第5話 制度の話

 社会には、法律で定められた様々な制度がある。


 一番身近な例でいえば、『契約』が挙げられるだろう。皆さんが日常でしている買い物も突き詰めれば契約だ。


 買い物が契約? と、思われるかもしれないが、皆さんは店に並べられている商品を買うとレジで意思表示し、店側は商品の対価をもらって売る時に、双方の合意が為される。


「これをいくらで買います」


「それをいくらで売ります」


 これで買う側も売る側も、双方の合意が得られている。何も、契約書を交わすことのみが、契約ではないということだ。


 日常のちょっとした買い物といった少額の取引だと、契約書を交わさずとも大きな問題にはなりにくいが、これが高額になればなるほど、契約内容を書面で残しておかなければ、いざ、問題が起こった時に責任の所在が曖昧になり、大きな問題になることが容易に想像できるだろう。


 このように、日常の一場面を切り取ってみても法律は私たちの生活に関与している。法律とは、皆が守れば安全が保障される制度だ。


 そんな制度の一つに、『障害者総合支援法』(2013年4月1日施行)がある。


 ざっくり言うと、これまで国で行ってきた障害者福祉のサービスを体系化して制度化するから民間でも提供できるようにしようという法律だ。


 正式には、『障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律』というが、中核をなす障害福祉サービスについては、別の機会に述べたいと思う。


 解釈の余地を残す法律の性質上、良く分からない言葉で書かれているが、そんなことは私にとって、どうでも良いことだったりする。

 

 要は、わざわざ、法律で障害を持つ方には、支援が必要だと定められているということに私は疑問を抱いているのだ。


 確かに、障害の有無で生活のし難さは変わるかもしれないし、支援の有無で生活のし易さは変わるのかもしれない。だけれど、わざわざ、そこに、“障害者”という文言は必要なのだろうか? 生活に息苦しさを感じている方がいるのならば、【障害の有無】に関わらず支援を必要とする人がいるのなら、支援をしたら良いではないか。


 また、障害者虐待防止法などという法律もある。


 それとは別に、虐待防止法があるにも関わらずに、だ。


 わざわざ“障害者”とつける意味が私には分からない。


 歴史を見れば、確かに障害者は健常者に比べ虐待を受けてきてそれに苦しめられた方も多かったのだろう。しかし、わざわざ区別する必要があるのだろうか? その区別が、やがて差別に繋がりはしないだろうか? そんな危惧を覚えるのだ。


 私はその枠組みの中で仕事を得ている。その枠組みの中で救われもした。障害者年金制度はその最たるものだ。


 に出会わなければ、知る機会すらなかったことだろう。しかしながら、幸運にもこれらの知識を得る機会に出会えたことだけは、彼に感謝しても良いかもしれない。


 知れたからこそ、憤りを感じることが出来るのだ。


 あなたは、こんな法律があることを知って、どう思うのだろうか?


 障害者ばかりが優遇されている?


 そうではないことを知って欲しい。


 偽善であっても、特別扱いと見なされても、法律で守らなければ、今を生きるのが大変な人がいることを知って欲しい。


 私は、さらに踏み込んで、障害の有無に関係なく、その人がその人らしく生きられる世界を目指すのだ。


 決して、障害の有無が“その人らしさ”を損なうものではないと信じている。


 そうはいっても、できることに限りがある。それが私にとって一番の障害でもある彼との暮らしだ。

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