レベルアップ
第21話
インゲンの住まいは、隣の集落の片隅にあった。他の高床式建物と変哲のないものだ。
医者だからといって特段良い暮らしができるものではないらしい。……ジルは、そんなことを考えながら、クライヴを背負った若者の後をついて階段を上った。
リビングダイニングは、トロロのそれより狭く、用途の分からない工具やぼろ切れなどで雑然としていた。
「寝室へ……」
インゲンは長靴を脱ぐと床に散らばった物品を避けて歩み、奥のドアへ向かった。
「病院ではないの?」
尋ねると、振り返ったインゲンが首を傾げた。
「それはなにゲロ?」
「病気を治す場所です」
説明しながらクライヴのスニーカーを脱がせた。それは濡れていたけれど、自分のと違って泥が染みついていなかった。
「ならば、ここが病院ゲロ」
インゲンが寝室のドアを開けて照明をつける。若者が中に入って二つ並んだベッドの一つにクライヴを寝かせた。
「では、ワシはこれでケロロ」
若者はクライヴの顔に目をやった。どこか尊敬の念の色が見える瞳だった。
「ゲロ、お疲れだったゲロロ」
インゲンの言葉に、彼は一つうなずいてから帰った。
「インゲンさんは、お医者さんですよね?」
「ワシは村民ゲロ」
「ハァ……」この村では専門職という概念がないらしい。そう理解した。
インゲンがキッチンに入り湯を沸かす。
ジルはクライヴの
リビングダイニングから嫌な臭いが流れ込んでくる。
「ヴヒヒッ(臭い)」
臭いに敏感なトルガルが頭をもたげた。
言われてみれば、確かに嫌な臭いがした。
「何をしているのですか? 臭いですけど」
リビングダイニングを覗くと、インゲンはコンロの前で何かを煮ていた。
「薬草を煎じているゲロ。これを飲んで体力をつける薬草ゲロ」
臭いものを飲まされるなんてクライヴもかわいそうだ。……ベッドに目をやると、クライヴは相変わらず穏やかな寝息を立てている。
目が覚めて食事をとれば、薬などいらないのではないか? インゲンは自分の知識をひけらかしたくて、無要な薬を作って飲ませようとしているのではないか?……そんな気がした。
「クライヴは寝ていますけど」
彼を臭い液体から守ってやろうかと思った。
「飲むのは天使トルガルさまゲロ」
「エッ?」
再び振り返る。
「ブヒヒヒ!(いやだ)」
トルガルが四肢を踏ん張り、目を三角にして首をぶんぶん振った。
「そうら、できたゲロ」
インゲンはうっすら笑みを浮かべ、素焼きのコップに
「具合が悪いのはクライヴなのに、どうしてトルガルがそれを飲まなければならないの?」
「神と天使、そして勇者は三位一体ゲロ。天使トルガルさまの力が強まれば、おのずと勇者クライヴさまの力も増すというもの。クライヴ様には、目覚めてから飲んでもらえばよいゲロ」
どうやら伝説の勇者は、神や天使と一体の存在らしい。……ジルは、その中に自分が含まれていないことにホッとした。
「さあ、天使トルガルさま、これを……」
何かが腐ったようなひどい匂いのするコップを手にしたインゲンが、それをトルガルに差し出した。
「ブヒヒヒ!(いやだ)」
逃げ腰のトルガルが首を振る。
「それは楽しみだ、と言っています」
ジルは背後から仔ブタを抱きとめて微笑んで見せた。
「ブーブヒゥ、ヴッカヴール!(はなせ、バカ、ジル)」
「さあ、お口を開けてゲロ」
コップがトルガルの口元に押し付けられた。
「ブヒヒヒ!(いやだ)」
仔ブタは歯を食いしばって、それを拒んだ。
「興奮しすぎてはいけないゲロ。頭に血が上るゲロ」
彼がコップを持たない左手を突き出し、日本の指を仔ブタの鼻の穴にズブっと突っ込んだ。
「ブブヒ―!」
トルガルが悲鳴をあげた。当たり前のように口が開く。その隙をついて、インゲンは薬湯を仔ブタの口へ注ぎ込んだ。
「ブヒッ、ゲヒゲヒゲヒ」
せき込む仔ブタ。薬湯は、すっかり彼の胃袋へ落ちた。
「これでいいゲロ」
満足そうなインゲン。一方、トルガルはもがき苦しんだ。よほど薬草の刺激が強いのだろう。その様子に、ジルは初めて、やり過ぎたかもしれない、と自分の行動を少しだけ後悔した。
「ヒー、ブヒー、ヒー、ブヒー、ヴヒヴヒヴォヴ(水をくれ)」
「水が飲みたいって」
「キッチンゲロ」
ジルはトルガルを抱いたままキッチンに走った。そこに大きな水瓶がある。それから小さなボールに水を汲んでやった。
「さあ、飲みなさい」
「ヒー、ブヒー、ヒー、ブヒー」
仔ブタはヒーヒーもがきながら水を飲んだ。
ジルは、トルガルにすまないことをした、と心底思った。ほんの少しだけだけれど。
「ヴォンヴァヒ(死ぬかと思った)」
のどを潤したトルガルがゼーゼーと荒い息をする。
その様子に安堵を覚えた。実際に死ぬことはないだろう。
「力がみなぎった?」
からかったつもりだった。
「ブヒ、ヴヒヴヒヴュー(うん、力がわいた気がする)」
「本当?」
「ブヒ(本当だよ)」
トルガルが応じた時、「ウォー」とクライヴの雄叫びがした。
「ゲロ、ゲロ、ゲロ、薬湯が効いたようゲロ」
「薬を飲んだのはトルガルよ」
「言ったはずゲロ。天使と勇者は一体」
ジルは寝室に戻った。ベッドのクライヴは握りこぶしを作り、まるで何かと戦っているようなポーズでまだ眠っていた。こけた頬が、少しだけ元に戻っている。
「ふむ。よほど体力を消耗したようゲロ。まあ、あれだけの作業をしたのだから当然ゲロロ。おそらく、あと二,三日は眠り続けるゲロ」
「そんなに……」
ジルはクライヴのこぶしを握り、「頑張って」とささやいた。この世界で生きぬくために、今は彼だけが頼りだ。
「さあ、次はジルさん、あんたの番ゲロ。勇者のために飲むゲロロ」
「エッ!」
突き出された薬湯のコップに、ジルはめまいを覚えた。
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