第38話

 ツリーの木の根の薬湯でレベルアップしたトルガルは、ジルを乗せても余裕綽々よゆうしゃくしゃくで飛んでいた。飛行船に遅れないのは、飛行船のスピードが自転車程度のものだったからだ。

 神秘の森を飛び越えると草原に出た。中央付近に半分焼け焦げた老イチョウの大木のある草原だ。

「あのリス人間が逃げていった方角に向かっているわね」

 ジルはこの世界に転生した日に出会ったリズの姿を思い出していた。クライヴの火弾で衣類を焼かれ、半裸で逃げた獣人だ。彼女の白い巨乳が頭に浮かんだ。

 ボクだってレベルアップしたんだから!……重さを量るように、自分のそれをそっと持ち上げた。熟した小玉スイカのような重量感があった。

 うん、イケてる!……満足すると緊張が解け、尿意をもよおした。

「ちょっと下りてくれる?」

「ブヒッ?」

「自然現象よ」

「ブヒ、ブヒ」

 トルガルがイチョウの大木のふもとに下りた。

「すぐに済ますから……」

 ジルは大木の反対側に回る。靴が濡れないよう、地面の勾配には注意が要る。それで大木を背にし、膀胱の中に溜まっていたものを放出した。

 あー、快感。……最後の一滴まで絞り出す。

「ブヒィー……」

 大木の反対側からトルガルの吐息がした。仔ブタも膀胱を空にしたらしい。

 見れば、仔ブタの足も濡れていなかった。ただのブタなら気にも留めないところだ。晴夏の意識が明瞭に残っているのだと知ってホッとした。

「さあ、行くわよ!」

「ブヴヴブゥ(腹減った)」

 空腹を露骨に主張するのはブタの印だ。それとも晴夏は、そんな少女だっただろうか?

「夕食はぬきよ。食事をしていたら飛行船を見失ってしまうでしょ。帝国に着いたらパンをあげるわ」

 そう告げ、トルガルの耳をつかんで跨った。

「ブヒ」

 不満げに鳴くと仔ブタが飛んだ。距離は広がったけれど、飛行船の機影は見えた。トルガルがスピードを上げて距離を詰めていく。

 草原を抜ける前に日が暮れ、月が昇った。ジルは、月明りをぼんやりと反射する飛行船を見失うことなくトルガルを導き、半日かけて新たな森を超えた。眠ると落ちてしまうので、眠気を必死でこらえた。

 地平線から朝日が顔を出す。同時にトルガルがほえるように声を上げた。

「ブヴヴブゥ、ブヴヴブゥ、ブヴヴブゥ!(腹減った、腹減った、腹減った)」

「ッタク、食べ物のことしか感がていないんだから。ダメな大人になるわよ」

「ブヴヴブゥ、ブヴヴブゥ、ブヴヴブゥ!(腹減った、腹減った、腹減った)」

 股間の仔ブタは動じなかった。

 仔ブタの胃袋の事情より、目の前の景色にジルは関心を覚えていた。

「……アメリア帝国についたわよ。たぶん、あれが飛行場……」

 低層ではあったが沢山の建物が立ち並んでいた。町だ。その中に平坦な空間がある。隣接するのは格納庫や倉庫なのだろう。飾り気のない巨大な建築物だ。飛行場をはさんだ反対側に石造りの建物がある。日本の国会議事堂に似ていた。

「あれが皇帝の住まいかな?」

「ブヒッ?」

 問いかけたところでトルガルが答えられるはずがなかった。

「人目のない場所に降りましょう。うまくいけば食事にありつけるわ」

「ブヒ!」

 トルガルが高度を下げて、町はずれの公園に着地した。

「ふぁー……」地面の感触に安堵し、あくびがこぼれた。

 早朝の公園に人気はなかった。コンコンと水の湧く泉があって水飲み場になっていた。とりあえずジルたちはそれで渇きを満たした。

「ブヴヴブゥ(腹減った)」

「もう、トルガルったら、それ以外に話すことはないの?」

「ブヴヴブゥ(腹減った)」

 トルガルは意地になっていた。

 ――グゥ――

 鳴いたのはジルの腹の虫だった。

「もう……」

 ジルは背負っていた荷物を下す。乾いたバケットを持ってきていた。

「……食べたら出発よ。まずは帝国の様子を把握しないと」

「ブヒ」

 答えるより早く、仔ブタはバケットにむしゃぶりついた。ジルも少しだけちぎって食べた。お腹の虫は鳴いたけれど、睡眠不足でパンがのどを通らない。ジルが残したバケットはトルガルがたいらげた。

 ――ブヒ、ブヒ、ガツガツ――

 トルガルがバケットを食べる音を聞いている内にジルは眠りに落ちていた。

 ふわふわとアメリア帝国の町を歩いていた。顔がリスの獣人、鷹の獣人、犬の獣人、ワニの獣人、……行きかう獣人を見ていると古代エジプトの壁画を思い出す。そこに描かれた神々は、動物や鳥、爬虫類などの顔をしている。自分が夢の中にいると分かっていても抜け出すことができない。

「クライヴ!」……通りを歩く彼に声をかけても、振り返ることもなくどこかへ行った。代わりにマメが現れた。彼女はリス顔の獣人と腕を組み、楽しそうに歩いている。

「マメさん」……彼女も同じだった。ジルの身体を幽霊のように通り過ぎた。

 振り返るとナマコのような顔の獣人がいた。彼はジルの顔にベタっと張り付いた。

「ヤダ、気持ち悪い!」

 ジルは自分の声で目を覚ました。トルガルが起こそうと、ジルの顔を舐めていた。

「アッ……」

 気持ち悪いと言われて傷ついたのだろう。トルガルがしょぼんと身を縮めた。

「……ごめん、トルガル。違うのよ。夢なの。夢で、ナマコになめられていたの」

「ヴブ、ブヒッブナヴァヴヴー?……(ボクはナマコなんだなぁ)」

 仔ブタが嘆く。

「だから夢だって……」

「ブナヴァヴヴー……(ボクはナマコだ)」

「もう、……謝っているでしょ!」

 思わず大きな声をあげた時、「誰かいるのか?」と木陰から声がした。

 ヤバイ!……慌てて口を両手でふさいだが、後の祭りだ。

「ブヒ」

 トルガルが頭の上に、トンと乗った。

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