第8話 08 哨戒作戦第一日目 どうしようもなく、眩し過ぎるジョー

 川から出ようとすると松明のそばに人影が見えた。ヤヨイは身構えた。

「誰?」

 もしや、蛮族の襲撃か。夕食の会話の内容を思い出し、にわかに背筋が凍った。

「ジョーだ。遅いから見に来た」


 ・・・ほ。


 その声に少し安心したが、すぐに別の警戒を起こした。

「ああ、もう上がります」

 岸に上がり木の枝にかけてあったタオルを取り、身体を隠した。

「単独行動は危険だ。夜影に紛れてここまで出張ってくることも不思議じゃない奴らだ。明日からは誰かと一緒に来るといい。出来れば陽のあるうちに身体を洗え。必ず誰かと一緒に行動しろ。それが、言いたかった」

「ありがとう。これから気を付けます」

 松明に彼の姿が浮かび上がった。

 ヤヨイをどうこうするつもりなら、灯りの傍には立たない。むしろ灯りから遠い暗がりに潜んで彼女を捕捉し、身体を拭いている一番無防備な時に襲うはずだ。少し彼に信頼感を覚えた。

「そんなに緊張するなって。オレだって平民だし、『石埋めの刑』にはされたくないからな」

 ジョーは無精髭に覆われた顔をクシャクシャにして、笑った。

 服を身に着け、川の水で洗った肌着を持ってジョーと一緒にテントに戻った。すでに複数のイビキが聞こえていた。

 テントの中は真っ暗闇ではない。菜種油の弱々しい灯(カンテラ)が幕内の中央、目の高さほどに吊られている。それに宿営地の四隅には赤々と松明が灯され、その灯りが薄い幕をほの明るく浮かび上がらせている。最前線では夜中に襲撃されることもあると聞いた。そのための用心なのだろう。

 寝支度を整えていると、

「明日は0500起床、0600出発だ。もう寝た方がいい」

 一足先に寝袋(シュラフ)に潜り込んだジョーが言った。

 丁度第一歩哨時と第二歩哨時との交代の時刻だったのだろう。ヤヨイと入れ替わるようにしてデブのハンスがむっくりと起き上がり、薄闇の中でテュニカにカチャカチャとベルトを着け、銃を手にしてテントを出て行った。

 それを見送り、ヤヨイもシュラフに潜り込んだ。

 軍隊は全て命令だ。

 飯を食うのも命令。歯を磨くのも命令。銃の手入れも制服の洗濯もブーツを磨くのも命令。そして眠るのも命令。しっかり睡眠を取って任務を全うできるようにするのは兵士の義務だ。

 だが、目が冴えて眠れない。

 奴隷も含めて20人弱の男たちの中に女が2人だけ。しかも一人は上官。

 さらに、その上官を密かに監視し、調査する任務を帯びている。

 眠れなくなるのは、当たり前、かもしれない。

 だが、眠れないのはそれらだけが理由ではなかった。

 むくっと起き上がり、テントの入り口を開いた。裸足で出ようとした時、

「どこへ行く」

 ジョーの声を背中で聞いた。

「トイレです」

「なら、俺も行こう。ブーツは履いて行け。夜裸足で歩き回るのは危険だ」

 四方からの松明の灯りの中、しんと静まった宿営地の中をジョーと二人連れだって歩いた。フクロウの声も聞こえない。風もない。宿営地の周囲は不気味なほど静まり返っていた。もし自分がこの宿営地を夜襲するとしたら、こんな夜を選ぶだろうか。いや、こんな夜はやらない。もっと風のある、木々がざわめく夜を選ぶ。松明の火が消えそうなくらいの風があれば剣や武具のカチャカチャいう音も消してくれる、

 連隊、旅団規模の大きな宿営地はもちろん、こんな小さな宿営地でも構築するマニュアルは律儀に定められている。

 正方形の宿営地の四隅に杭を立て横木を渡し柵を作り囲む。一辺は南向き。その中央が正門。

 そこから向かい合った北の一辺に向かって真っすぐ通路が作られ、突き当りのそこが裏門。今は両方の門はこれも横木を組んで作った扉で閉じられている。通路の中点で東西方向に伸びる通路と直角に交わる。その交差点の脇に昼間検査を受けた指令所。そこを通って東の端に行った終点がトイレだった。

 ここ以外で用を足すなどもってのほかで、これに違反して他のところで立小便などをするとその分隊だけは次の日の食事は小麦ではなく馬用の大麦を与えられることになっているのだそうだ。もっとも、この罰則は規模の大きい野戦部隊用だ。こんな小規模の野営地の場合、しかも馬もいない場合はどうするのだろう。

 トイレは穴を穿っただけの上に二枚の踏板が渡してあるだけの簡素極まりないものだった。申し訳程度に目隠しの囲いがあるだけだった。

「先にしろ」

 そう言ってジョーは背を向けてくれた。

 バカロレアまでの寄宿舎はもちろんトイレも入浴も男女別の施設がもうけてあった。が、軍隊にはそれがなかった。軍隊とは人間性をこれでもかと剥奪するところだと知った。

 そして、同時に、それは合理的なことだと学んだ。

 戦闘になれば敵を容赦なく撃ち殺し、白兵戦になれば敵に取りつきその首を軍用ナイフで掻き切らねばならないのだ。

 そうしなければ、自分が死ぬ。

 訓練所で会ったルドルフの先輩の先生はこの北の軍団のどれかに勤務していたのだろう。

「戦場では人間性など邪魔なだけだ」

 野蛮人相手の実戦を経験した人だけが口にできる、重い言葉だ。

 だが、夜は誰もいないし、今、ジョーは背中を向けてくれていた。トイレに一番近いテントは奴隷用と指令所用のタープで眼下には黒い森が眠っているだけだ。訓練所よりは人間に戻れたような気がする。

「ありがとう」

 ヤヨイと入れ替わりにジョーが踏板の上に立った。ヤヨイもまた背を向け、空の上にかかる三日月を見つめた。

「なあ、ヤヨイ・・・」

 ジョーは勢いのある水音をさせながら話しかけて来た。

「本当は、どんな理由なんだ」

 彼が訊きたいのは、偵察部隊に入った理由だろう。ヤヨイが本当にお金が欲しくて偵察部隊に志願した女の子だと思い込んでいる。それは事実だったけれど、ビミョーに違ってはいた。

「俺は、やっぱり金だよ。野戦部隊の3倍ももらえるからな。徴兵が終わっても2、3年は残ろうかと思ってる。稼いだ金で帝都に行って商売をやりたいんだ。バカロレアは帝都にあるんだよな。帝都で商売すれば、必ず成功する。そう思っているんだ」

 夜間の歩哨は二人。さっき出て行ったハンスと、他のテントの兵が野営地の四辺に添って一定の歩幅で歩く。ハンスじゃない方だろう。小さな松明の灯りが、誰何すいかした。

「誰だ!」

「ジョー」

 と、ジョーが答えてくれた。

「相変わらず小便の長げえヤツだな」

 ハンスでないその歩哨はそう言って松明の灯りの下の顔をニヤリとさせ、ヤヨイを一瞥して去って行った。

 彼が充分に離れてから、再びジョーは口を開いた。もう水音はしていなかった。

「何人も新兵を見てきたけど、お前はなんか、違うな。慣れているし、肝が据わってる。こんな、野蛮人が襲ってくるかもしれない最前線に志願して、しかも、こんな人間扱いもされない待遇でも文句も言わず、しかも、女なのに・・・。

 それに、・・・めっちゃ、・・・美人だ」

 軍隊に入って数か月。久しぶりに人間らしい言葉を聞いて胸がほんわか温められた。

「ありがとう。・・・嬉しい」

 飼い葉桶に水が張られていた。手洗い用だろうと、そこで手を洗った。

「他の女と同じように野戦部隊に入っていれば、死ぬこともなく金も貰えるのに。トイレだってここよりはいいし、シャワーがあるから川に入って身体を洗うこともない。今は戦争も、北以外はないしな」

「本当にお金が要るの」

 ヤヨイはウソを吐く必要はなかった。全ては言えないが、限られた真実は言うことが出来た。

「研究にお金がかかるの。出来るだけたくさん。

 大学も政府に研究費の増額を何度も申請しているのだけど、なかなかおりなくて。

 教授たちも皆、本を書いたり講演をしたり大学以外の学校に出向いて教えたり寄付を募ったりしてるの。

 だから、わたしも。どうせ徴兵は免れないんだから、それなら、と・・・」

「でも、命を懸けるほどの価値があるのか、その研究に。俺にはどうも、わからない世界だな・・・」

 彼もまた飼い葉桶で手を洗った。そして灰色の澄んだ瞳をヤヨイに向けた。

哨戒任務パトロール中はなるべく俺の背中を見てろ。俺のやる通りにしていれば、ぜったい生き残れる。いいな?」

 ふいに顎を掴まれた。熱いキスを受け、身体中から力が抜けた。

「・・・ジョー」

 驚いて彼を見上げた。あまりに突然に、あまりに甘美な攻撃を受けて動揺した。

 わたしとしたことが・・・。 

 油断したことを後悔したが、その後悔も、心の底からではなかった。あまりにも甘いキスは、ヤヨイに課された密命をぐらつかせるに十分だった。

「さあ、もうテントに帰って寝よう。寝坊すると、マズいしな」

 そう言って彼は笑った。



 朝になり、前日のうちに奴隷たちが焼いてくれていたパンで朝食を摂り、昼食用のパンを背嚢に詰め込んで戦闘用の軍装を整えた。

 レギンスを穿いているのはヤヨイだけで、他の皆は脚も腕も剥き出しのまま、腰と上半身に革帯をクロスして着けていた。ヘルメットを被ろうとすると、

「それは要らない。置いていけ」

 ジョーが優しく制した。ハンスもガンジーもジローも皆汗止めのために止血用の藍染の布を頭に巻いただけで、顔には迷彩用の顔料を塗っていた。

「な?」

 ヤヨイもまたそれに従い、モールス信号に使う金属製の小さな鏡を見ながら、軍曹から支給されたこげ茶色の迷彩用塗料を髪と頬に塗った。立派な偵察兵が出来た。

 広場に集合した。

 が、野戦部隊と違い整列などはしない。奴隷用のテントと指令所のタープの東側に背嚢と銃を担ってなんとなく「たむろ」していた。皆朝日を右の頬に受け、これから赴くはるか北の国境を見据えながらゆったりとタバコを吸い、雑談を交わしていた。野戦部隊に比べ偵察部隊はどことなく、「不良」みたいだった。それが何とも言えず、凛々しくてカッコいい。

「集まったか、野郎ども!」

 レオン少尉の女性とも思えない野太い声が響いた。

「はい、 小隊長殿!」

 彼女もまた顔料を塗った顔に溌溂と生気を漲らせ、レギンスもアンダーガーメントも着けず、剥き出しの腕と逞しい太腿にも迷彩塗料を塗り、迷彩した金髪に藍染の布を巻き、黒革の革帯を豊かな胸の上でクロスしただけの姿で現れた。胸の谷間が、深かった。

 腰に手を当てて皆の顔を見回した。ヤヨイに目を留めるとフッ、と笑った。まあ、コイツもそのうち慣れるだろう。そんな言葉が顔に浮かんでいた。

「では行くぞ、野郎ども! ROCK`N ROOL!」

 少尉が銃を構えると皆も一斉に肩に担っていた銃を構え、ジャキーンと槓桿をスライドさせて初弾を銃身に送り込んだ。

 その瞬間、その場は戦場になった。


 小隊は、出発した。

 少尉を先頭に11名の隊列は森の中を進んだ。

 けもの道か、もう何度も同じ場所をパトロールしているからか。うっそうと茂って薄暗い森の中には草が短く押し潰された細い道が通っていた。時折陽射しが射す乾いた場所はよかったが、低く湿った場所にはやぶ蚊が多かった。肌を剥き出しにした皆はそうでもなさそうなのに、ヤヨイの周りには何故か蚊が集まった。彼女はすでに大汗をかいていた。やぶ蚊が肌を刺すたびに平手を振るった。前を行くジョーが時折振り返り、すでに蚊相手に戦闘を開始しているヤヨイを見て微笑した。

 と。

 急にジョーの背中が止まった。

 先頭にいる少尉が右手を拳にして上げていた。止まれ、の合図だ。皆の目が周囲を探した。

 少尉は呼び子を吹いた。友軍を示す合図だ。すると、森の奥から同じような呼び子が聞こえた。

「工兵隊の護衛部隊だ。アンブッシュして警戒してるんだ」

 そう、ジョーが教えてくれた。

「三十八連隊偵察隊第二中隊だ。パトロール任務中である!」

 少尉が大声で宣した。

「了解。行ってよし!」

 叢の陰からヘルメットに木の枝をたくさん付けた軍服が4名、立ち上がった。完璧なカモフラージュで、ヤヨイには辺りのブッシュとまったく見分けがつかなかった。

「ああいうのが作業中の工兵隊の周りに2個小隊ほど散らばってる。銃声がすると本隊が応援に来るってわけだ」

 と、ジョーが教えてくれた。

 なるほど。工兵隊はこんな最前線まで来ているわけだ。

 でも、いったい、何をしているのだろう。

 その疑問はすぐに解けた。

 3時間ほど歩くと急に森が開けた。目の前を大きな河が流れていた。開けたところから岸までは100メートルはあるだろうか。そこまでの木々が全て伐採され、テュニカを着ただけの、肌の色が様々なおそらくは奴隷たちが数十人、切り株を掘り起こすのに汗をかいていた。

「ここが国境だ」

 と、ジョーが言った。

 東から西へ。ゆったりと流れる川幅300メートルほどの向こうは再びうっそうとした森になっていて、木々の梢の上にひときわ高い雪を被った山の頂が見えた。温かい帝都育ちのヤヨイは雪というものを図書館の本では知っていたが、その実物を初めて、見た。

 そこから西は同じように岸辺が拓かれ、東にはまだ切り倒されていない林が残り、そこここの木の根元では奴隷たちが斧を振るっているのが遠目に見えた。刃が樹の幹を打つ音がごうごうと流れる川に乗って微かに聞こえて来ていた。

「この川の向こうが、野蛮人の地だ」

 自分は皇帝直属の特務機関のエージェント。レオン少尉の部隊に潜入し彼女を調査する目的で、ここにいる。

 なのに、目の前のジョーの背中が眩しくて、どうにも仕方がなくなってしまった。

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