大藪池の<あれ>(2)

 新学期始業の日は、大抵午前で終わる。部活熱心な者は部活をやり、そうでない者は学校から帰る。わたしは部活の担当ではないから、生徒が帰った後、業務を終えて帰ろうとした。

「…先生…」

 その声を聞いてひやりとした。同じ学年の西城康之である。ただしクラスが違う。

「ああ、西城さん、さようなら」わたしは咄嗟に別れの挨拶をした。でもダメだった。

「先生…あの、これ…」西城は顔を真っ赤にしながら、わたしが帰る方向を遮り、強引に白い手紙を渡してきた。

 またこれか、とわたしは無言で受け取った。西城から以前にも手紙を渡された。


近藤光湖先生


先生の声が、好きです。

先生の顔が、好きです。

先生の髪が、好きです。

先生の背格好が、好きです。

みんな、すごく好きです。尊敬しています。

先生は、僕の理想の女性です。

僕が卒業したら、結婚してください。


                             西城康之


 さらっと読んだだだけですぐ処分した。おそらくラブレターと思われるが特に返事はしていない。本人から催促されたら、そのときはどう返事しようか。

「じゃあ、さようなら」わたしは早くその場から去りたかった。わたしをぼーっと見つめる西城がいたたまれないから。

「さようなら、先生…」

 西城は、わたしより背が低く、短い天然パーマ髪の、ニキビ面の男子学生である。クラスでは目立たないほうだし、いつもニヤニヤしているだけだ。はっきり言って女子生徒にあまり好感は持たれていないらしい。わたしも同感である。それなのに好きな異性に対して手紙で告白するのは大した度胸だ。好きだという気持ちを抑えきれずに、つい相手に一方的に告白してしまう。たとえば告白したときに初めて西城の存在を知る。この人、だれ? 何者なの? 相手は戸惑うばかりで不審になり西城の気持ちを受け容れられる余裕はない。結局、ディスコミュニケーションにしかならない。コントロール不能な感情が、西城のなかにある。

 好きという感情は、まだ幼いエゴの感情だ。自分と相手は実際に関係がなくてもいい。とにかく「好きだ」と相手に伝えたい。相手との関係性を築いていくからこそ、好きという感情はより深く、お互いに成長する。高校生の西城には、まだわからない。

 そういえば、西城には黒い影を感じられなかった。佐々木や児玉との違いは何だろうか。そんなことをぼんやり考えながらわたしはまだ明るい空の下を歩いて帰宅した。


 翌日、わたしは定時に起きて高校へ行った。遅刻はしなかった。二日続けての遅刻は小林先生から注意勧告されてしまう。お願いだから今学期は遅刻させないでほしい。

 朝のHRの時間、わたしは改めてクラスメイトの顔を全員見た。ひとつ、机が空いている。誰だろう。出席簿で空欄がないか確認する。田中健治。わたしは声に出して呼んだ。返事がない。

「昨日も欠席したよなあ?」

「あいつ、存在感薄いから誰も気づかないよ」

 田中健治。黒ぶち眼鏡をかけていて、いかにも真面目そうに見えるが、そうではない。前任者から、あの子は要注意だ、と目をつけられていた。服装が乱れていたらわかりやすいが、田中はいつも学生服の襟の部分を閉じ、きっちりして見えた。

 田中の両親も教員である。教員の子どもはひねくれやすい、と誰かから聞いた。そのせいか田中は他人を莫迦にした目で見る、特に教員を見つめる目つきがそうだ。自分の親が教員なら教員の私生活もお見通しのはずである。生徒の前では聖職者ぶっているが子どもの前では単なる人間だ。人間は誰しも欲望まみれで過ちを犯す。おそらく田中は教員の両親の犯した過ちを何度も見てきただろう。田中は両親を、そして教員を、軽蔑しきっているに違いない。

 一時間目、二時間目、三時間目もまだ来ない。昼休み、わたしは田中の家に電話する。当然誰も出ない。職員室で同僚が、やっと田中が来た、後から職員室に来い、と田中に言ったと教えてくれた。

 わたしは授業とは関係のない残務処理をして田中が来るのを待っていた。でも田中はなかなか来ない。

「近藤先生、田中の奴、またですか?」林檎をかじりながら体育の杉田先生が言った。

「はあ…」

「もしかしたら、無視して帰ったのかもしれませんよ」

「ええ?」わたしはびっくりした。やっぱり莫迦にされている。教員もたかが人間だと。

「明日、田中のことはわたしに任せてください。大丈夫です」

「…お願いします」

 ある意味、田中は職員室で有名だ。教員を莫迦にできるなら力づくでかかってこい、大人を舐めるな、と杉田先生は言っているのだろう。でもそれは時代錯誤に過ぎない。一昔前には学校の教員は生徒の憧れの的だったが、教員の女子児童に対する性犯罪や生徒同士のいじめ・自殺など深刻で解決すべき問題が多々あり、あまりに忙しすぎて生徒一人ひとりの顔を見ていない。学校としても罰則が多く、教員は自由に考え、自由に行動できない。教員の裁量権がないのだから、雁字搦めの息苦しい機械人間だ。PTAや教育委員会の重圧から逃れて自殺する教員も少なくない。いまや「なりたくない職業ナンバーワン」になり下がってしまった。教員を軽蔑しているのは田中だけではないはず。明日、杉田先生が成功することはまずないだろう。

 わたしが田中を諦めているのか、それとも杉田先生が希望に燃えているのか、よくわからない。とりあえず任務を解かれたわたしは安堵して帰宅した。

 

 杉田先生から呼び出しを食らって一週間が過ぎようとしている。他のクラスの授業が終わって職員室に戻るとき、わたしは田中を見た。あの黒い影のくすぶりだ。わたしは身がすくんで動けなかった。これで三人目。あの影は何だろう? さっぱりわからない。何かの警告だとして、それが何なのか、どうすることもできない。

 これまでわたしは奇妙な出来事に数回遭ったことがある。その意味がわからなくて、あまり他人に話したことはない。後になってから、おそらくこうに違いない、と一人で解釈するしかないのだ。

 たとえば、わたしが幼いころ開いた窓から鮮やかな青い雲雀が飛んできて、わたしの目の前で飛んだまま止まった。その雲雀はじっとわたしを見ていたような気がする。ねえねえお母さん今日ね雲雀が飛んできてこっち見たよ、とわたしが報告したら、お母さんは急に何かを思い出して、光湖ちゃんその雲雀はお母さんに違いないお母さんが死ぬ前の晩わたしにこう言ったの、お母さんが死んだときには光湖に逢いに来ようかしら、青い雲雀になって。

 わたしを育ててくれたお母さんはお母さんじゃなかった。産みのお母さんは病気で死んで育てのお母さんは妹だったとわたしは知った。よかったね光湖ちゃん本当のお母さんに逢えて本当に良かったね。育てのお母さんはにこにこ笑ってそう言った。本当のお母さんが死んだことについてわたしはちっとも哀しくなかった。だって目の前にいるお母さんは死んでないもの。

 たとえば、お母さんのお墓に行ったとき急に腕が重だるくて冷たくなり痺れて動かなくなった。育てのお母さんに腕が動かなくなったって言ったら、あら大変と言って、動かなくなったわたしの腕に塩をかけ数珠で何か唱えていた。お墓へ行くときには必ずお清めの塩と数珠を持っていきなさいそうしないとあの世の者たちに取り憑かれてしまうのよ、と育てのお母さんは言った。

 先日も帰宅帰りに病院の前を通り過ぎると受付に何かの行列ができていた。ランドセルを背負った人、若くて背広を着て白いマスクをしていた人、赤ちゃんを抱っこした人、杖をついて腰の曲がった人…あの人たちは何を待っていたのだろう? この時間は病院の入り口は閉まっているはずなのに。

 夏の真夜中に起きたら、白いカーテンが揺れ、なかに何か長いものがふわふわと動いていた。窓が開いて風が吹いていると思ったら、窓はしっかり閉まっていた。もしかしたら夢かもしれない。

 そういえばわたし、いつの間に低血圧になったんだろう? 明日は絶対早く起きなくちゃと思っていても、ずっと誰かがわたしの身体を抑えていて動けない、誰かがわたしの胸の上に乗っかっていて息苦しくて気絶してしまういつもいつも。どうして? 誰かの悪戯なの?

「…先生、低血圧なの? じゃあ、これあげる…」

 ニヤついた不気味な西城の顔がアップになり白い粉が入った透明の小さな袋を指先でつまんで見せている。アンフェタミン、覚醒剤。これを摂取したら辛い朝とはさよならだ。けど毎日これをやらなきゃならない? すぐジャンキーになるだろう。そして薬を求めて売人の西城と取引を続けるのだ。嫌な夢、すぐ消してしまいたい!


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