第8話

 ジルは黙って紫色の空を見ていた。逃げ出したあの世界がなぜか懐かしい。

 仔ブタが右隣にピタリと張り付いている。かつての自分だ。……ボクを好きだから、ということはないだろう。トルガルは何かを恐れているのだ。

 瞬く間に空は群青色に変わり、星々が彩った。月は、地球の見慣れたそれとよく似ていた。放射冷却で空気が固まっていく。葦の燃えかすさえ冷えた。

 足元が冷たく、ブルっと震えた。

「冷えたな」

 クライヴが動き、左隣に座った。トルガルのように身体をピタリと寄せてくる。温かかった。

「うん……」

 同意すると、彼の腕が肩を抱いた。より、温かさが増した。

「なあ……」

 そうささやくクライヴの様子は、それまで彼がまとっていた緊張感に満ちた気配とは全く異なる、怪しげなものだった。

「なんだい?」

 彼の息が耳にかかり、背中がブルっと震えた。

「いいだろう?」

「ん?」

 何が言いたいのか、何がしたいのか分からない。

 彼の手が胸に触れた。むにゅっと、乳を鷲づかみにしている。

「ブヒッ!」

 突然、トルガルが飛び上がり、クライヴの顔に突進した。

「アッ、こら、止めろ!」

「ブヒブヒブブヒヒヴー!(乙女の乳をもむな)」

 仔ブタが彼の頭にしがみついた。

「きたねえな、どけよ」

 彼はトルガルをつかんで引きはがすと、ラグビーボールでも投げるかのように投げた。ビュン、と風を切って飛んだ仔ブタだったが、それは小さな翼を振るわせて十メートルほど先で空中に静止した。

「もむ?」

 ジルは母親の乳首を思い出していた。おなかに二列に並んだたくさんのそれからミルクを飲むには、小突いて刺激しなければならなかった。もむとはそういうことだ。

「クライヴ、母乳が飲みたいのかい?」

 訊いてから、バカなことを言ったと恥ずかしくなった。晴夏が佐祐の母親であるはずがない。

「飲むというか、吸うというか、……いいのか?」

「ヴヴヒッ!(だめ)」

 再び突進してきた仔ブタの頭が、クライヴの額をしたたかに打った。

「……イテテテテ」

 彼は頭を抱えてうずくまった。

「ヴブブヒヴヒヒエヴロヴヴ(ボクの身体をエロイことに使うな)」

 トルガルがジルに向かって抗議した。

「エロイ?」

「ブー」

 仔ブタが目を怒らせていた。

「ボクは、ただ彼のために……」

「ヴンダブヴヴゥ、ヴンヴヒヒブブー(揉んだところで、母乳は出ない)」

「そうなの?」

 ジルは自分の、正確には彼女の胸に両手を当ててもんでみた。ちょっと気持ちがいい。

「ヴンダブヒヒ!(もむな)」

 その時、身体を起こしたクライヴが仔ブタを鷲づかみにした。

「痛いじゃないか」

 そう言うと、右手で小脇に抱え、左手でグーを作り、仔ブタの額をグリグリと強く押した。

「ヴヴヒヴヴヒヴヴヒ……(痛い、痛い、痛い)」

「ア、やめて、殺さないで」

 思わず彼の腕にすがった。

「こ、殺したりしないよ。今は、な」

 憮然とした表情で応じたクライヴはトルガルを解放した。パタパタと飛んだ仔ブタはジルの右側に隠れた。

 彼はイロカボチャを蒸した穴から灰を取ると周囲にまきはじめる。

「何をしているの?」

「動物は火を恐れる。もう火は起こせないからな。灰の臭いで遠ざけることができるかもしれないと思ってなぁ」

 穴の灰はすぐになくなった。

「寝ろ、俺も寝る」

 彼は背中を向けて横になると動かなくなった。

 桃千君はすごいな。それに比べたら、ボクは何もできない。……ジルはしみじみと思いながら、彼の背中をしばらく見ていた。徐々に身体が冷えてくる。

「ブー」

 トルガルが密着してくる。肌が直に触れているからとても暖かい。

 その声に応じるかのようにクライヴの背中が言った。

「安心しろ。何もしないよ」

「ウン……」

 ジルは横になり、彼の背中に身を寄せた。ほんのりと暖かい。それは魔法の力なのかもしれなかった。

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