神秘の森
第9話
令嬢ジルは早朝の寒さで目が覚めた。目に飛び込んできた空は、どこまでも高く青い。異世界では何があるか分からない。それでも眠れたのは、使い慣れない肉体のために神経が疲弊していたからだろう。
頭が重い。緊張感で熟睡できなかったからか、風邪でも引いたのか?
隣ではクライヴが
よく分からないけれど、真剣にやらないと生き抜けないぞ。畜生の勘が言うんだ。……とてもシリアルな、いや、シリアスな気分で間抜け顔の英雄に語り掛けた。
「ブーヒッ(おはよう)」
「ああ、おはよう」
「ブヒヴヴ、ヴブブブヒブブヒヴォ(セフィロス、ボクの身体を返してよ)」
「言っただろう。ボクには無理だよ。それに名前はジルだよ」
その時、クライヴが身体を起こした。寝ぼけているのか、眼をしょぼしょぼさせている。
「……ん、あ、……野原、今、ブタと話していたか?」
「い、いや。話しかけていただけだよ」
「……そうかぁ」
彼は背伸びをし、腹が減った、と腹をおさえて笑った。
「赤色のイロカボチャは残っているよ、……エッ?」
言ってから驚いた。
――ガリガリガリ、……音を立ててトルガルが食べ始めていた。
「おい、こら、ハルカ、……いやトルガル、食うな」
慌てて仔ブタを抱き上げたが、すでにイロカボチャは半分になっていた。
「ブーヴ、ブヒヴブルブルブーブー(ごめん、身体が勝手に反応して食べるんだ)」
ジルの中で何かがはじけた。……ボクの身体が卑しいっていうのか!
「やめろ!」
思わず、全力で仔ブタを放った。が、トルガルは地面に叩きつけられることなく、宙でふわりと止った。
「ったく、半分になっちまったな」
クライヴがイロカボチャを手に肩を落とした。
「ごめん」
「野原が謝るな。悪いのはブタだ」
「でも……」自分がブタだという自覚があるから、気持ちが楽になることではなかった。
「まぁ、最悪、種があるから育てられる」
彼はイロカボチャの中から種を取り出し、ポケットに入れた。
「カボチャの実が成るのには3カ月はかかるよ」
農園の一人娘の記憶に、それはあった。
「そんなにかぁ」
彼は天を仰いだが、一瞬のことだった。
「まぁ、次のイロカボチャを見つけようぜ」
彼はさっさと気持ちを切り替え、昨日、渡った川に向かって歩き始めた。
「それから、ボクの名は令嬢ジルね。……これから、どこに行くんだい?」
彼の背中を追いながら尋ねた。
「川上を目指す。森があるだろう。薪や食料が確保できると思う」
足を止めた彼が遠くに目をやった。
「分った」
「ブヒ」
英雄クライヴ一行は河原に出ると、上流に足を向けた。歩きながら流木を集め、仔ブタから守った赤いイロカボチャを蒸して食べた。
午後、歩き出してしばらくすると黒々とした倒木らしきものが見えた。草原の中から流れにまで伸びたそれは、一行の行く手を阻んでいるようだ。不可思議なのは、それが浸かった川面が泡立っていることだ。
「何だろう?」
「待て」
駆け寄ろうとしたジルの腕をクライヴが握った。
「どうして?」
「ここは俺たちがいた世界とは違うんだ」
「それは分かっているよ。ボクが望んだ異世界だもの」
「カボチャがしゃべる世界だ。川面が泡立つような異常には慎重であるべきだ」
「ヒヒビューブヴー(勇者らしくない)」
「そうだね。慎重に、慎重に……」
言いながら、ゆっくりと足を進める。
近づくと、黒々としたそれはムクムクと動いていた。
「あれは倒木じゃないな」
「ヘビ?」
「だとしたら危険すぎる。あのサイズの蛇なら、人間も丸呑みだ。……違うな。ヘビじゃない」
それは巨大なミミズだった。川を渡ろうとしたのだろう。半身を川に沈めていて、そこが泡立っているのだ。
「大ミミズが何かに襲われているようだね」
「それは何だと思う? 俺たちにとっても脅威になるものかもしれないぞ」
「ブー」
トルガルが飛んでいく。仔ブタは泡立つ川の上空で円を描きながら泡の正体を確かめた。大きな水生甲虫の群れがミミズを襲っているのだった。
「ブブヒッヴー!……ヴヴブブヒッヴゥフヴ(虫だ、大きな虫が襲っている)」
「水生の昆虫が、襲っているようだ」
ジルは歩き始めた。今なら、無事にミミズを乗り越えて行けると思った。
――ジャバジャバ――
大ミミズに近づくと、川の泡立つ音がした。大ミミズの身体はぬめっていて、体表の色が黒、灰、紫などなど、色が変化して見えた。その直径は六十センチほどもあったが、またいで向こう側に行くことはできそうだ。
見れば、その頭部は川の中ほどにあって大量のゲンゴロウに似た水生昆虫に襲われていた。大ミミズは頭部を左右に振り、あるいは前後させて抗っている。胴体の色が変わるのは、わずかでも身体を前進させようと伸縮しているからだった。
「行くぞ」
クライヴが軽く跳躍し、丸太のような大ミミズの胴体を飛び越えた。
「ヨイッショ」
体力に自信のないジルは、右足を高々と持ち上げて大ミミズをまたいだ。次に右足に重心を移動して左足を持ち上げれば済むことだったけれど、そこで動けなくなった。ともすればバランスを崩して大ミミズの上に座り込みそうだ。左右の足に均等に体重をかけたまま困惑した。
「ブヒヒヒヒヒ……」哀れな姿を上空でトルガルが笑った。
「どうした、
クライヴが笑いをかみ殺している。
「シコ?」
それはジルの記憶にない言葉だった。
「相撲を知らないのか?」
「相撲ぐらい知っているよ……」でも、四股は知らなかった。
彼が股を開き、左右の足を順番にあげて四股を踏んで見せた。わざとかそうではないのか、とてものんびりした動きだ。
大きく足を開いて大ミミズをまたぎ、中腰の不自然な姿勢のジル。太ももの筋肉がプルプルと小さく痙攣しはじめていた。おまけに、両足を広げているのでスカートがずり上がってくる。それって恥ずかしいことだ、と記憶がささやいている。
「見えちゃうぞ」
彼が言った。
「バカ、……動けないの。助けて」
彼に向かって手を伸ばした。
「仕方がないな」
クライヴは手を握り、強く引いた。右足に体重が乗り、左足が浮く。
「ありがとう。助かっ……」
その時、左足がミミズの胴体に触れた。それを攻撃だとでも感じたのか、大ミミズは意外な動きに出た。本来なら身体を伸縮させて動くはずなのに、まるでゴムが弾けたように胴体が跳ね上がったのだ。
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