第8話 ホープをコンサインするな

ベッドに横たわるアシーナは、長い黒髪が白いシーツに広がって、まるで頭蓋から悪性の何かが流れ出ているように見えた。彼女の中に溜まった、鬱屈としたもの。

ただそれは床へと流れ落ちることなく、いつまでも彼女の周りに纏わりついている。


「、、、、、、」

たけし、ありがとう。アシーナの代わりに礼を言う。だがうら若き少女の寝顔をそんなまじまじとみるのやめろよ」


桃原武。

京太郎と同じ1年で、スポーツ特待。専門は100メートルの大柄な男。

それが息をしているか怪しいほどに静かに眠るアシーナの顔を食い入るように見ていた。まるでシンデレラの一場面のよう。やだ、オレ、邪魔者かしら。もしかして武、アシーナのこと好きなの?


「なぜ、京太郎が新城さんの代わりに礼を言うんだ、それになんで見学に来ていた、そしてなぜお前が飛び降りてまで彼女を助けた」


まるで箇条書きを読むような言葉の羅列に、京太郎は一種の懐かしさを感じた。


「武はなんも変わってないな」

「変わらないなんてことはないだろう。この間は非公式ながら10秒32の自己新記録を出したぞ」

「この陸上馬鹿が、そういうこといってんじゃねぇよ、てか速すぎだろ、化物か」

「訳の分からないことを言う。それならお前の方がよっぽど化物になるが」


あれだ。

こいつはアシーナと話が合いそうだ、生真面目同士。こいつは昔からそうだし、だからこそ信頼できるのも確かである。


それからまた沈黙が訪れた。

武とは喧嘩別れのようになっていたから、やっぱ気まずい。

こいつとは中学校のとき、地区大会やら全国大会で顔を合わせるたび、


「なんでそんなに速いんだ。どうしたらあんなにスムーズなスタートが切れるんだ。30メートルまでは何歩で行くんだ、後半のテンポはどんなイメージで維持しているんだ」


と、いつも質問攻めにされていて、結果として友達、というよりはチームメイトのような間柄になっていた。京太郎が高校で陸上をやらないと伝えるまでは。


武はアシーナの顔を見つめたまま、


「青森の長内おさないマリア、復帰するらしいぞ」


唐突に思いがけない名前ができてきて京太郎はびっくりしつつ、


「へー、あいつが。あのヤンキーを呼び戻せる奴がいるなんてな。よく3人で大会のときつるんでたな」

「それから、大阪の九条碧くじょうあおいは春からずっと怪我してる」

「なるほどね、春子さんが八大なんちゃらって言うからおかしいなとは思ってたんだ。あいつがいりゃそんな渾名ありえないからな」

「あとは、あの元気な、、、名前忘れたが、、、」

彌永楽々いやながららか?」

「ああ、そうだ。お前に会いたいって言ってたぞ」

「絶対やだね、めんどくせぇ」

「それから今年のインターハイ、400女子で優勝したのは濫觴らんしょうの2年だ。52秒54で日本歴代4位の記録だった。」

「まじか、そりゃ黄金世代なんて言うわな。濫觴は強豪だけど、聞いたことない奴だ、、、」

「今年の、女子400はそいつがおそらく優勝だろう。九州ステージ次第だが」

「ああ、そういえば高校生の出場できる大会は、新人選とインハイ以外は全てリーグ制になったんだったな」


大学生以上はバイオレットリーグ

高校2~3年がブルーリーグ、中3~高校1年がレッドリーグに分かれる。

陸上競技の人気向上のために創設されたこのリーグ制、特に最上位のディヴィジョンであるバイオレットリーグはプロ化しており、各チームが得点を争っている。

ブルーリーグは全4試合の合計点で競うわけだが、、、、いや、いやいや、そうじゃないだろ。


「というか武、なんで女子ばっかり、しかもいらん陸上情報を流してくるんだ」


そう、武は唐突に陸上ニュースbotと化していた。しかも高校女子限定。

なんかアイドルオタク的な早口なのもちょっと気持ち悪い。

こいつ、そもそも女に興味ない、陸上バカだったはずだが、、、と、京太郎の疑念に気づいたのか否か、桃原武はようやくアシーナの顔から目線を切って、


「お前、女の陸上選手が好きなのかと思ってな。関連の情報を教えれば、どこかで引っかかって戻ってくるかと思ったんだ」


なっるほどねー。

記憶喪失の奴の記憶戻すために思い出の地めぐる的なことをしたかった訳ね。


「目的は分かるし、無駄だし、陸上はもうやらないが、なんで女の陸上選手が好きだと思ったんだ?」

「そうか。残念だ。ただ、お前が新城さんを気にしているからな。彼女が唯一、お前と陸上の残された接点なんだろう?」

「こいつに余計なこと言うなよ」

「言わないさ。アシーナさんはのファンだからな」


その時、アシーナの腕が少し動いたのがシーツの音で分かった。


「おいアシーナ、大丈夫か、目ぇ覚めたのか?」


京太郎の問いかけに、表情のない顔のまま、瞼がゆっくりと開いた。

二度ほどゆっくりと瞬きをして、それから、


「ここは保健室、、、ね、、、痛っ」

「無理すんな、頭打ったんだ。多分これから病院だから寝とけ」

「そう、、、プールの時といい、最近はこんなのばっかね、あなたの前で」

「俺、少年探偵隊だからな、事件に遭遇する性質たちらしい」

「何よそれ、、、意味、、、分からないわ」

「その調子だ」


京太郎は、己の言葉とは裏腹に、アシーナから何か生気のようなものが抜けている気がしてならなかった。語気も弱い。疲れているとか、そういう力の抜け方とも違う。



「そういえば、、、なんでいんのよあなた、、、相変わらず暇なの?」

「そりゃお前、お前が俺を応援隊長に任命したんだろうが、下見だよ下見」

「応援の?」

「そう、応援の」

「あなた、そんな殊勝な男だったかしら」

「まぁ、めぐるだけはちゃんと応援してやりたいからな」

「ははっ、、いたっ、、、、、、彼女思いなのね」


笑うと頭に響くのか、渋い顔のまま、からかうような声音を絞り出す。


「俺、先生に報告してくる」

「あ、桃原くんもありがとう」

「いや、同じ部活の仲間として当然だ」


武はアシーナに気づかれないほど軽く、一瞬だけ京太郎に目配せして保健室を出て行った。

その背を見送って、京太郎はなんてアシーナに声をかければいいか分からなかった。

いや、そもそもは、目の前の女の子にとってここで居て欲しい人間なのだろうか。

おそらく違う。

ここに居て欲しいのは俺じゃない。


「じゃ、俺もそろそろ帰るわ、お前大丈夫そうだし」


学生カバンに手をかけると、その腕をアシーナに掴まれた。


「、、、、、、なんでよ、、、、、、1人に、、、しないでよ、、、、、、」


こいつの涙を見るのは2回目だ。

俺に頼るほど、今のアシーナは弱っているらしい。

青の瞳が、大きく、そして揺れている。


「頭、、、、、打ってるんだから、、、元気でも、、、分からないじゃない、、、だから、他の人が来るまで、ここに居なさいよ、、、」

「お、、、おう、そうだな、そりゃそうだ」


中腰になっていた京太郎は再び簡易的な椅子に腰を下ろす。

アシーナの手は、まだ京太郎の腕を握ったままだ。彼女も上体を起こして京太郎を止めていたため、少しだけ椅子をベッドに近づけてやり、横になるように促す。


「レース、見てたんでしょ」

「ああ」


アシーナは遠くトラックを見るように顔を倒すが、そこにあるのはベッドを隠すカーテンだけ。エアコンの風に揺れるその薄い幕に、彼女は一寸だけ目を奪われていた。

目の力が徐々に弱まり、色を失っていく様がありありと分かった。



「__私、憧れている人がいるの」

「知ってる。俺と同い年で同じ名前のやつだろ」

「ええ、でも、あんたみたいに汚い金髪じゃなくて坊主だし、もっと全然がっしりしていて、顔もかっこいいの」

「そうらしいな」

「その人みたいに、、、走りたかっ、、、た。でも、できなかった、、、」


脱力して虚ろなアシーナの瞳から、涙がとめどなく流れる。


「嫌がらせとか、関係ない。そんなのなくても、私は勝てなかった」

「でも、お前、陸上始めたばっかなんだろ?」

「それでも、中学校のときから自分で練習もしてたし、この半年、人よりたくさんやってきた」

「それでも半年だ、もっと頑張ってきたやつもいるんだから」

「そうじゃない、そうじゃないの、、、、、、私はきっと、何をやってもダメで、空回って、あなたは私を羨ましいっていうけど、違う。わたしも、絶対に輝くことのできない砂粒なのよ、なんで頑張ってるのか、本当の自分はどこにあるのか、何をしたいのか、、、分からないの、、、もう、何もしたくない、、、何もしたくないの、、、みんな私の敵で、誰も味方なんかいない、、、」


京太郎が思っているより、アシーナの心に受けたダメージは大きかった。

それは、美知留からの嫌がらせとか、勝負に負けたことによるものじゃない。それはあくまできっかけで、そもそもこいつの精神は限界に近かったのかもしれない。


トゥーランドット姫の、1つ目の謎。

夜に生まれ、夜明けとともに消える幻。

その答えを、京太郎は知っている。


それは、、、。


______希望だ。


「じゃぁ、お前、俺みたいにテキトーに生きるか?」


その言葉に、アシーナは一瞬固まって、それから見たことのない、気の抜けた顔でへらっと笑った。


「それもいいのかもしれない、、、私、、、そうしたら、意外に友達もたくさんできて、うまくやれるかもしれない、、、お母様のことも、気にしないでいられるかもしれない、諦めちゃえば、、、」


京太郎はアシーナの見えないところで握りこぶしを強くした。

__なんでだよ。

__そうじゃないだろ。

__お前、答えなんてすぐそこにあったんじゃないのかよ。


「お、いいねぇ、そうしたら俺も学校生活過ごしやすくなるな」

「、、、、、、そうでしょ?ほら、あなたと、葉乃坂さんと、一緒にちょっと買い食いしたりとか、遊びに行ったりとか、、、宿題とかもして、、、」

「宿題はするんだな」

「当り前じゃない、、、でも、宿題ほっぽりだして遊ぶのも、悪くないわね」

「というかお前、カップルと一緒に遊ぶ気してんのか、空気読めねぇ奴だな」

「なんでよ、混ぜてくれたっていいじゃない。程よいタイミングで抜けるから」


なにヘラヘラしてんだよ。

そんなのお前じゃない。

絶対にそんなの、アシーナ・新城・スミスがしていい表情じゃねぇんだよ。

声、震えてんじゃん。

本当は、そんなの嫌なんだろ?

俺、お前のことまだそんなに知らねぇけど、あの日、夕立の後、走り出したお前の姿は、、、。


京太郎は己の腕を掴むアシーナの手を取って外す。

アシーナは少しびっくりした顔をして、京太郎の顔を怯えたようにじっと見た。

お前が今、求めているものは何だ?


「ならさ、そのなんちゃら京太郎ってやつから貰った伝言、伝えなくていいよな?」


アシーナがびくりと体をこわばらせ、先ほどまで京太郎の腕を掴んでいた手で、口を覆い隠す。


「会った、、、の?来て、、、たの?」

「ああ、すげぇ心配した顔でここまで来たんだけどよ、伝言だけ伝えて帰りやがった。桃原、だっけ?あいつの知り合いらしくて、一応ここにいたらどうかって聞いてたみたいだけどな。なんだよ、彼氏なのか?わざわざ練習に呼びつけるなんて、やるねぇ」

「彼氏、、、じゃないわ、、、でも、、、本当に来てたんだ、、、」

「お前が呼んだんじゃないのか?なんか俺、説教されたんだけど。アシーナさんにいじわるしないでくださいって」

「金城くん、、、そんな、、、」


アシーナは喜びと恐怖が半々になった顔で困惑していた。

口元に置いた手が、細かく震えている。

ただ、その目元には活力が戻ってきたようだった。


「で、どうすんだ、伝言聞くのか、聞かねぇのか」

「聞く。彼を呼んだのは私だから、だから聞かないといけない」

「意味分からん理屈だな」

「でも、きっといつもと同じ。褒めてくれるだけ、、、金城くんだって、きっと私の味方じゃない、お母様に頼まれているからしかたなくコーチしてるだけ」

「いいじゃねぇか、褒めてくれんなら」

「褒められても、信じられないから、、、私に褒められるところなんてないから、、、」

「お前マジでめんどくせぇ性格してんな、贅沢すぎるだろ」

「今更変えられないのよ、、、いいよ、言って、伝言」


京太郎は1つ、咳払いをする。

アシーナに言われたからではない、今から伝えるのは、《金城京太郎》の本音だ。

彼女はまるで神の啓示を受けるように、両の手をぎゅっと握って、目をつむる。

まるでそこに居ない「彼」を想像するように、三橋京太郎に憑依させるように。


「まず、スタート」


京太郎はゆっくりと、子どもに言い聞かせるように口を開く。


「スタート?」

「上体を起こすのが早すぎる。良いスタート切れたと自分では思ってたんだろ?甘い甘い。筋力もバランス感覚も全然足りない、だから我満出来ない。お前の柔軟性ならもっと粘れる」

「ねぇ、、、絶対脚色してるでしょ、お前とか絶対に言わないから」

「うるせぇ、黙って聞け、こっちだってハズいんだよ、あいつの言葉」


アシーナは了承の代わりに再度開いた目を閉じた。


「それから、100走る切るまでの間で抜いたな、馬鹿かおめぇ。そもそもタイムで勝てねぇんだから、後は相手の失敗を誘発することぐらいしか勝ち筋ねぇだろ。ならなんでかっ飛ばさねぇんだよ。負けるかも、って相手に思わせろよ。それから100までの間で抜いたら、お前じゃその後立て直せねぇだろ、案の定バックストレートで無理に加速しようとして足ばらけるしよ、腕も駄々こねる子どもみたいにばたつかせやがって、殺すぞ」

「ねぇ、我慢ならないんだけど。私の憧れの人のイメージ崩さないでくれる?」

「趣旨は外してないんだからいいだろうが」

「分かった、こっちで再翻訳するからいい」

「で、カーブもへたくそすぎるし、疲れてきたとき上体が後ろに反ってるし、話にならん。でも、そんなことよりだ」


京太郎は立ち上がって、アシーナの肩に手を置く。

アシーナは枕に後頭部を埋めたまま、京太郎の顔を射抜くようにじっと見た。

まるでその奥に、あるいはそのままそこに誰かがいるように。


こいつ、間近で見ると顔整いすぎてて緊張すんだよな。

次の言葉が出てこないことを疑問に思ったのか、アシーナが顔をちょっとだけ傾けさせる。意図してないだろうが、少しだけ媚態を含んだ表情になる。

くそっ、顔だけはかわいいだよ、顔だけは。


「え、、、えっと、、、でも、そんなことより、、、」

「そんなことより?」


見るな見るな。

こっち見るんじゃねぇ。

弱ってる女の子にどきりとするなんてあっちゃいけない。


京太郎は我満ならず、アシーナの肩から手を離して、背を向ける。


「そんなことより、お前はトラックに立つ資格がねぇ!だとよ」

「トラックに立つ資格、、、それ、、、森先輩にも言われたの」

「誰だよ森って、知らんが」

「なんで、、、なんで資格がないのか、自分で分からないといけないって」

「あいつが言うにはだ。あいつが言うには、何をごちゃごちゃ考えてんだって。お前が最初に走りたいと思った時、何を考えていたのかって」

「何って、走りたいなって思ったの。金城くんのように」


京太郎はため息をつく。

そうだ。

人間とは、きっとこうなのだ。そしてそれが大きな問題なんだ。


「その金城くんのように、っていうのは、お前の本音か?お前が一番最初に持った感情は本当にそれなのか?」


あの日、金城くんのレースを見た日、沸き立った心。

それは真実だ。嘘なんかじゃない。

だけど、、、私は、、、。


「人間なんて、もっと単純なんだよ。誰かに憧れてるとか、理想とか、存在意義とか、名誉とか、そんな高尚なものは装飾に過ぎない。頑張る理由にはなるだろうが、《なぜ頑張らないといけないのか》ということを説明してはくれない。今のお前みたいに、無気力になっちまえば全て意味をなさなくなるからな」


そうだ。

全て自分に必要ないと思ってしまえば、それらはただの塵となって鬱陶しいものに成り下がる。

それでも、そんな時でも、最後の最後に残るのは何か。


「__衝動だよ。アシーナ。それしか俺たちには残されてない」


人間の、根本的な動機。

それこそが、最も大事なもの。


「衝動、、、?」

「心が動く、その事実だけで狂ったように走れるやつだけが、トラックに立つ資格がある。タータンの反発、流れる空気の匂い、上がる息、迫るゴール、駆け抜ける快感、それに取り付かれてるやつだけが戦えるんだ。金城くんみたいに?お母様に認められたい?自分の有用性?自分は何者か知りたい?味方がいない?くだらないね、そんなことは」

「くだらないって、、、そんな訳、、、」

「いいや、くだらない。もっと満たせよ、自分の頭の中を、自分の足と呼吸の音だけで、勝つことだけを考えろよ」

「でも、それで勝ったところで、何も、、、」

「何も残らない?そんな訳ねぇだろ、誰よりも速くなって、それから今度は0.1秒でも速くなんだよ、終わりなんてないのに、悩む暇あるか?」


これは詭弁だ。名誉を求める心も、理想も、承認欲求も、確かに人を動かすインセンティブになり得る。

でも、それだけじゃ戦えない領域がある。

逆にいえば、アシーナはそこに至るだけの才能がある。


「味方がいない?笑わせんな。お前ががむしゃらに走る姿を見せれば、おのずと味方なんてできんだよ。お前が金城なんちゃらに憧れたように」


人に与えられた希望なんてまやかしだ。

金城京太郎が夜、アシーナに希望を与えたとして、目覚めたときには現実に1人、孤独なんだ。


本当の希望とは、そこから踏み出した1歩、そのものなんだから。


「もう1度聞く、お前は何で走るんだ、いや、なんで


その言葉に、京太郎とアシーナは同じ日、同じ瞬間を思い出す。

まるで天に向かう様に光る、地上への出口。

その階段を真っ先に駆け抜け、飛び出していったアシーナと、追いかける京太郎。


あの日、一歩踏み出すたび痛んだ足、夕立の後の草の匂い、自分の呼吸、誰かの足音、雨滴を返して輝くタータン。

その1つ1つが、アシーナにとっての希望ではなかったか。


「はぁ、、、そうね。そう、そうよ。私、逃げてたんだ、きっと、、、トラックから、現実から。逃げる口実に、走ることを使ってたんだ。弱い心がここにあって、いろんなものが欲しくて、それをくれるのが金城くんで、陸上なんだって。でも違う。そんな、そんなことじゃ、私は満たされない」


アシーナは起き上がり、自分の胸に手を当てながら、今度は微笑みをその顔に浮かべ、


「でも、おかしいわ。味方がいないって言ったのは今なんだから、さっきのはあなたの言葉よね?」

「は?ちげーし、あの変なキザ野郎がここにいたら言いそうなことを言っただけだし。お前は馬鹿なんだよ、バーカ!とにかく全力で走れよ、簡単に負けんな、アホ」

「うん、そうする。そして、あなたを私のファンにして、更生させてあげるわ」


偉そうに、胸を張って宣言するアシーナ。

その顔は、やはり京太郎には何よりも輝いて見え、希望そのものに見えた。


====================================


アシーナが病院に運ばれ、京太郎もようやく下校する。

部活の終了時間も近いなか、校門に至る道で1人の影を見つけた。


「おお、佐沼じゃん。今日も精が出るな!」

「わっ!!!三橋君、今帰りなんですか?」


席替えで隣になった佐沼春香さぬまはるかが、びっくりして立ち上がる。

慌てて軍手で眼鏡を拭いたから、あっと言う間に顔が土塗れになった。


「まずこれで顔を拭け」

「え、、、大丈夫だよ、汚しちゃうから、それに自分のも、、、」

「いいから、それももう汚れてんだろ、驚かしたお詫びだ」

「あ、ありがとう。それから、今更って思うかもしれないけど、教室の花瓶もいつもありがとうございます」


それは佐沼の母親が毎週送ってくる花のことだろう。


「いいって、俺も花好きだから」

「そうなんですね」

「クラスメイトなんだから敬語じゃなくていいよ。ほら、花って咲くことだけに必死じゃん、どんなときでも。そういうのが好きなんだよね」

「え、うん、そ、そうだね。本当にそう思う」

「なんだよ、こんなヤンキーの出がらしみたいな奴が意外に感受性豊かな発言をして驚いたか?」

「いやいやいや、そんなことないよ、素敵だなって思います、、、思う、よ」

「なんだぁ、それは愛の告白か?」

「ちちちちちち違いますっ!!!葉乃坂さんに申し訳ないです、そんなこと。あんな完璧な彼女さんいるのに」

「お前には葉乃坂がどう見えてんだ、完璧なところなぞ1つもないぞあいつ。やっぱ眼鏡新調した方がいんじゃないか?」


なぜかどんどん小さくなっていく佐沼。

そこで京太郎は、さっき彼女が立って背に隠した花壇の一部を指さし、


「で、だ。そこはいったい誰に踏まれたんだ?」


京太郎の指摘に、はっとして佐沼は振り向く。確かにそこには明らかに人が踏み荒らしたと見える形跡があり、花が複数折れているようだった。


「え、えっと、よろけて踏んじゃったんじゃないかな、、、?」

「よろけてねぇ、転んでぐしゃーならまだギリ分かるけどな」

「ほ、ほら、なんか、むしゃくしゃすることって誰にでもあると思うから、そういうときにこう、綺麗なもの見ると、ね、壊したくなったりするのかもって」

「まぁ、言わんとすることは分かるが、佐沼にはそんな時なさそうだけど」

「そ、そんなことないよ、、、。私だって、、、うん、、、」


2人で花壇を見やる。

佐沼がこの時間までなんとか修繕していたのだろうが、やはり潰された花は絶望的に見えた。


「あれだな、全体的に元気なさそうだな」

「うん、今年暑いから、他の花もいくら水をあげても、難しくて」

「でも、ここの花壇のやつは幸せだよな。佐沼がいて」

「ううん、全然力不足で、あの、三橋君、今度から教室の花瓶も私、手伝うから」

「おお、それはありがたい。意外に大変なんだよな」

「ごめんなさい、今までなんか声かけるの怖くて」

「いいっていいって、じゃ、これからよろしく。これ、手伝わなくていい?」

「うん、私ももう帰るから」

「そ、じゃ、また明日。応援練習遅れるなよ?」

「分かった。ハンカチ洗って返すね」


京太郎は佐沼の肩をぽんと叩いて、校門に向かう。

なんか今日はどっと疲れた気がして、帰路の長さをを思うとなお足が重いような気がした。


「明日、ちゃんと人集まるかねぇ」


======================================


その夜、アシーナから金城京太郎に、今日の定例会は中止にして欲しいと連絡があった。それから、支部大会は怪我で出れないと。


「アシーナさんは、ずるいと思うんですよね。好きなことしてるのに、不満ばっかり」


冷たい、ひどく冷徹な声。

批判の対象が自分ではないのに、心が荒んでいくような感じがする。


「ルナさんがもっと優しく接してあげればいいのではないかと思うのですが」

「あら、私のせい?お母様を差し置いて?」

「すみません、間違えました。ルナさんとお母様が、です」

「私からしたら、お母様は十分、アシーナさんに優しいと思うのだけれど」


若干怒りが籠ったように聞こえ、この話は平行線だと悟った。

話題を変えるべく、


「家に帰ってからのアシーナの様子はどうでした?」

「ん?そうね、、、なんか少しすっきりした顔をしていて、それもムカついたわ」


話題変えた意味、皆無でした。

ルナ・新城・スミス。

アシーナの1つ上の姉で、そして、


「そんなことより、またデートしてくださる?」

「それについては保留になっているはずです。そちらのお母様の意向で。そして俺には彼女もいますし、ルナさんもまだ学校休んでるぐらいだから、体調悪いんでしょ?」

「母の中では保留なのかもしれないけど、私は違うわ。それに彼女なんてどうでもいいでしょう?関係ありますか?」

「そんな無茶苦茶な」


アシーナの姉、そして、だ。


「いいの?断って。私、何するか分からないけれど、ほら葉乃坂さんでしたっけ?いい?理解してちょうだい。私があなたのフィアンセであることは、絶対に、絶対にっ!!変わらない事実だわ」


そう、この三橋京太郎の「元」婚約相手でもある。


「はぁ、、、分かりました。考えておきます」

「ええ、そうよ。楽しみにしておきます」


ふっとルナが笑ったのが、スマホの先から伝わった。

その時、扉が開くような音がして、


「お母様!いいじゃないですか冷蔵庫くらい!!」

「冷蔵庫くらいって簡単に言わないで、工事とか、予算とかあるのよ?」

「だってそういう話が出てるってお母様言ってたじゃないですか!」

「それは何年か先の話で、、、」

「お母様ならできるでしょ?いいの?運動祭盛り上がらなくても?」

「あなた、頭打って人格でも変わったの?」


ところどころ聞こえないところもあったが、およそそんな会話が聞こえた。

冷蔵庫?運動祭?いったい何の話だろう。

声は明らかにアシーナのものだったが。


「ほら、聞こえた?アシーナさんはよっぽど元気だし、恵まれてるわ、私なんかより」


ルナがテーブルをトントンと、苛立たったように叩く音が聞こえて、それからぶつっと電話が切れた。






















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