第44話
宮殿の通路は目が眩むほど長く、左右に一定間隔で並ぶドアが、父親の養鶏場の鳥かごを想起させた。
「何か、臭う?」
「ヴゥ……」
トルガルは力なく首を振った。
「何も臭わないはずないじゃない。何かあるでしょ?」
「ヴォーブォブヴブヒッ(獣の臭いだ)」
「自分だって獣じゃない」
「ブヒヒ!」
仔ブタの抗議を無視し、ジルは足音を忍ばせて最初のドアの前を通り過ぎた。
「マメさんか人間の臭いがしたら教えてね」
「……ブヒ」仔ブタは不満げだ。
二つ、三つ、四つと、ドアの前を通り過ぎる。そのたびにトルガルは「ブヒヒ(違う)」「ブヒヒ(違う)」と鳴いた。
しばらくすると、仔ブタがピョンとジャンプした。
「ヴォーブォ、ヴォーブォブビブブ(臭う、人間の臭いだ)」
トルガルが駆け寄ったのは15番目のドアだった。正面が広い階段で、階下から料理の匂いが漂ってくる。下にダイニングか調理場があるのだろう。珍しくトルガルは料理の匂いに惑わされなかった。ドアの前でブーブー鳴いている。
「ここがジョウホー・陸道の部屋なのね?」
「ブヒ」
ジルはドアノブを握り、大きく深呼吸した。
彼女はまだ一階のパーティー会場にいると思うのだけど、万が一ということもある。……警戒心を高めた。
そっとノブを回す。
――ギギギギギ……――
やはりドアは大きな音を発した。
わずかな隙間から覗いた部屋は薄暗かった。前庭と反対側にあるので照明は消され、カーテンも閉じられている。室内がどんな状態か分からないけれど、ジョウホー・陸道が戻っていないことだけは確実だと思った。
さっと室内に滑り込み、仔ブタの耳を引っ張って室内に連れ込む。
「ブヒヒヒヒ……」
もがくトルガルは無視。そっとドアを閉める。
――ギギギギギ……――
「やっぱり鳴るんだ」
宮殿なのにメンテナンスがなっていないなぁ。それともわざと?
ドアに背をつけて目を凝らす。暗闇に目がなれると室内の様子が分かってくる。壁の片側には作り付の大きなクローゼットがあって、その隣にはバスルームに続くドアがあった。部屋の中央には大きなベッドに羽毛布団。座り心地のよさそうな大きな背もたれのある椅子が一脚。窓際には中世ヨーロッパ風のドレッサーとライティングデスク。靴ベラに靴磨きブラシ……。室内に香る甘い匂いはドレッサー上のガラスの小瓶からもれる香水のもののようだ。
「さて、ここで彼女が返ってくるのを待ちましょう」
クローゼットを開ける。数着のチャイナドレスとダークグレーのパンツスーツが並んでいた。足元には大きな旅行鞄。
「トルガル、ここで待機して」
ジルは仔ブタを旅行鞄の隣に押し込むと、自分はバスルームに入ってシャワーを使った。なんとなく自分の身体が臭ったからだ。
「ウワー、気持ちいい……」
ゆっくり湯船につかりたい。洗濯もしたいところだけれど、ジョウホー・陸道がいつ帰ってくるか分からないので、手早く身体を洗って部屋に戻った。
「ヴブヴヒヴヒブボブヒ(ボクも風呂に入りたい)」
「煩いわね、時間がないのよ」
そう応じたものの、自分の臭いがなくなると、仔ブタが臭った。
「仕方ないわね」
仔ブタをバスルームに連れて行ってシャワーで洗ってやった。
白い泡があっという間に黒くなる。トルガルはブヒブヒ鳴いて喜んだ。
――ドン――
突然ドアが開く。ジョウホー・陸道が目を丸くした。
「あ、あなたたち、誰?」
「ヴブヴンブーブ(ボクは天使)」
「あ、あ、あ、ボク、人間です。あなたと同じ……」
「何を、訳の分からないことを」
彼女は既に落ち着いていた。逃げ出したり、近衛兵を呼んだりしないので助かった。
「ジョウホーさんも人間ですよね?」
「何を、当然のことを…‥‥。どうしてここにいるのか、それを答えなさい」
彼女はユララシアの華国の代表としての威厳を取り戻していた。
「クロロ村のマメさんを捜しに来たのです。そうしたら道に迷って、ここに……」
「ああ、それじゃ仕方がないわね。……とでも、言うと思って!」
彼女が目をつりあげた。
「み、見てください」
ジルは泡だらけのトルガルを持ち上げて見せた。
「見た目はブタですけど、天使トルガルです」
「天使?」
「ブヒ」
ジルが手を離すと、仔ブタがふわりと浮いた。
「飛べるの?」
「ブヒ」
「言葉が分かるの?」
「ブヒ」
「素晴らしい!」
ジョウホー・陸道が仔ブタを捕まえ、ブンブン振って泡を切った。
「アッ、止めてください。トルガルを返して」
取り返そうとすると、……「アチョ!」気合と共にチャイナドレスのスリットからジョウホー・陸道の白い足が伸びてジルの腹を蹴った。
唇からゲでもグでもない音が漏れ、ジルはよろめいて尻から落ちた。反動で頭が反り返り、バスタブに強かにぶつけた。目から火花が飛び、それから目の前が真っ暗になる。
「ありがとう。いただくわね。きっと、総統がお喜びになるわ」
ジョウホー・陸道は何事もなかったように微笑んだ。
「ブヒヒ」
トルガルが暴れて高度を上げる。
「こら、暴れるな!」
ジョウホー・陸道は抑え込もうとしたが、トルガルはどんどん昇る。そうして、彼女のつま先が届かなくなると、その手から仔ブタがぬるりとこぼれ落ちた。
「イタタタタ……」
ジルは痛む後頭部を押さえて立ち上がる。その腕の中にトルガルが戻った。
「平民のくせに……」
ジョウホー・陸道がつかみ掛かってくる。あくまでトルガルを奪い取ろうというのだ。
「と、取引しませんか?」
ジルは閃き、提案した。
「取引?」
「クロロ村のマメさんと、この天使トルガルを」
「ブヒッ?」
仔ブタは目を見開き、ジョウホー・陸道は目を細める。
「さっきから、クロロ村のマメマメと言うけど、誰のことなの?」
「マメは青人です。今朝、貢物の管理者として帝国に着いたはずなのです」
「青人……」
ジョウホー・陸道の瞳に困惑の色が浮かんだ。
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