異界転生
第2話
――グイグイ――
額を押される感触があって、セフィロスは覚醒した。
「ウーン……」
――グイグイ――
「……煩い」
首を振り、重たい瞼を持ち上げた。そうして目にしたものに驚いた。さっきからグイグイ押してくるのは仔ブタの鼻だった。
「なんだよ、煩いな」
てっきり兄弟のいたずらだと思った。
「ブヒ、ブゥ?(どうなっているんだよ)」
「落雷だ」
「ブブブゥ、ヴヒヴヒ、ブゥ。(そんなことじゃなくて、私の身体)」
「エッ?」
「ブヒブゥ?(あなた、誰)」
「セフィロスだよ」
「ヴゥヴゥブ! ブヒヒィヒヒヴゥヴゥブ?(セフィロス、あなたがセフィロス)」
何を驚いているんだ?……いぶかりながら、セフィロスは身体を起こした。最初は四つん這いに、それから当たり前のように肉体は勝手に二本の足で立った。
「エッ?」
仔ブタを見下ろす形になって初めて、自分が人間に変わっているのに気づいた。視線を下げると、身に着けているのは見慣れた高校の制服だ。
ボクが人間?……「どういうことだ……?」
人間になりたいと願ったとはいえ、まさか、という思いだった。両手を目の前に掲げ、五本の指をまじまじと見てしまう。
「ブヒブブブゥ!(それはこっちのセリフよ)」
その鳴き声にハッとし、改めて仔ブタを見た。それはかつての自分に似ていた。しかし、決定的な違いがある。その背中には小さな翼が生えていた。
「どういうことだ……?」
同じ疑問を繰り返した。
「ヴァブブ、ブヒブブブゥブ!(バカなの? それはこっちのセリフだって言っているでしょ)」
「ボクは……」身に着けているのが、名付け親である人間のものだと気づいた。野原農場の一人娘、野原晴夏のものだ。ブレザーのポケットを探る。指がふれたのは、それもまた見慣れたスマホ。彼女が大切にしていたものだ。他には何も持っていない。
スマホの画面に光が浮かぶ。待ち受け画面は押しのアイドル。その端には〝圏外〟の文字。
「ヴァブ、ブブブブゥー(バカ、勝手に見るな)」
「イテテテテ……。何があったんだ、野原?」
その声は桃千佐祐のものだった。数メートル離れたところに倒れていた彼が身体を起こしたところだった。黒のジャージの背中に平べったいリュクを背負っていた。
「エッ?……」ボクが野原?……セフィロスは言葉を失った。自分は野原晴夏の姿をしているらしい。
「ヴヒヴヒブブゥ!(ボクが野原晴夏だよ)」
仔ブタが足元でじたばたしている。
「何だ、そのブタ。野原の家のやつか?」
「あ、うん……」
晴夏とボクの肉体が入れ替わったんだ!……セフィロスは察して応じた。
「ブヒッ! ヴブヒヒブゥブゥ(違う、ボクはブタじゃない)」
仔ブタの晴夏が抗議した。
いや、君は完全にブタだよ。……彼女を見下ろすと、初めて感じる不思議な気持ちに気づいた。これがブタを支配する人間の優越感というものだろうか?
「このブタ、ずいぶん人に慣れているな」
彼が近づき、仔ブタの耳を指でつまんだ。
「セフィロスっていうんだ。ボクが名付けた」
「ブヒッ! ヴヴブフブヒヴボ!(違う、名前を付けたのはボクだ)ブヒヴヴ、ヴブブブヒブブヒヴ(セフィロス、ボクの身体を返せ)」
仔ブタは前足で晴夏の足をバンバン叩いた。
「痛いぞ、セフィロス」
自分で自分の名を呼ぶのは不思議な感覚だった。
「ゲームのキャラの名前を付けるなんて、ゲーム好きの野原らしいな。それにしても可笑しなブタだな。野原に文句を言っているみたいだ」
桃千が笑った。
セフィロスは、足にまとわりつく仔ブタをそっと払った。そこに自分の意識はないけれど、身体は自分のものだ。手荒に扱うには抵抗がある。
「ブヒヴヴ、ヴブブブヒブブヒヴ(セフィロス、ボクの身体を返せ)」
仔ブタは抗議を続けた。
「離れろ」
身体を返そうにも、やり方など分からない。実際、そんなことをするつもりもなかった。人間になり、これでと殺されることはなくなったのだから。
「で、ここはどこだ? 社がない」
立ち上がった佐祐が、セフィロスより高い場所で、ぐるりと視線を走らせた。
「ヴヒッ?(なんだって)」
「言われてみれば、……ここはどこだ?」
景色は、生まれ育った農園がある世界とは違って見えた。
「ヴヒヴヒヒ、ブゥ……(雷に打たれて、それから……)」
二人と一匹は、巨大なイチョウの木がそびえ立つ草原の真ん中にいた。そのイチョウの木は古い社があった場所のものより巨大で、幹の表皮の片側半分が、黒く焼けただれていた。葉も、焼けてない側が普通の黄緑色なのに対して、焼けた側は血を吸ったような赤色だ。
「変なイチョウだな」
佐祐が言った。
「ウン。こんな木は見たことがない」
二人と一匹の視線は、巨大なイチョウの木にしばらくの間、釘づけにされていた。
初夏の乾いた風が吹き、セフィロスの背丈ほどの下草とイチョウの葉がなびいた。イチョウの木を囲む草原には、イチョウの木を焼いた火災の痕跡はなかった。草原は緑の林に取り囲まれている。その遥か先には山々の峰……。
「道も家もない。俺たちは何処にいるんだ?」
「分からない」
「ヴブブヒ、ブブヒヒヴヒブゥ(ボクも分からない、どうしてこんな身体に)」
セフィロスは、拗ねたように地べたに寝そべった。
「もしかしたら…‥‥、まさか、しかし……、それしかないか」
「ん?」
「ブゥ?」
「神さまに願っただろう? 野原は何を願った?」
「ボボボ、ボク?」……本物の野原晴夏が何を願ったかなんて分からない。でも、自分のことは分かる。自分は人間になりたいと願った。それで、晴夏の肉体を得たのかもしれない。
「ブヒ、ヴヒヴヒヴゥブブー、ブーヴヒィ……(そうだ、異世界に行きたいと願った、飛びたいとも…‥)」
「ボクは異世界に行きたいと願った」
仔ブタの言葉を自分のことのように伝えた。
「なんてこった! それじゃ、ここは……」
「ここが異世界だというのかい?」
二人と一匹は、改めて周囲を見回した。
「転生ものなら、神様や女神がいてスキルやアイテムをくれるんじゃないか?」
「ブヒ(そうだね)」
仔ブタの声には力がなかった。
その体内にいる彼女は失望したのだろう。……セフィロスは察した。晴夏の肉体にいる彼にも、異世界に転生するゲームやライトノベルの知識が利用できた。彼女と佐祐が話していた忍者というものが何かも分かった。
頭脳という広大な知識の倉庫には、彼女の十六年間の歴史があった。彼女と佐祐は高校からの同級生というだけで、特別な感情はなかった。
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