第20話
クライヴが造った堤のおかげでクロロ村へ流れ込む濁流は阻止された。流れは森の中にあって、ゴウゴウと濁流の走る音だけがあった。
しかし、当の功労者が戻ってこない。
「勇者殿はどうしたゲロ?」
トロロがジルを見ていた。その声はとても不安げだ。
「あの辺りにいるはずなのですが……」
ジルは巨木の頂上付近を見ていた。その枝の上、木の葉の陰に彼は座っているのではないか?
「まだ何かあるのかゲロ?」
「さあ……」この世界は分からないことだらけだ。村長の知らないことを知るはずもない。……ジルは息をひそめた森の気配に全神経を向けていた。
「ケロロ!」
声を上げたアズキが指す場所に動くものがある。
「勇者殿が飛んでいるゲロ」
「まさか……」
ジルは目を細めて青人たちの視線の先に目をやった。
「アッ……」
確かに、そこにクライヴの姿はあった。手足はだらりと垂れ下がっており、その背中をトルガルの四本の足が支えていた。
「トルガル!」
ジルは手を振って呼んだ。
「ブヒー!」
トルガルは落ちるように飛んできた。
「天使さまケロロ!」「天使トルガルケロ!」
マメとアズキも手を振った。
グングンとその影は大きくなった。彼らは落ちていた。
――ドン!――
ジルは衝撃と共に彼らを受け止めた。受け止めきれずに尻もちをついた。
「ブヒヒ!」
トルガルが転がるように頭の上を飛び越えていき、クライヴはジルに覆いかぶさった。彼の顔が目の前にあった。
「クライヴ、大丈夫?」
返事がない。
彼は意識を失っていた。その頬が森へ向かう前よりひどくこけているように見えた。
「クライヴ、誰にやられた?」
彼の胸元を握ってゆすった。が、彼は目覚めることなく、うんともすんとも応じない。
「大変ゲロ。勇者が息をしていないゲロ。マメ、インゲンをゲロロ!」
「ハイケロロ」
トロロが命じ、マメが走り出す。
「クライヴ、死なないで!」
彼が死んだらどうしよう。……悲しみや不安、後悔といった様々な感情が胸いっぱいに広がり、涙があふれた。出会って立った二日だけ過ごした彼のためにどうして泣くのか、自分でも分からない。
「ヴゥヴィンヴィ(心臓は動いている)」
仔ブタが鳴いた。
「生きているのね?」
涙をぬぐった。
「ブヒ(うん)」
トルガルは前足でクライヴの唇を押し開けると、そこに丸い鼻を突っ込んだ。
――ムーン――
息を吹き込む音がして、トルガルの白い肌がピンク色に変わった。
――ムーン――
クライヴの胸が上下した。
「クライヴ、目を覚ましなさい」
――ムーン――
膨らんだ胸の身体を揺すると、ゴロンとトルガルが落ちた。
「ウーン……」
クライヴが意識を取り戻して目を開ける。
「大丈夫?」
「……あ、あぁ……、なんとか……」
「死んじゃうかと思って……」
「まさか、ジルが人工呼吸をしてくれるとは、なぁ」
彼は嬉しそうだった。トルガルの鼻をジルの唇と思い込んでいるようだ。
「いや、それは……」
「ブヒッー(良かった)」
トルガルが飛びつき、クライヴの鼻をペロリとなめた。
「止めろ、ブ……」
クライヴが仔ブタを振り払った。かに見えたが、彼の腕に力は入らず、それどころかブタと言い切ることさえできずに再び意識を失った。頭はガクンと後方に折れ、両腕はだらりと左右にたれた。
「クライヴ、どうしたの?」
仮病だと思った。再び人工呼吸を受けたくって……。しかし違った。
――グー――
彼の鼻から鼾がした。
「どケロ、どケロ」
背後から声がする。振り返ると、ジルたちを取り囲んだ村人をかき分けて、マメと白髪の青人が現れた。彼がインゲンだろう。
「病の伝説の勇者というのは、この者かゲロ……」
彼はジルの正面に屈むとクライヴの脈を取った。
「何の病ですか?」
難しい顔をしたインゲンに尋ねた。
「……ムムムムム、……寝ているゲロ」
「それは分かります。原因は?」
「極度の疲労ゲロ。お前たち、ワシの家に運ぶゲロ」
彼は周囲の者に命じた。
「ケロケロ」
ひとりの屈強な若者が現れてクライヴを背負った。
「勇者殿の世話はインゲンに任せて、みんなはそれぞれの集落に戻るゲロ。井戸と小川から泥をかきだし、作物を病気と害虫から守るゲロ。風車小屋の手入れも忘れるなゲロロ」
トロロの指令のもと、青人たちはそれぞれの集落に向かう。それよりはやく、インゲンは自宅に向かって歩き始めていた。彼の後ろ、道に堆積した泥には不定形な足跡が残った。
クライヴを背負った若者は、インゲンが三歩で歩くところを二歩で歩いた。ジルは、インゲンの足跡に自分の足を置いて歩く。真っ白だったスニーカーは、すっかり黒く変わっていた。それどころか、スカートまで泥が飛び散っている。
「もう、ヤダ……」
ズブリ、ズブリと泥の中を歩く。頭の上に乗っている仔ブタが鬱陶しい。
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