大藪池の<あれ>(1)

 頭の奥でくぐもった音が聞こえる。身体がだるい。たぶん目覚ましのアラーム。だが指先一つ動かない。渾身の力を込めてやっとスマホの画面をタッチ。音が止まる。意識は遠くに飛ぶ。

 低血圧人間の朝はとても辛い。意識はあるが気持ちと身体が死んでいる。死体が動くのはゾンビだけだ、わたしには無理。アラームを消して五分、もう十分、あと五分。ベッドの上でうずくまりながら、ときどき呻きながら、ゆっくりと血流をあげていく。起きようとして実は気を失っているんじゃないかと自分でも思う。気づくと三十分。やばい、また遅刻だ。スヌーズ機能はあるが停止を押してしまった。わたしはがばと起きて熱いシャワーを浴び仕事着に着替える。今日から新学期なのに憂鬱で最悪で最低の気分だ。このまま消えてなくなりたい。

 一日一日と着実かつ慎重に規則正しく生活をする。ある日突然リズムが崩れ、体調が崩れ、何もかもが崩れる。まるで綱渡りの生活だ。歩を進めては安堵する。確実に進めてきた過去だけがわかり未来はわからない。賽の河原で高く積んだ細長い石の連なりをある日恐ろしい鬼がどこからかやって来て全部崩すという無意味で残酷な伝説を、子どものころのわたしは聞いたことがある。わたしがいままで注いできた努力も時間も、崩れたいまとなってはとても虚しいものだ。

 切実に、覚醒剤がほしい。メタンフェタミンの中枢神経興奮剤はアンフェタミンより強い。それを含むヒロポンは戦前に日本軍保有用で注射剤が売っていた。敗戦後、闇で流通しはじめた。精神依存性、薬剤耐性、強い中毒性から厚生労働省よりヒロポンの製造が中止された。それまで非行少年や売春婦にも拡散されていた。ヒロポンの命名は「疲労がポンと飛ぶから」。


「…え~、担任の近藤先生は二時間目から来ますので、それまでわたくし柏木が担当します」

 遅刻の連絡をしたわたしの代わりに急遽柏木先生が応対してくれた。感謝と申し訳なさを感じてしまう。

「先生が遅刻ってありえないよなぁ」

「それも常習犯。どうする? 許す?」

「近藤先生美人じゃんか、許す許す!」

「顔で許すわけ?! 許すって何様?? ここの男子サイッテー!」

 生徒たちがざわめく。

「静かに! では、出席を取ります!」


「…またですか? 近藤先生」

 ベテランの学年主任小林先生が呆れてわたしの顏を上目遣いで見つめている。他の教員たちは机に向かっているが小林先生とわたしとの会話にそっと耳をそばだてているようだ。絶対そうに違いない。

「すみません…」

 わたしは小林先生の前でうつむいたまま立っていた。

「学生ならまだましですが、あなたは先生になってもまだ遅刻癖が治らないんですか?」

「はぁ、努力はしてるんですけど…」

「生徒たちに顔向けできないですよ、新学期早々遅刻なんて」

「…」

「まるで遅刻した生徒に応対してるみたいだ」

 小林先生は溜息をつく。彼は怒る気力もないらしい。

「私が言うまでもないですが、今度遅刻したら、そのときは覚悟してください。教員の規約に遅刻の罰則はありません。そうはいっても、これは度合いの問題です」

 小林先生は低血圧がどういう症状のものなのかまったく理解していない。彼の場合はむしろ将来高血圧で苦しむほうだ。低血圧を理解してほしいなどとわたしは思わない。他の先生はそっと「うちの奥さんもそうなんだ」と打ち明ける。わかってないのにわかったふりをして同情するのは本当にやめてほしい。わたしを「かわいそうな人」とみるのは絶対にやめてほしい。家族で一緒に生活しているのにこの教員は、低血圧の妻を持つ夫は、全然わかっていない。妻の体調を心配するふりして、実はまったく妻を見ていないし心配していない。一度でも「病院で診察してもらったらどうか?」と妻に言ったことはあるだろうか。スマホやPCで「低血圧 改善 対策」と検索したことはあるだろうか。

 わざと夜更かしをしているつもりはない。主治医の指示は忠実に従い、朝はしっかり朝食を食べ、興奮剤としてカフェインを飲む。ビタミンB群とビタミンEは必須、できればコエンザイムQ10も。寝る前に充分なストレッチをし、夜十一時にはすでに就寝している。休みの日には近所を走ったり、プールで泳いだりしている。それでも低血圧は完全には治らないのだ。内服薬は最終手段としている。

 小林先生ではないが「学生ならまだしも社会人になって遅刻の常習犯から抜けられない」のは、どうすることもできない。たとえ教師を辞めても次の職種や勤務先ではもっと厳しくなるかもしれない。人間失格だ。でも学生時代の進学塾のバイトは楽だった。学校が終わってからの塾は調子が良かった。教えるのが好きだから教師になったのが、わたしの判断ミスだった。

 三年続いた教員生活も今年で最後になるかもしれない。わたしの気持ちは沈んだまま、でも決して誰かに悟られてはならず、平然と担任クラスの教室の扉を開けた。三十数名の生徒たちの顔が見える。教員のくせにまた遅刻して、という軽蔑の表情と雰囲気は感じられなかった。クラス担任の常習的な遅刻は自分たちには関係ない。そういう冷淡な無関心だ。

 そのとき、ある生徒の姿がさっと黒い影に覆われた。黒い影は煙のように蠢いている。なんだろうこれは? わたしはいわく言い難い気分になった。

「先生、顔色良くないよ、大丈夫?」その黒い影の生徒は佐々木雄哉だった。

「ええ、大丈夫です」わたしは冷静に答えた。一時間目のHRではすでに柏木先生が出席を取っている。でもこの学年の生徒たちについて、わたしはほぼ名前と顔を覚えていた。

 佐々木は目が大きくて鼻立ちもよく、背がすらりと高く雑誌モデルや俳優でも通用するはず。去年はバンドを組んで文化祭でギターとボーカルを担当した。同じ学年の鈴川倫子と付き合っているが他に彼を狙っている女子も大勢いるらしい。

 佐々木の母の実家は裕福な資産家で、父はロジスティック事業の経営者だ。成績はあまり芳しくないが人が好さそうで優しい生徒である。男でも女でも人気があり誰とでも打ち解け人望の面は問題ないと思う。彼なら事業を継いでも将来は安泰だ。

 佐々木のことは有名だから知っていたが、影が通り過ぎる現象を見たのは初めてだ。なんだか嫌な予感がする。

 わたしは教科書の三五ページをみんなに開かせ、一人ずつ英語で音読させ、意味のわからない単語と新しく出てきた文法を解説した。

 授業を始めて三十分が過ぎたころ、また影が黒炎のように立ちゆらめいた。今度は児玉太郎である。児玉は立てた教科書で顔を隠したまま居眠りしている。寝息も立てないほど熟睡している。髪はぼさぼさ、なかのYシャツは洗っているが学生服は洗ってないだろう。隣の女子生徒が鼻をつまんだり下敷きやノートで風を送っている。上履きはつま先と踵が破れている。わたしは児玉を指摘して起こそうとしたが家庭の事情もあるのでそっとしておいた。

 児玉は母子家庭であり学校以外は朝も夜もバイトで埋まっている。遊ぶ暇はない。母親も本人も働きづめで幼い妹の世話は誰がしているのだろう。もしも夜遅くまで保育園が預かってくれても高い保育料を払うために二人は必死で働いているのだ。児玉本人もプライベートは明かしていないしクラスメイトたちも見て見ぬふりをしている。それが「クラスメイト的友人関係」を友好に持続するコツらしい。つかず離れずの距離感を、生徒たちは習わなくてもすでに知っている。

 去年、児玉の父親は肝硬変で亡くなった。アルコール依存症とギャンブル依存症が原因だった。かつて父親は羽振りの良い商売をしていたが、長い不況の影響で失敗し、事業を畳むタイミングを見誤って大赤字で倒産した。すべてに絶望し、自暴自棄になり働きもせずに借金ばかり作って死んだ父親は、はっきりいってクズである。妻と息子に負債を残すだけでなく、下手すれば妹まで負債の残金があるかもしれない。卒業したら彼は進学せず、すぐに就職するに違いない。でも高卒ではろくな就職先がない。児玉はそうやって貧困のループを抜け出ることができないだろう。わたしはせめて授業料免除制度か奨学金制度のある大学を探そうとしたが、彼の成績では可能性はかなり低いとみて、無力感に襲われた。

 やる気があり、本気で生徒に手助けをしようとする教員ほど、この国ではどんどん希望がなくなるはず。教員は生徒に勉強だけを教えるのではない。その前に、勉強に集中する環境、特に経済面が整わないとダメなのだ。人生の底なし沼にズブズブと落ちていく生徒たちを、指をくわえて黙って見ているしかないのだろうか。


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