壁の<紙魚>

 朱鷺子さんは、不思議なひとだ。すらりとした美人であるが、無口で無愛想で媚びない。誰に対しても必要以上に笑わない。クールビューティである。女の人には「お高く止まってる」などと反感を買い、男の人には「近寄りがたい謎の美人」となおさら妄想が燃え上がり、評判が評判を呼んでいる。

 朱鷺子さんとわたしは幼なじみだが、幼稚園や小学校のクラスメイトではなく、お隣さん同士の関係で、やっとのことで同級生になったのは高校のときである。だから、お互いのことを知りすぎたために軽口を言い合ったりケンカしたりはせず、ある一定の妙な距離感があり、一見よそよそしいが、それでも仲良く続いている。

 仲良く続いた結果が、これである。朱鷺子さんもわたしもとっくに三十路で、共に働いており、独身で、男の陰がない。不美人なわたしはこのまま行かず後家になってもしかたがないが、美人な朱鷺子さんは結婚の引く手数多なのは当然で、なのに本人が結婚する気がないか、プロポーズした相手を次々に拒否している。言い寄る男たちを千切っては投げ、千切っては投げ。

 二人が同じ土地で働き出したころ、朱鷺子さんは一人暮らしをしはじめ、「一緒に住むと家賃も光熱費も安いから」と言うので、同居を始めた。

 朱鷺子さんは痩せの大食いで、どこの料理店でも必ず二品を注文し、必ず平らげた。「お残しは絶対許さない」というのが朱鷺子さんのモットーで、私の調子が悪いときに、残した料理を喜んで食べた。そんな、残飯係である。

 家でも料理が得意で、自分一人でスーパーに買いに行き、手際よく自分で作って自分で食べる。「私が作ると常に三人前になる。柴子も食べてよ」とにこりともせずに勧められたのが最初のきっかけで、いまでは朱鷺子さんが食事の担当だ。簡単で安く、手軽に食べられる。わたしたちは朝も夜も、朱鷺子さんオリジナルのお弁当も、一緒に食べている。正直、お母さんの料理よりもはるかに上手で健康的である。

「これで朱鷺子さんの“もったいない”部分がまたひとつ増えたね」とわたしは笑った。朱鷺子さんがキッチンで手早く夕食を作っていたときだ。

「やめてよ。わたしは男のためにいるんじゃないし。あたしはあたしのために生きてるんだから」朱鷺子さんはいつのもように無愛想だった。

「もしかして男のひと、好きじゃないの?」

「嫌いだね。あたしの顔がいいからって短絡的なバカなんだよ。子どものころからずっとだよ? 一方的に惚れて燃え上がって愛の告白の手紙を押しつける。向こうにゃ満足感や達成感はあるのかもしれないが、あたしはドン引きするほかない。キモい。マジキモい。不気味。一人相撲は勝手にやれ。あたしを巻き込むな。最初は黙って手紙を受け取ったけど、最近はそれも面倒で、手紙を読みもしないで相手の目の前で破る。せめてものあたしのリベンジだね。特攻隊じゃあるまいし帰りの燃料も積まずに行って玉砕する。もうちっと頭を使えよ、頭をよ! 冷静沈着な戦略が必要なんだよ! あたしに一目惚れするくらいなら手紙テロなぞしないでとっととソープへ行け!」

 朱鷺子さんはマシンガンのようにそう言って、イスの上に胡座をかいたまま夕飯をかっこむ。見た目のバランスが妙であり、家のなかの朱鷺子さんならわたしもいいなと思うけど、男のひとはドン引きするかもしれない。顔やスタイルのイメージがガラガラと崩れていく。でもそれは、朱鷺子さんの要望したイメージじゃない。相手が朱鷺子さんのイメージを勝手に作り上げ、イメージと朱鷺子さんの現実のギャップが違う、と言って、そのイメージもまた勝手に崩壊する。

「あー、食った食った。ごちそうさま」朱鷺子さんはそう言って食器をシンクに置いて水を出す。わたしはといえば、まだ夕食の半分も行かないころである。当然、量は倍だ。大食いの早食い。きっと男もひとも顔負けだ。

「ゆっくり食べてていいよ。焦らないでね」朱鷺子さんは隣のリビングでテレビを見出し、爪楊枝を使い、げっぷをする。まるでおっさんスタイルだが、げっぷをしたときも放屁をしたときも、必ず「失礼」とか「失敬」と言う。たまには事前に「出るよ出るよ」と避難予告する。こういう、気遣いを強要される雰囲気ではなく、逆にプライベートにオープンで、それでいて細かい配慮のあるところが、男のひとと違って、いいなと思う。そして、わたしが食べ終わったときには、テレビを見ているかと思ったのに、さっそく立ち上がって黙々と洗いものを始める。もはや「優しいアピ」でも「フェミニストアピ」でもない。それが彼女の習性だとわたしは思った。

「男らしさ」と傍若無人さは違う。やりたい放題やった挙げ句、隣にいるひとの人権侵害にはまったく無神経だ。それが女であるとなおさら謝らないし恐縮しない。「女に謝ったら負け。逆に威張り散らす」、それが「男らしさ」である。父や兄との「男らしさ」とまったく同じだ。貴様たちは職場の上司や社長の前で堂々とげっぷをしたり、いきなり黙って放屁をしたりするだろうか。絶対にしないと思う。人前かまわず両方するというひとは、「男らしさ」を超越して、完全に気違いの域に入っている。


 このごろ朱鷺子さんは、なぜか「仮装パーティー」にハマっている。仮装パーティーの定番は、無難に羽のついたアイマスクであり、なかには気合いの入ったハンドメイドのコスプレイヤーも当然いたりする。しかし朱鷺子さんは、その辺の祭りで買ったひょっとこのお面である。スレンダーボディにひょっとこのお面。ミスマッチがかえってちょっとイカしているし、その手のマニアには垂涎の的だ。

「あたしは壁の花ではなく、壁の紙魚になりたいの。みんな自分たちの仮装で盛り上がってる場面を見たいのよ。邪魔しないでほしい。ほんと、男が話しかけるのがウザすぎる。迷惑だよ。国会で“一目惚れ禁止令”でも制定しないかなあ」

 朱鷺子さんはわたしを連れて、今度は着ぐるみ専門店へと行った。顔を隠しても声をかけるなら、全身隠すほかないとの決断である。

 買ったのは結局、昭和的雰囲気のうさぎで、可愛い点もあるが不気味でもある。真っ赤な目が血走ってて、つぶらな瞳で愛らしいはずだが、形もつける位置もどこかアンバランスな目をしていて、見る者の恐怖心や不安や狂気を抱かせざるを得ない。よく見れば愛くるしいうさぎだが、その出没地帯や時間は昼間の公園や野外ステージであって、真夜中の怪しげなクラブでは決してない。朱鷺子さんは、変人の障気を醸し出す、見えないバリアをチョイスしたのだ。

 着ぐるみは成功した。誰ひとりとして、壁によりかかる朱鷺子さんに話しかけなかった。完全に壁の紙魚だった。

「あー、熱い熱い」帰宅して朱鷺子さんは着ぐるみを脱いだ。腕には玉の汗が光っている。

「人間の好き嫌いなんて単純。面の皮で決まってるんだから、目二つ、鼻一つ、口一つ。シュミラクル現象かよ、ったく。安易なものよ。あたし、生まれたころから必ず誰かに見られていたんだ。だったらこっちも見返してやろうと思って睨んだけど、相手がますます好意を持っちゃってダメだね。それからあたしは誰の目も見ないように生きてきた。ここまま一〇〇年過ぎたらいいのに、っていつも思った。年を取ったら誰でも醜くなるんだからさ」

 朱鷺子さんは全裸になってバスルームの前で言った。まるで若く美しい雌鹿が躍動しているようで、見ているわたしが慌てた。

「柴子も入る?」

「え? 私はいいよ」

 私は恥ずかしくなって遠慮したが、朱鷺子さんと同じように汗だくだ。

「そんなに汗をかいて。一緒に洗ったげるから、ね?」

 朱鷺子さんは無理矢理私の衣服を脱がせ、バスルームに入れた。

「ねえ、覚えてる? 最初に会ったときのこと。あたしね、いっつもひとから声をかけられていたのに、柴子は、柴子だけはあたしを見ないでどこかの空気をぼーっと見てたの。そんで、あたしが話しかけたの。うふふ」

 なるほど、そうだったのか。朱鷺子さんはまごうかたなき美人だけど、美人ゆえに容姿の記憶に傷を負っている。

 わたしはあのときどうだったのか。他人の外見には興味がなく、というより人間そのものに興味がなく、風にそよぐカーテンの動きや芝生の揺れ、空気の匂い、鳥や虫の声、木々のざわめき、川のせせらぎ、光のまぶしさ、裏返った世界に夢中だったのだ。それはどうやら、あの不気味な着ぐるみを着た誰かが、暗闇のなかでじっと立ち続ける不思議な雰囲気のようなものだった。わたしもまた、不気味な着ぐるみを着て黙っている朱鷺子の謎の行動を、ずっとずっと見ていたかった。


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