を冒涜しやがってと怒っているかもしれないし、帝国とはあんなに楽しそうな国なのか、と我々を羨ましがっているかもしれない」

 少尉は半ば歌うように、楽し気に節をつけて喋った。

「でも、怒らせたらマズいのではありませんか?」

 少尉はアッハッハと豊かな胸を揺すって大声で笑った。

「それこそ絶好の機会(チャンス)ではないか。怒ってこちら側に渡河して来た敵は背水の陣を敷くしかない。そうしたら包囲殲滅戦にもっていって全滅させて川を奴らの血で真っ赤にしてやるだけのことだ」

 ヤヨイは納得の体で頷いた。

「強力な武器を持ち、最高の戦術を駆使し、朗らかに意気揚々と歌を歌う敵を前にして、戦意喪失するヤツもいるかもしれない。敵の戦意を喪失させる戦法は最も優れた戦術の一つだぞ。よく覚えておけ、ヤヨイ」

 少尉はそう言って鳶色の目を光らせた。



 哨戒任務は何事もなく終了し2個分隊は無事宿営地に帰投した。

 昨夜の言葉通り、ジョーが「偵察部隊風」オートミールの作り方を教えてくれた。

 焚火を起こし、奴隷に用意させた大鍋を火にかけて、まずオリーブ油を施し、ナイフで細かく刻んだタマネギとニンニクをヘナッとなるまで炒める。木のへらで鍋の中を時々掻きながらジョーは言った。

「ここが一番肝心だからな。絶対に焦がさんように。かつ、しんなりするまで炒める」

「はい!」

 十分に炒めたらそこに配給の小麦を入れ、油でよくなじませる。

「小麦が先だぞ。水が先だと昨夜のような味にならない。何度も試したが、これが一番美味いんだ」

 そう言ってウィンクするジョーに益々好感を抱いた。

「ジョー、ひとつ、訊いていい?」

 ヤヨイは急速に彼に惹かれている自分を感じていた。今は2人きりを幸い、少し砕けた態度で彼に接するのが心地良く感じた。

「なんだ、言ってみろよ」

 ヤヨイは昨日から感じていたことを率直に尋ねてみた。

「軍律が厳しいことは知っているし、野戦部隊よりも仲間を大事にする風があるのも知ったけど、ここは女が少ない。わたしがいて、みんなヘンな気持ちにならないの?」

 小麦が焦げる寸前に、ジョーは桶の水をジュウッと入れた。たちまち湯気が上がり鍋を前にした二人を包んだ。その湯気が晴れると、ジョーの優しい目がヤヨイを見つめていた。

「そりゃあ・・・、なるさ。俺たちも男だからな。ましてやここは故郷から遠く離れた女っ気のない辺境。それにお前は美人で、いいカラダをしてるのを見ちまったし・・・、な」

 と、彼は笑った。


 もし、分隊か小隊の誰かに襲われでもしたら、無意識に身体が動いて相手を殺してしまいかねない。ヤヨイが恐れたのはそのことだった。だが、技を身に着けていることをジョーに打ち明けるわけにはいかない。知られるわけにはいかない。

「でも、安心しろ。この分隊に限ってそんなことをするやつはいないし、お前の背中は俺がいつも見ている。お前か俺がこの小隊を去るまで、俺がお前を守ってやる。

 さ、出来たぞ。あいつらを呼んできてくれ」

 最後にヤギやヒツジの乳から作った固いチーズを擂りおろしてトッピングしながら、ジョーは言った。グツグツと煮える大鍋からなんとも言えぬ食欲をそそる香りが立ち昇っていた。




 翌日も第3分隊と共に昨日のルートのさらに東を河伝いに哨戒した。警戒すべき場所では警戒し、大いに示威すべきはハデに練り歩いた。

 先頭を行くのはチャン軍曹に変わっていた。彼は叩き上げの歴戦の勇者だということだった。小隊の中で唯一、15年前の戦争を、会戦による実戦を経験している人だと。

 昨日のように開けた場所に来るとやはり歌を歌えと命じたあと、新入りであるヤヨイを近くに招き、何か質問があるか、と訊いてくれた。いかつい雰囲気のわりに面倒見のいい所が若い兵たちから父親のように慕われている所以なのだろうと感じた。ハンスの歌う朗々とした歌をBGMに、ヤヨイはここぞとばかりに様々な質問を彼に浴びせた。

「軍曹どの。なぜ帝国だけが銃を持っているのですか」

「答えは簡単だ。我が帝国は周辺の国々にはないものをすべて持っているからだ」

「というと?」

「鉄鉱石や硝石を産する鉱山。それに銃身に旋条を掘る技術。そして強力な海軍だ」

「鉄鉱石や火薬の原料となる硝石を産する鉱山はわかります。それに銃身に旋条(ライフル)を掘る技術も。でも・・・、何故ライフル銃に海軍が関係するのですか」

 彼は戸惑うヤヨイを見下ろしてフッ、と笑った。そして周囲を警戒するのを怠ることなく、説明してくれた。

「海の底に眠る遺跡から多くの遺物が発見されて我々に様々な技術や発明や発見をもたらしたのは知っているな」

「はい」

「かつて繁栄していた旧文明が遺した遺物は、我が帝国にとってまさに宝の山だった。特に現在歩兵の主力兵器になっているライフル銃は海底から引き揚げられた遺物から知識を得て開発・生産されている。今からちょうど100年前、歩兵の主力兵器が剣から小銃に変わった。ここまではいいか?」

「はい」

「なら、もう、わかるだろう。海の底に眠っているものはそこまで行く船と素潜りの上手いヤツさえいれば誰にでも手に入るのだぞ。それが帝国のものでも、敵のものでも」

 ヤヨイは考えた。それでようやく腑に落ちた。

「その遺物を独占しようとするなら、敵の船を全て壊してしまえばいいのですね」

「そういうことだ」

 やっとわかったか、という風に彼は再び溜息を吐いた。

「海軍は常に敵の海岸をパトロールし、小舟一隻と言えども敵が海に繰り出そうとすればたちまちこれに艦砲を浴びせて粉々にし撃沈する。

 全ての海は帝国のものだ。それを『制海権』という。制海権ある限り、敵の奴らは海底のいわば「知の財宝」には近づけない。したがって、たとえわが方の兵が捕虜になり銃が奪われたとしても知れている。奴らは弾を作れないし、銃を模倣も出来ない。せいぜい銃を持って振り回すことができるだけだ。我々は100年かかってめぼしい鉄鉱山と硝石を産する鉱山を侵略し占領して抑えてしまった。この丸い球の上にはもう、我々に対抗できる勢力など存在しない」

「ではなぜ今、我々はパトロールを続けなければいけないのですか」

 軍曹はここでもう一つ、一番深い溜息を吐いた。

「我々に足りないものは、ただ一つ。人だ。この丸い球の上全てを征服するには圧倒的に人が足りないのだ」




 初めての食事当番は概ね好評だった。

「ヤヨイが作ったメシを食ったらそれ以外のが食えなくなったな」

「そうかよ。じゃあこれからお前はヤヨイが作った飯以外は食うなよな。いいな?」

「まあまあ。ものの例えだろうが。それだけヤヨイの飯が美味かったってことだろ。大人気ないなあ。お前だって美味い美味いって6杯も食ったくせに」

 夕食後、汚れた鍋と食器を奴隷たちに任せ、銃の手入れをしながら、ヤヨイは昼間軍曹が言った「人が足りない」という言葉の意味を考えていた。

「通常野戦部隊で小隊が30名。3個小隊で1個中隊90名、3個中隊で1個大隊約300名・・・」

 歩兵大隊2個から3個、砲兵中隊1個から2個、工兵中隊1個から2個で少なく見積もって一個連隊約千名。2個か3個連隊で1個旅団約二千五百。この最小戦略単位が基本で、ヤヨイの属する第十三軍団は3個旅団を展開していたから約一万弱の兵力になる。

 帝国の陸軍総兵力は30万弱。これを20個から時によって25、6個軍団に編成してやっと帝国の全国境を守備できている。

 たしかにまつろわぬ、帝国に従おうとしない国々を撃破し侵略し占領して統合を繰り返したおかげで人口は増えた。だがそれに伴って守らねばならない国境線も長くなり、不穏な占領地の治安維持にも兵力を割かねばならず、今、帝国の防衛はカツカツどころかどこか一か所が崩壊すると全土が危機に見舞われる瀬戸際にあると言ってよかった。

 首都で安穏と学生をしていたときには気づきもしなかったし思いもよらなかった国の危機が、こうして最前線でオートミールをこしらえ、それを食い、銃の手入れをしていると信じられないほどクリアーに理解できてくるから不思議だった。単純な算数の問題のようであってそうでないのが、この「兵力不足」の問題なのだ。

 もし、全兵力の半分、いや3分の1の10万でも、一時に一か所に集中できれば・・・。

 今、ヤヨイがオートミールを作りながら対峙している青い肌の部族などたった一週間、いや3日間で粉砕できるだろう。電撃戦を展開できれば、の話だが。

 しかし、そのためには大兵力を短時間に一か所に移動できる機動力と、大兵力を効率的に、かつ、有機的に指揮、統率する通信が必要不可欠なのだ。

「そう。だから、電波、なんだよなあ・・・」

 ブツブツ呟いていると幔幕を開いてジョーが入って来た。

「お。銃の手入れも板について来たな。今夜から歩哨だろう。初日だから第一歩哨時にしてやったぞ。そのあとまとめて眠れるしな。夜は冷えるからマントを羽織れ」

 細々とした配慮、そしてアドバイスをくれるジョーは真に得難い戦友、先輩だった。本当に、彼がいてくれてよかったと思う。

「ありがとう、ジョー」

 礼を言って銃を組み立て終わり、支給品のマントを纏って外に出た。

「指令所で他の分隊の相方が待っているはずだ。歩調を合わせて宿営地の柵沿いを10周すると時間になる。終了したら隣の第三のテントに声を掛けろ。声を掛けたら指令所で待ち、次の歩哨と交代しろ」

「わかった」

「じゃあな。お休み」

「おやすみ、ジョー・・・」

 なぜか気が咎めるのを強引に抑え込み、指令所に行った。

 まだ就寝時刻前だから小便に行く者、指令所で地図を見て明日のパトロールのポイントをチェックする者、松明に薪を補充する奴隷など、若干の人影があった。

 指令所に相方はすでにいた。隣のテント、第三分隊の男だった。彼はヤヨイの爪先から舐め上げるようなイヤらしい視線を寄越してから、

「じゃあ、俺は北にいって東に。お前は南にいって西に。一周回るごとに南北のゲートでお互いを待って確認し歩調を合わせる。10周回ったらここに戻る。いいな?」

 ヤヨイは黙って頷いた。

 歩哨任務が始まった。

 ただ、歩くだけ。陣営地の四辺を見回るだけの任務。だが、怠ると罰則は重い。

 訓練所の初日のガイダンスでは罰則の内容を教えられただけだった。歩哨中に居眠りをした者、歩哨をサボって怠けた者には厳しい罰が待っている、と。

 そういう愚か者を出す分隊の責任ということで、怠けものを罰するのは軍法会議ではなく、上官の小隊長ですらない。そいつをシュラフに詰め込んで縄で縛り、寄ってたかってこん棒で滅多打ちに叩き据えるのは、罪人の家族でもある分隊員全員なのだ。

 小隊長だけでなく、中尉か大尉級の中隊長まで立ち会う中でその刑罰が行われるので手加減などはできない。その場に立ち会った最高位の者が「止め!」と命令するまでそれは行われる。たいがいそれ以上任務を行うすることはできないぐらいにダメージを受け、時には死ぬことすらある。が、軍法が許しているし、軍法が手加減を許さないから、死んだとしても殴った者たちには何ら咎はない。しかし、つい昨日まで同じ釜の飯を食った戦友であり家族を自らの手で叩きのめすのは深く心を抉る。

 哀れな罪人はシュラフの中で頭を抱えて耐えるしかなく、自分の犯した罪を悔いるだけでなく、自分を泣きながら叩きのめしている、生死を共にすると誓った戦友にまで心の傷を負わせるという意味で非常に過酷な刑罰なのだった。自分が死ぬことよりも、生死を共にすると誓った仲間に大きな心のダメージを及ぼさせる点で、罰が非常に大きく、重い。

 それほどに、歩哨は部隊全員の生死を預かる重要な任務なのだとしつこいほど教わった意味を今、実感した。

 風が強い。マントが風を孕み、舞い上がる。レギンス越しに冷たい風が肌を刺す。眼下の黒い森が悪魔の蠢きのように揺れ、騒めく。もし夜襲があるとすればこんな夜だ。気を引き締めねば! そんな思いを胸に眼下の黒い森に手にした松明を翳し、目を凝らす。

 と、南の正門に一番近い小隊長のテントの辺りに人影を見たような気がした。足を止めて少し引き返してその主の行方を追うと、第一分隊のテントに入ってゆくのを見た。

 夜中に小隊長と何かの打ち合わせだろうか。

 と、すぐに別の思案が浮かんだ。兵たちは男。そして、小隊長は頑健で大柄だが、大きな乳房を持つ女なのだ、と。

 それ以上考えまいとして任務に集中した。だが、集中しようとすればするほど、小隊長と兵の淫らな図が頭に浮かんできて困った。

 なんとか10周をこなし、指令所に戻ると相方と次の第二歩哨時の当番の二人とがすでに待っていた。

「遅いぞ。ペースを守れ」

「すみません」

「では、後は頼むぞ」

 そう言って相方は第三分隊のテントに戻っていき、第二歩哨時の当番が任務に就いていった。

「自分はちょっとトイレしてからテントに戻ります」

 一応、申告しておかないと怪しまれると思い、そう言った。南の正門からスタートするから東のトイレまで歩哨が来るまではまだ間がある。ヤヨイは、走った。

 銃を小箱に立てかけ、急いで用を済ますと服を整え銃を取った。置き忘れたりしたら大変なことになる。分隊全員が罰を受ける。訓練所ではそう学んだ。ここではどんな罰になるのだろう。北風がマントを翻してヤヨイの肌を冷やした。怖気が来た。早くテントに戻って寝袋に潜り込もう。そう思って歩き出すと左に小さな松明が見えた。間に合ってよかった。

 中央の道をテントに向かって歩いてゆくとヤヨイの第二分隊のテントから人影が出て行くのを見た。その影は驚くことに小隊長のテントに入って行った。

 ヤヨイは戦慄した。

 一瞬の間だけだったが見紛うことはなかった。松明に刹那照らされたその顔は、あの、灰色の瞳の持ち主だったのだ。

 あまりな衝撃に、迂闊にもヤヨイはその場に立ち竦み、その灰色の瞳と目を合わせてしまった。


 目の前がほんの少しだけ、暗くなった。

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