大藪池の<あれ>(4)

 日曜の昼間、わたしはキッチンに立って娘の夕ご飯を作っていた。天気がいい。明るい日差しを浴びて娘はテレビを見ていた。

「ねえねえママ、怖いのやってるよ」

「え、怖いの? 澪ちゃん、何が怖いの?」

 手を止めたわたしはリビングに行き娘と一緒にソファに座ってテレビを見た。ワイドショーの特番か何かでレポーターが取材をしていた。

「…ネットの噂によりますと、いまから十年前、こちらの大藪池で高校生四人が溺死した模様です」

「大藪池?」何か胸騒ぎがする。これは穏やかではない。

「ママ知ってるの?」

「いや知ってるも何も…」

 わたしは娘の頭を優しく撫でながら胸騒ぎするのを娘に悟られないように平気なふりしてTV画面をじっと見た。確かレポーターは高校生四人と言った。わたしの聞き間違いじゃない。ネット上の書き込みで有名な心霊スポットの噂を聞きつけたTVクルーが大藪池に向かいレポーターに近隣住民たちの現場の声を聞かせていた。

 そう、いまから十年前のゴールデンウィーク、大藪池で高校生三人が溺れたのは確かだった。溺死したのは佐々木雄哉、児玉太郎、田中健治。わたしが三人の担任で、佐々木の恋人の鈴川は「もう彼氏なんか作らない」と叫んだが、すぐに恋人を作り卒業後結婚した。児玉の妹は借金の肩代わりで風俗に勤めた。田中の両親は離婚したがその理由は田中の死とは関係なく、いずれ離婚するだろうと誰もが思った。

 三人の死を口実に、わたしはあの高校を辞め、いまは英会話学校の教師をしている。三歳の娘がいるが、男と別れた後、妊娠が発覚した。一人でも産んで育てようと思い、いまも娘と一緒に住んでいる。娘を産んでから体質が変わったのだろうか、すすんで朝早く起きることができるようになった。いまのわたしは低血圧ではない。娘のおかげかもしれない。

 母が亡くなったのは、いまのわたしの年齢と同じ。当時わたしは三歳だった。いまの娘と同じ年齢だ。

「…私は見たことないんですけど、四人の高校生が池の淵に体育座りして、池のほうをじっと見ている、と池に来た人たちはよく言ってました。それ以外に、ここは自殺の名所なんですよ。幽霊がうようよいるそうですが、わたしなんかはまったく感じませんねえ」

 釣りをしていた地域住民の年配男性が笑いながら言った。

「霊能者の〇〇さんが大藪池に来ております。〇〇さん、何か感じますか?」

「…確かに四人の霊が見えます…三人は高校生のようです…もう一人は…よくわかりません、もう少し近くに行ってみないと…」霊能者と紹介された女性が、池のほうへ吸い込まれるように近づいていく。何か危うい感じがする。

「こちらが心霊写真です。ぼんやりとですが、住民△△さんが言ったように、四人の若者が暗い表情をして座っています。スタジオさん、見えますか?」

「うーん、ちょっとわかりにくいですねえ。幽霊らしき四人の高校生たちを近隣住民が目撃した証言が、もう少し必要と思われます」

「了解しました! いまVTR流します」

 VTRのタイトルは、“大藪池の四人の幽霊たち” 。おどろおどろしいBGMが同時に流れる。

「…俺、マジで見ました。この前友だちと一緒に肝試しに来たら、白くてぼわっとしたのが四つ、マジで見たんすよ! ほんと怖かったです! マジで逃げました!」

 四人? あと一人は誰だろう? いったい何者? その一人が三人を道連れに?

「続いて、高校生が溺死した事件のとき、同じ高校生だった西城康之さんに来ていただきました」

「こんにちは。クラスは違ったんですが、確か三人…? 四人だったのかもしれません。僕は当時、このクラスの担当の近藤光湖先生にぞっこんで、事件で覚えてることはありませんねえ」

西城康之が伸びた天然パーマの鳥の巣頭で笑って答えた。ニキビは治ったが不気味さは変わらない。西城がレポーターの向けたマイクを奪いこう言った。

「近藤先生、あなたは僕の女神です! ヴィーナスです! 僕はまだ独身で、先生のこといまでも待ってます!」

モニターにカメラ目線で呼びかけた西城の目が合ってしまった。カメラは別の証言者に変わる。わたしはモニターを消した。

 レポーターと証言者の声に、突然フラッシュバックが起こる。当時わたしの右腕に巻いた数珠はばらばらに飛び散り消えた。すぐ探したが跡形もなかった。あの数珠はわたしを守ってくれたがいまのわたしにはもう守るものがない。母もいない、叔母もいない。わたしの娘を守ることができない。あの数珠はどこへ行った? ガラスを引っかく何か不穏で不快な音がする。

「澪ちゃん、行くよ!」車の鍵とスマホを持って、わたしは立ち上がった。あれはこっちへ来る。

「どこへ行くの?」

「どこでもいいから、早く!」

 どこまでも遠く遠く、あれに見つからないように。距離は関係ないかもしれないが怖くなったわたしはいても立ってもいられなかった。娘を守るためわたしは一目散に逃げた。

「…うぇへへへへへ…」

 澪の声が低く響く。ミラー越しに見ると黒目だけが不気味に光っていた。わたしはあれが澪に憑依したことを直感的に知った。

「…へへへへ…なんでお前、あのとき逃げた? なんで逃げたんだよぉ?!」

 わたしは無言だった。あれみたいな連中とは絶対に会話しちゃいけない、となぜか知っていた。誰かに教えられたわけでもないのに。

「逃げても無駄だよ…お前の魂は先約済みだからな。お前はどのみち死ぬんだからあっははっはっはっは…」

 澪はわたしの顔に自分の顔を近づけ大声で笑った。澪の吐息は生卵と魚が腐って混ざったように生臭かった。そのとき、あの町に転勤したときからわたしはあれの餌食なのだ、と線がつながった。怖いというより、すっと諒解した感じだった。

「急げ急げ急げーーー!! 死に急げーー!! ぎゃははは!!!」

 猛スピードで走りながら急カーブを曲がった。が、曲がり切れなかった。車はガードレールに衝突し、それから川に落ちた。

 その後は、長すぎる沈黙。

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