第11話

 半日ほど歩いたところで滝に直面した。断層がずれたのか、高さ十メートルほどもある直角の断崖が長い岩の壁を作っていて、川はその上から一条ひとすじの清涼な滝を作っているのだった。岩肌は濡れていて足がかりがほとんどない。所々には苔が生え、ヒルのような得体のしれない生き物が、岩肌に吸い付くようにして暮らしていた。

「これを登るのか……」

 断崖を見上げて言うクライヴはどこか楽しげだ。

「ボクには無理だよ」

 ジルには断崖を上るスキルも体力もない。怪しげな生き物に対する嫌悪感はないけれど、それに触れることをトルガルの中の晴夏は嫌がるだろう。

 仔ブタに目をやると、案の定、トルガルがにらんでいた。

「大丈夫だよ。この体に傷をつけるつもりはない」

 腰を折り、耳元でささやくと「ブヒ」と仔ブタが鳴いた。

「登るしかないんだよ。森はこの先だ」

 クライヴが滝つぼに目をやる。上流から流れてきたのだろう。広葉樹の葉が水にもまれていた。

「そう言うからには策があるんだろうね?」

「俺が先に登って、蔦を下す。それにつかまって登ればいい」

「蔦なんか、あるのかい?」

「森に蔦はつきものさ。なかったらイロカボチャの蔓でも探すさ」

 彼はとても楽観的だった。

「分ったよ。それじゃ、ボクはトルガルとここで待つよ」

「ふむ、……いいだろう」

 答えるや否や、彼はぬめる岩場にとりつき、手掛かりと足がかりを探しながら慎重に登り始めた。

「気をつけてよ」

「心配するな」

 彼が返事をしたのは崖の中ほどまでだった。余裕がなくなったのか、そこからは無言になった。トルガルは時々飛んで、彼を間近で励ました。――ブー、ブー、ブー――

 彼は見事に登り切った。

「どうだ!」

 断崖の上で手を振った。

「ああ、おめでとう」

 それが的確な返事だったのかどうか分からない。

「予想どおりだ。深い森がある」

 そう言い残し、彼の姿は断崖の向こう側に消えた。

「ヴーフォー、ヴォミヅゥー(臭い、ミミズの臭いだ)」

「やだ、やっぱり……」

 大ミミズにまたがったからだろう。制服から嫌な臭いがしていた。クライヴがいたので口にしなかったのだが……。それはどうやら、トルガルも同じらしい。

 洗おうかな。……流れに目をやるだけで、川べりからは動けなかった。水中にはあの虫がいる。きっと他の虫もいるだろう。迂闊には飛び込めない。

 その時、トルガルが流れに入ってバシャバシャ泳いだ。

「大丈夫なのね?」

「ブー」

 流れに足を踏み入れ、裸になって素早く制服と下着を洗った。

 それから長い時間、クライヴからの連絡はなかった。ジルは濡れた衣類に身を震わせて彼が戻るのを待った。トルガルが様子を見に行こうとしたが止めた。万が一にでも猛禽類に襲われたりしたら助けようがない。

「クライヴなら大丈夫さ。英雄だから」

 抱いた仔ブタにそう言ったのは、自分を励ますためだった。もし、彼に置き去りにされたなら、この世界で生きていける気がしない。仔ブタを食べてカロリーを摂取したところで、孤独で気が狂ってしまうだろう。農園から逃げ出したあの時とは事情が違い過ぎた。

 そもそも、自分の身体だった仔ブタを食べることができるだろうか?……答えははっきりしていた。絶対食べることなどできない。そうするくらいなら、イロカボチャの餌食になることを選ぶだろう。

 あれこれと思い悩んでいると空気がざわめいた。

「刀火弾」クライヴの声らしいものが遠くから聞こえた。

「戦っている?」

 彼が戻ってきた喜びと、敵が側にいる緊張とで背筋がふるえた。

「ブヒ(そうだね)」

「助けに行かなきゃ」

 助けることなんてできないと分かっていても、いてもたってもいられなかった。

 さあ、どうやって登る?……行く手を遮る断崖を見上げた。コツンと、お尻に何かが当たった。トルガルの頭だ。

「やだな。こんな時に、いたずらは止めろよ」

「ブヒッ、ヴブヴーンブゥウプブープブバヒ(違うよ、ボクが上まで運ぶから、足を開いて)」

「いやらしいことする気だな?」

「ブヒッ、ブヴブヒヴヴゥン(しないよ。元々ボクの身体じゃないか)」

「それもそうだね。分かった。頼むよ」

 トルガルの意図を理解し、信じることに決めた。足を開き身体を任せる。

スカートの中にトルガルが潜り込み、ムヒッっと力んだ。

 股間で羽がムニムニと動くのを感じる。その動きはとても小さく、それで浮力が生じているのではなさそうだった。実際、羽ばたきでスカートの裾がひらめくこともない。

 やはり、飛ぶのは魔力の一種なのだろうな。……考えた時、身体がふわりと宙に浮いた。握るものがなく、身体は不安定だった。転げ落ちないよう、バランスをとることに注力した。

 高度が上がる。崖の景色に変化はなかった。

「乗せて飛べるなら、最初からそう言えばよかったのに。クライヴが蔓を探しに行く必要などなかった」

 トルガルに聞こえているかどうか分からない。ただ、自分の中の疑問を言葉にした。すると上昇が止まった。まだ、崖の中ほどだ。

 ――ムヒッ――

 スカートの中で悲痛ともとれる鳴き声がし、翼がムニムニと股間を刺激する。思わず目を閉じた。

 カイカン……。昔のアイドルの声が脳内を走る。心拍数が増えて頭がくらくらする。

「ウッ……」喉からカイカンが転げだし、バランスを崩した。その時、崖の上の景色が目の前に広がった。広葉樹の深い森だ。それを切り裂くように、緩やかに蛇行する流れが果てしなく伸びている。

「アッ……」完全にバランスを崩し、トルガルの背中から転げ落ちた。

 ヤバイ、死ぬ!

 その時、トルガルが尻を強く押した。ドスン、と落ちたのは崖の上、深い草の上だった。背中に痛みが走った。

「イタタタタ……」

「ビュヴーヴ(助かった)」

 トルガルがジルの股の間から顔を出した。

「イヤー、殺さないで!」「助けて!」

 森の中から黄色い声がする。

「風切」「風切」「風切」途切れ途切れのクライヴの声……。

「ヒェー!」「ヤメテ!」

「食わないでケロ」

 それはどこかおっとりした声だった。

「何が起きているんだ?」

 ジルは立ち上がり、森に向かって走った。洗ったばかりの衣類が肌に張り付き、とても走りにくい。それでも、トルガルより早かった。

「ブー、ヴッチ(ね、待って)」

 ジルを乗せって飛んだトルガルは疲れているようだった。その動きはとても緩慢だ。

「先に行くよ!」

 ジルは断り、目に留まった木の枝を折った。折れた部分が尖り、槍のように使えそうだ。最悪の場合、これで戦おう。決意して森に入った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る